動物園

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動物園

 親父は直樹が来るのを待ってたのかも知れない。親父の体にどんな変化があったのかはわからないけど、土曜の夜、親父の意識は回復した。もちろん、話ができる状態でもなかったし、直樹を見る目は、お袋の時と同じで他人行儀だった。それでも直樹が手を握ると、親父の浮腫んだ手はほんの少しだけ反応を返した。いくら意識が戻ったって言っても、透析機も酸素ボンベも絶え間なく親父を生かし続ける。疲れてるだろうと、直樹とお袋がアパートに帰る事を勧めてくれたのは、日曜日の深夜の事だった。  遠くで聞こえるチャイムの音で目が覚めた。頭がはっきりしてくると、その音が部屋の中で鳴ってるのがわかった。チャイムは諦めるつもりがないのか、しつこくなり続けた。仕方なく玄関に向かって覗いたドアスコープの向こうから、こっちを覗くミチオの顔が見えた。ドアを開けた途端、大量の蝉の鳴き声と、それからあの朝の、マサキの匂いが流れ込んだ。 「わり、寝てた?」  言葉とは裏腹に、悪びれた様子がないのはいつものことだ。いつもと違うのは、ミチオの上唇に赤い切り傷がある事だ。きっと、またマサキにやられたんだと思う。 「また、殴られたん?」 「ちょっとだけ」  思わず手を伸ばすと、ミチオは大きく体をそらした。触られるのが怖いのか、それともこっちを警戒してるのかは分からなかった。 「今日、暇?」 「なんで?」 「暇なんだったら、動物園行かね?」  笑ってはぐらかされたんだと思ってた。 「どうしたん、急に?」 「仕事、変わるんだって。近々引っ越すことんなったから」  マサキが期間雇用の仕事を転々としてることは、ミチオに聞いてた。数ヶ月の契約期間が満了すれば、また次の仕事の為に全国を移動する。 「どこ行くん?」 「北海道」 「遠いやん」 「それでちょっと揉めた」  ミチオは笑いながら、唇の傷を指差した。 「行ったら、絶対戻って来ないじゃん? 行くんだったら今かな?って。行く?」  答えは決まってた。  真夏の、それも日中の動物園に遊びに行こうなんて人間は珍しいのか、エントランスを抜けた先の広場では、職員が一人、植え込みの手入れをしている以外、人は見当たらない。スピーカーから流れる、オルゴールの童謡が雰囲気を盛り上げようと頑張ってたけど、俺とミチオの二人だけじゃ、それすらも虚しい。広場の真ん中に立った園内地図は、すっかり色褪せてた。  エントランスを背に、右手の方へと歩き始めてすぐ、ミチオはタバコに火をつけた。本当はきっと禁煙だ。一応、背徳感はあるらしい。受付の建屋が見えない事を確認するように、ミチオは後ろを振り返る。 「やっぱ、しみるわ」  言いながらミチオはぱっくり割れた傷口を舐めた。ミチオのタバコの吸い口に、口紅みたいに赤い血が滲んで、その味を知りたくなった俺はミチオの指からタバコを摘み上げた。咥えてみると、錆の味がした。 「なんで一緒におんの?」 「オレ、行くとこねぇし」 「どこでも行けるやん」  この入場者数なら仕方のないことだったけど、金がないのか古い動物園は半分近くの檻が動物不在の状態だった。目玉があるとすれば、きっとここだ。コンクリートの壁が高く覆ったチンパンジーの展示場には、十頭の群れが暮してるらしい。ミチオは途中の売店で買ったアイスキャンディーを齧りながら、手すりに寄りかかって中を覗き込んだ。暑さのおかげで、溶けたアイスがミチオの手を汚してたけど、ミチオは気にする様子もない。 「マサキと別れたら? ギプス取れたら、また殴られんで?」  ギプスがあったから、唇の切り傷だけで済んだんだ。そもそも、ミチオの腕を折ったのだってマサキだ。 「もうしねぇって」  ミチオは何が面白いのか、小さなチンパンジーが戯れあうジャングルジムから目を離さない。 「してるやん」 「昨日は久しぶりに酒入ってたからだって」  ミチオは馬鹿だ。目を逸らして現実を見ようともしない。マサキはこれからも、ずっとミチオを殴り続けるし、傷つけ続ける。 「そんなん逃げてるだけやん」 「自分だってそうじゃん? なんで引きこもってんの?」  ミチオの手を伝って、溶けたアイスがコンクリートに染みを作った。 「俺は違うから」  俺はミチオとは違う。 「ヤな事あったって学校辞めて、引きこもってただろ? 親父が死にかけてんのに、それだって見たくないって、見舞いにも行ってないじゃん?」  学校を辞めたのは、慰められるのが嫌だったからだ。河村にだって会いたく無かった。引きこもりになったのは、カッコ悪い自分を人に見せたく無かったからだ。病院に居るのにICUに顔を出さないのは、怖いからだ。 「逃げてるわけじゃないから……」  ミチオはもう、自分が言ったことなんか忘れたのかも知れない。アイスクリームで汚れた手を舐めながら、チンパンジーを眺め続ける。その視線の先で、二頭のチンパンジーが交尾を始めて、ミチオは「暑いのに、よくやんね」とだらしなく笑った。
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