直樹

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直樹

お袋の財布には五万円、俺の財布には免許証とちょっとの小銭。とりあえず、親父の保険証と印鑑と車の鍵を持って家を出た。翌日には大阪に戻って来られるもんだと思ってたのに、二週間、一度も大阪には戻ってない。はじめの数日は病院の待合室で寝泊まりすることになった。もちろん、台所もトイレも風呂もない。四畳半ほどの和室はテレビもなくて、売店でレンタルした入院患者用の布団を二組並べるとそれだけで一杯になる。見兼ねた親父の取引先が、病院から近い今のアパートを紹介してくれた。部屋の広さは倍になったし、風呂もトイレも台所もある。ないのは相変わらずのプライバシー。  玄関を入ってすぐ、右手に風呂とトイレ、左手に小さいキッチン。その奥の一間とは扉一枚の仕切りがあった。広くなったとは言え、お袋と二人、並んで寝るのは病院に寝泊まりしてた頃と変わらない。  よほど疲れてたのかキッチンのシンクには、洗われないままの食器が放置されてる。  お袋が寝る隣の部屋に入るのが憚られたのは、まだ、ミチオの視線が体のどこかに刺さってるような気がしたからだった。ラーメン屋にいる間、ミチオとは何度か目が合った。なのに、店を出るまで、昼間の様にミチオが声を掛けてくることはなかった。その視線が今になって、ジワジワ熱を伝える電熱線みたいに頭の芯を熱くぼんやりさせる。名前も知らない赤の他人に、コーヒーを奢って欲しいなんて強請るような人間だ。何か意味があったとも思えない。それなのに、その意味を考えてしまう自分がいる。  頭の中を空っぽにしたくて、タバコに火を点けてみたけど、あまり効果はないみたいだ。脳みそに瘡蓋みたいにこびりついたミチオの目が、ただじっとこっちを見つめ続けた。  短くポケットの中でスマホが震えて、意識が表に放り出される。引っ張り出したスマホは直樹からの着信があったことを知らせた。丸いアイコンのゴリラが『おとん、元気なん? オレはなんとかなってる』って漫画みたいな白い吹き出しを吐き出して、その絵面に深刻さはない。ちょっとだけゴリラに救われた気がする。しばらくは、ミチオの視線について考えることもなくなったからだ。親父の意識が戻った事、お袋が心配してることはLINEで伝えておいた。 『休憩?』  すぐに既読が付いたところを見ると、休憩なんだと思う。まだバイトが終わるには時間が早い。 『きゅーけー。そっちどお?』 『全然おもんない』 『来週、行けそう。いま調整中』  調整中なのは居酒屋のバイトとバンドの話だ。  中学三年の夏休み、ずっと貯めてたお年玉で直樹が買って来たのは中古のベースとアンプだった。受験生だって言うのに、勉強もしないで直樹は毎日ベースの練習に明け暮れた。お袋は直樹が高校に進学できるかどうかを心配してたけど、なんとか公立の底辺校には入学できた。その後の三年間もやっぱりベースの練習に明け暮れて、結局、高校を卒業後はベース一本で食っていくって宣言した直樹は、どこで見つけて来たのか、メンバーを揃えたスリーピースバンドでベースをやりながら、東京進出の軍資金のために居酒屋のバイトを二年続けてる。お互い似た者同士で、親の脛を齧ってるせいもあってか、直樹との仲はそう悪くなかった。 『忙しいん?』 『9月からツアー始まるからちょっと忙しい』  そう言えば、いつだったか、興奮気味にツアーが決まった話をしてた。直樹に言わせれば、インディーズバンドのツアーは過酷らしい。金なんてないから、車の運転、機材の搬入やチケットの販売、何から何まで自分たちでやらなきゃいけない。それでもそうやって全国のライブハウスを回れる程度には、知名度が上がって来てるってことで、なんとなく、置いてきぼりにされたような気がする。たった五年で将来を見据えるところまできた直樹と、五年もあったのにぶちのめされて潰れかけの俺とじゃ、天と地ほどの差がある。 『見にくるやろ?』  そう言ったゴリラの吹き出しに、「あ」の文字の上で指が止まる。少し左にずらせば、次の文字が簡単に入力できるのに、親指が金縛りにあったみたいだ。ステージの上でスポットライトと声援を浴びる直樹の姿が頭に浮かんだ。薄暗いライブハウスの隅っこで、それを眺めるのかと思うと、惨めだった。  ドン。  突然玄関から鈍い音がして、視線がさらわれた。 『ちょっと抜ける』  たった二言を入力することさへできなかった指は、あっという間に七文字を打ち込み、直樹の返事を待たないまま、俺はスマホをポケットに突っ込んだ。  ドン。  また繰り返し鈍い音がして、その次に、喉をくすぐるようなくぐもった笑い声と、はっきりしない会話が聞こえた。裸足のまま玄関に降りて、表の誰かに気付かれないように、そっとドアに耳をあてる。鼓膜を震わせたのは、聞き覚えのある声だった。 「誰か出てきたらどうすんの」  ミチオがそう言って、マサキの低くくこもった声が何か答えた。ごそごそと擦れるような衣擦れに混じって、またミチオの笑い声がした。そう厚くないドアの向こうで二人が何をしてるのかは、その気配でなんとなく察しがついた。頭の芯を燃やす熱が、またぶり返したみたいだ。暑くもないのに、額からにじみ出た汗が、顔の上を滑って落ちる。覗きなんて、褒められる趣味じゃない。頭ではわかってるのに、気付くとドアスコープを覆う小さなカバーを向こうへ押しのけてた。片目で覗いた魚眼レンズの丸い世界で、マサキの顔が近づいて暗転した。
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