遊園地もしくは動物園、あるいはその両方

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遊園地もしくは動物園、あるいはその両方

 高速道路の上に掛かった歩道橋を渡った先の、舗装されない道は溜池を見下ろせる開けた場所に続いてる。開けたって言ったって、丸く切り取られたみたいにそこに木が生えてないってだけで、人が寄り付かないのか雑草は伸び放題だし、コンクリートで出来たベンチは、蜘蛛の巣と苔に覆われて座る気にだってなれない。そんな場所に誰が読むのか、まだ新しい「マムシ注意」の看板は滑稽だった。退屈な時、そこへ行ってしばらく濃い緑色の溜池をぼんやり眺める。別に何か面白いことがあるわけじゃない。病院にじっとしてるよりマシってだけだった。  田舎じゃ明るい昼間でも表を歩く人間を見かけない。病院から麓のコンビニまでの数百メートルだって、誰かとすれ違う様なことはない。時々、道路脇の畑で作業する年寄りを見かけたけど、それも、朝のほんのちょっとの間だけだった。引きこもりをしてたから、話し相手がお袋しかいない事に苦はない。それでも時々、お袋以外の誰かが恋しくなった。だから俺が毎日病院にいる事を知って以来、日陰のない道を歩いて病院に訪ねて来るミチオの居場所は日に日に大きくなってる気がした。 「ザリガニとかいんのかな?」  ミチオは緑色の溜池を覗き込む。ザリガニがいるかどうかは知らない。  病院は退屈だって言うから、ミチオを裏のため池まで案内してやった。お互い子供じゃないから太陽が照りつける中、さらに山の奥に続いてるらしい道を登っていく様な事もなく、自然と溜池の広場で足は止まった。 「亀は見たことある。時々、顔出すし」  ミチオは関心なんてないのか、へぇって相槌を打つと、タバコに火をつけてさっき登ってきた道の方へと向き直った。溜池の向こうに見えるのはアマゾンのジャングルみたいな雑木林で、面白いわけでもない。かといって、登って来た道の向こうに見えるものが面白いわけもなかった。高速道路とそこを走る車とその向こうに低い屋根の民家と、それから、観覧車。 「あそこ、行ったことある?」  タバコを挟んだミチオの指が、遠くに見える観覧車をさした。観覧車は止まってるのか、動いてるのかもハッキリしない。 「遊園地?」 「あー……動物園かな?」  言われてみれば、病院からアパートへの帰り道、通りがかる広い駐車場のフェンスには、単純な円だけで描かれた動物の絵がいくつか貼り付けてあった。 「遊園地もあんのかも」  駐車場から観覧車までの距離を考えれば、そこそこの広さがありそうで、ミチオの言う通り、遊園地も併設してるのかも知れない。ただ、ここからじゃ、ジェットコースターのレールが見えるわけでもなかった。 「いっつもガラガラなんだよね、駐車場」  駐車場はいつ見てもぽつぽつ車が停めてある程度で、病院の駐車場のほうが繁盛してるぐらいだ。 「動物園、行ったことある?」  変な質問だった。 「遠足とかで行くやん。なんで?」 「俺、小学校、真面目に通ってないから、動物園行ったことないの。連れてってくれる家でもなかったし。大人になったら、誰も動物園行こうって言いださないじゃん?」  ミチオの育った家庭がどんな場所だったのかが透けて見えた。自分を暴力で支配する男との関係も、そこに原因があるんだと思うと、目の前でタバコをふかすミチオには同情する。  ミチオは煙を吐き出し、首筋に流れる汗を手で拭った。首筋には、まだ新しい虫刺されの跡がある。ミチオの骨折以来、毎晩聞こえた怒鳴り声は、もう聞こえてこなかった。代わりに毎晩盛りのついた野良犬に、ミチオが体を許してるんだって考えると、頭の芯がぼうっとする。 「マサキは? 一緒に行ったら?」 「動物園とか行く様なタイプじゃねぇし」  筋肉質な太い腕は殴る時と同じ様に、乱暴にミチオを抱くんだろうか? 汗で濡れたミチオの腕はよく日に焼けてて、だけど、ギプスの隙間から見えるそれは、長風呂でふやけた指先みたいに白い。Tシャツの下に隠れた、ミチオの肌も同じだけ白いんだろうか? 取り止めもないくだらない疑問が、浮かんでは消えた。 「行きたいん? 」 「そのウチね」  その内はいつの間にか、あの時になって、後悔したって元に戻らないって事を、ミチオは知らないんだろうか。  遮光カーテンを締め切った部屋でも、朝が来たことはちゃんと分かる。強い太陽の光はカーテンの緑色を透かして見せた。スマホの時計は九時をちょっと回ったところだった。一階の玄関に置かれた電話がしつこくなり続けてて、イライラした。寝たのはつい一時間ほど前のことだ。その内電話は鳴り止むだろうって思ってたけど、いつまで経っても鳴り止まない。枕を頭から被って両耳を塞いで、知らないふりをした。次の電話は十時過ぎだった。そこから、数十分おきにしつこく電話が鳴らされた。その度に目が覚めたけど、電話には出なかった。何度目かの電話が途中で途切れて、直樹の声がした。多分、俺の意識が飛んでる間にも電話は何度かあったんだと思う。耳に届いた直樹の声は途切れ途切れで、はっきりとは聞こえなかった。それでも相手がお袋や知り合いじゃないことは、畏まった言葉遣いから推測できる。直樹はしばらく丁寧な相槌を繰り返してた。寝続ける気分になれなくて、一階に降りると電話を済ませた直樹はテレビボードの引き出しを漁ってた。どこかに泊まってたらしい。一昨日の夜、バイトに出かけた時と同じ派手な柄の開襟シャツのままだった。 「何してるん?」  声を掛けてやると、直樹は顔を上げた。よかった。そう言ってため息をつく直樹の表情は、言葉とは裏腹に緊張してるみたいだった。 「親父の保険証どこにあるか知らん?」 「知らん。なんなん?」  直樹は呆れた様にため息を吐いて、また引き出しを漁った。親父の保険証どころか自分の保険証だってどこにあるのかも知らなかった。お袋なら知ってるだろうけど、クリーニング工場のパートに出てて、戻ってくるのは昼過ぎだ。 「どこにあんねん」  イラついた様に直樹は掴んだ紙の束を、床の上にばら撒いた。 「なにイライラしてるん? 全然わからん」 「親父、今、病院おるって。保険証いるから画像送って欲しいって会社の人から電話あって……何回も電話したって。こんな時くらい、起きとけよ……」  ボソっと続いた、俺に対する愚痴はザラザラしたヤスリみたいに鼓膜を削った。  今思えば、あの時の電話の何回かは、俺が家にいることを知ってた親父からだったかも知れない。親父に対しての後悔は数え切れない。最後の会話も、電話に出なかったこともなにもかもだ。今さら後悔したって、時間が戻るわけじゃない。  低い屋根の向こうに見える観覧車に目をやった。左側に止まって見えた赤いゴンドラは、いつの間にか頂上にいた。 「一緒に行く?」  ミチオは返事の代わりに、ただ笑った。
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