スズメ

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スズメ

 昨日の夜は殆ど寝られなかった。待機室の硬いソファーのせいじゃない。そこに居なきゃいけない理由のせいだ。夕方、買い物を済ませてアパートに戻ると、病院から連絡が入った。慌てて駆けつけた病院で、やっぱり慌てて駆けつけたらしい親父の担当医から、今日が山場だってことを告げられた。ついこの間、時代劇が見られるまで回復したと思ってたのに。辛うじてあった意識も、もうない。 「病理解剖のお話があると思うけど、ハッキリ断ってね」  ICUを出たところでお袋を引き止めたベテラン看護師が、こっそり教えてくれた。何日かに一回、四、五人の研修医を連れた医者が回診に来ることがあって、お袋は見せ物みたいだってずっと嫌がってた。死んでからも、まだ誰かの見せ物にさせるわけにはいかない。ただ、そんな話を聞いてしまったら、もう、親父は戻ってくることがないんだって言われた様な気もした。まだ、逝ってない。だけど、そのうち逝く。自発呼吸が出来ない時点で、毎日透析を続けてる時点で、生きてるっていうよりは、生かされてるだけだ。親父が逝った後、親父に対する後悔はどこに行くのかを考え続けた。きっと後悔だけがずっと生き続ける。「馬鹿野郎」って殴ってくれたほうがまだマシだ。  狭いソファーじゃ寝返りもできなくて、起き上がった体はギシギシ音を立てて軋んだ。ブラインドの向こうに見える空は暗くて鈍い。 「起きたん?」  向かいのソファーで横になってたお袋も、俺と同じで寝付けなかったんだろう。 「タバコ、吸って来る。コーヒー買って来る?」 「なんか食べるもん買ってきてくれる? お腹、空いてるやろ?」  そう言われてようやく、昨日、晩飯を食い損ねたことを思い出した。自分の腹の心配をしてる余裕なんかなかった。  一番近い階段を降りて、壁沿いに診察室が並んだ待ち合いに出た。あと一、二時間もすれば、吹き抜けの中庭を囲んだ待ち合いのソファーは、診察の患者でいっぱいになる。非常灯の緑色と、中庭を臨んだ天井までの高い窓からの明かりだけが、ぼんやり人の居ない待ち合いを映し出してた。中庭の真ん中にある、パイナップルによく似た蘇轍の葉っぱが、ざわざわ音を立てて、雨が降り出したことを知らせてくれた。窓際に立って見上げた、コンクリートに四角く切り取られた空から、大粒の雨が落ちてきた。雨粒は汚れたガラス窓にぶつかって弾けると、不規則なドット模様を描き出す。傘は持ってない。コンビニまで散歩がてら歩いて行こうかとも思ったけど、やめにした。  落ちてくる雨粒を追いかけて、視線を落としたその先に、茶色い小さな塊が見えた。屈んで近づいて見ると、それは雀だった。雀は黒い瞼を閉じて、濡れた地面に転がったまま、動く様子もない。  大阪にいた頃は、どこからともなく聞こえてくる雀の鳴き声にほっとした。毎日、夜になると、部屋を四角く囲った壁の向こう側の世界が消えて無くなったんじゃないかって、そう思えて不安だった。自分だけが一人、取り残されたような気がして、自分のこと、家族のこと、友達のこと、これまでのこと、これからの事を考え続けた。だけど、考えれば考えるほど、そのどれもを信用することが出来なくて、朝、雀の鳴き声が聞こえて来ると、ほっとしたのは、世界がちゃんとそこにあって、自分はまだ、見捨てられたわけじゃないって確認できたからだ。  多分、死んでる。  雀の小さい体は、雨粒が落ちるたび地面の上で揺れた。そういえば、雀は沢山見るのに、雀の死体を見るのは初めてだ。死んだ雀はどこに行くんだろう。少なくとも、今ここに居る雀はどこにも行けない。きっと、他のゴミと一緒に燃やされて、あっという間に灰になる。山と空しかない田舎で、コンクリートに囲まれた、こんな場所で死ぬなんて馬鹿みたいだと思ったら、なんだか雀が気の毒で、目の奥が痺れて、痛くて、どうしようもない。窓ガラスのドット模様がどんどん大きくなって、視界を滲ませた。ただ疲れてるだけだ。そうやって、自分を落ち着ける為に、言い訳しながら、しばらく雀から目がはなせなかった。
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