親父

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親父

「冷蔵庫に、スイカあるで」 「後でいく」  親父との会話はこれが最後だ。人生についての教えがあるわけでも、何か物凄く大事なことでもない。それなのに、親父がまともに口をきけなくなった今となっては、そんなどうでもいい会話が、親父のどんな言葉よりも、頭にこびり付いてる。あの時、キッチンに降りてって、親父と一緒にスイカを食ってれば、もっとまともな会話が最後になってた可能性もある。結局、親父のスイカは食わないままだ。冷蔵庫の中で傷んで食えなくなってるか、大阪に残った弟の直樹が食ったかのどっちかだ。  学生としての自分の生活が、マトモだったとは言えない。三回になってからが、多分一番酷かった。大抵は一人暮らしの友達の部屋か、もしくは巨大なカニのオブジェが見下ろす道頓堀の路上で目が覚めた。そういう時の太陽は、だいたいいつも黄色くて、目の奥を犯されてるみたいで不愉快だった。それなのに、毎晩、外に出て遊び回ったのは、そうしてないと、サメみたいに窒息して死ぬと思ってたからだ。親父が遊び回って学校にも行かない俺をどう思ってたのかは知らない。顔を合わせても、親父は何も言わなかった。本当は言いたい事が沢山あったと思う。そもそも、親父は大学進学に賛成しなかった。 「そんなもん、勉強してどうするんや」  日本画を勉強したいって言うと、親父は聞いた。それを勉強してどうするのかは考えて無かった。進路について考えたのは高二の時だし、あの頃は、絵さへ描いてれば「何者」かになれる様な気がしてた。自分のセンスと感性に自信もあった。他の奴らとは違うって、そんな風に思ってた。だから親父を説得したのに、この有様じゃ、文句が無い方がおかしい。 「大学、辞めたい」  そう言って久しぶりに家族全員が揃った食卓の、一家団欒をぶち壊した時も、親父が言ったことって言えば「好きにしたらええ、おまえの人生や」それだけだ。  大学を辞めたことは後悔してない。俺は特別な人間じゃなかった。絵が上手くて才能がある人間なんて山ほどいる。仮に、あのまま大学に残ってたとしても、きっと何者にもなれなかった。卒業生の大半みたいに肥大したプライドが邪魔して、まともな会社員として働けない人間になるのは、目に見えてた。今の生活もそう変わらないけど、それでも後悔はしてない。一つ後悔するとしたら、親父とちゃんと話しをしてれば良かったってことだ。 「直樹に電話したらなあかんな」  思い出した様にお袋が言った。 「LINEしとく」  居酒屋でアルバイトをしてる直樹は、きっとまだ仕事中だ。夕方五時に家を出て、帰るのはいつも夜中の二時ごろだ。いま、電話したってきっと出られない。  昼間ミチオと顔を合わせた売店のシャッター前を通り過ぎて、夜間通用口から駐車場に出ると、山陰で空が黒く切り抜かれてた。すっかり落ちた夕日はその向こうで夜の色と混じり合って紫色に滲んでる。校庭ほどもある広い駐車場を埋め尽くした車も、今は数える程度だ。 「あの子、ちゃんとご飯食べてるんかな?」  直樹なら多分大丈夫だ。なんでも俺よりずっと上手くやる。 「和徳、お腹空いたんちゃう? お母さん、今日はもう帰って寝るわ。一人でご飯行ってくれる?」  ここずっと続いた緊張のせいか、親父が意識を戻したことにホッとしたのか、お袋の顔はなんとなく疲れて見える。 「送ってく」 「ごめんな」  あんな親父を見れば誰だって気分は落ち込む。俺もそうだ。最後に見た親父は自分で歩くことも、話すことも出来た。それなのに、今じゃ自分で息を吸うことだってできない。  十分の面会は短いようで長かった。テレビを食い入るように見る親父の手を、お袋はずっとさすりながら声をかけ続けた。時々、そこに人がいる事を思い出したみたいに、親父はお袋の顔を見ることがあったけど、その目はまるで知らない他人を見るようによそよそしかった。もしかすると、親父はお袋の事が分からなかったのかも知れない。お袋がそうして、親父に声をかけ続ける間、俺はただ、その隣でアホみたいに立ち尽くしてた。  テレビではずっと時代劇が流れてて、それがあの場での唯一の救いだったような気がする。テレビを見てれば、ビニールチューブに生かされる親父に注意を払う必要がなかったからだ。啖呵を切りながら罪人を追い詰める、お定まりのクライマックス、ひかえ七分の桜吹雪に、マサキの刺青が重なった。  アパートの前でお袋を下ろした後、しばらく車を走らせた。こっちに来て二週間、殆どが病院との往復で、地理には疎いままだ。暗い道路の脇にポツポツと飲食店の灯りが見えても、入りたい気になれなくて何件か素通りした後、ラーメン屋の駐車場に車を停めたのは、その駐車場に見覚えのある四トンの箱付きがあったからだ。  人がまばらな明るい店内の、窓際の席に案の定、マサキの姿があった。その向かいには、赤い坊主頭。マサキ一人かと思ってた。  ちょうどマサキの肩越しに、ミチオの顔が見えるテーブルを選んで座る。二人が何を話してるのかは聞こえなかった。それでも時々、ミチオの跳ねるような笑い声だけは聞こえてくる。 「いらっしゃいませ」  声を掛けながらテーブルにやって来た店員は、水と一緒にミチオの視線も連れてきたらしい。こっちに気付いたミチオと目があう。だけどすぐに向かいのマサキに視線を戻した。  ご注文どうぞの声に促されて、メニューに目を落とす。特にラーメンが食いたい気分でもなくて、だけど確実に腹は減ってた。センスのないレイアウトのメニューに目新しさはない。とりあえず、トップページをデカデカと飾るチャーシュー麺を一つ注文する事にした。注文を繰り返して店員が去った後、その背中を追うふりで、窓際のテーブルに目をやると、またミチオと目が合った。知らないふりをしてたって、その視線の質量は明らかに知らない人間の物じゃない。それなのにミチオは会釈するわけでも、人懐っこく笑って見せるわけでもなく、その口元はひたすらマサキの為に動き続けてた。
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