ミチオ

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ミチオ

 隣の部屋の玄関先に、名前を知らせるものが何一つないのは、あそこが一か月ごとの短期契約のアパートだからだ。十日前入居したうちの玄関先にも当たり前に表札はない。長く居座る人間もいないのか、近所付き合いは不要らしく、時々すれ違う住人とのコミュニケーションは会釈すら省略されてた。だから、駐車場に向かう途中、売店の前で偶然ばったり出くわした隣人の名前なんて、全然知らない。 「ごめん、名前って聞いたっけ?」  テーブルを挟んで向かい合った隣人はヘラヘラ笑った。名前を聞かれたことも、聞いたこともない。そもそも、今日まで挨拶以上の会話なんてなかった。  初めて言葉を交わしたのは、アパートに入ってすぐの天気の良い昼下がり、着替えに戻った廊下でのことだ。隣人は廊下の手すりに掛布団を干そうとしてた。こっちに越して以来、ほとんど毎晩、隣とのバカみたいに薄い壁を突き破る怒鳴り声の持ち主が、まともに挨拶なんてするわけないと思ってたから、声を掛けられたのには驚かされた。もっと意外だったのは、そんな隣人が誰かを怒鳴りつける姿を想像できなかったことだ。丸くて澄んだ目も、きちんと閉じ切らない口も、なんとなくだらしない笑顔も、全部が隣人の間口の広さをうかがわせた。寛大だとか、余裕があるとかいう人間的な深みの話じゃない。一口に言ってしまえば、誰にでも尻尾を振る飼い犬のそれに似てる。  犬は、好きじゃない。 「富田」 「トミタ? トミタなに?」 「和徳」 「もっと、イマっぽい名前かと思った」  確かに隣人の言う通りで、いまっぽさのない名前だとは思う。中性的な名前の同級生が多い中で、自分だけが古臭くて男っぽい名前なのが、子供の頃は不満だった。納得してるわけでもなかったけど、それが富田家の伝統だと言われれば、諦めはつく。親父は博徳で、爺ちゃんは文徳。富田家の長男はもれなく「徳」の字がついた。それでも、今日初めて名前を教えた他人に笑われるのは癪にさわる。 「俺、ミチオね」  他人の名前を笑っておきながら、自分の名前はどうなんだ。そのイマっぽさのかけらもない古臭い名前は、赤い坊主頭で、ボルネオ風のクレイジートライバルがびっしり腕に彫り込まれた隣人にはピンとこない。それでも名前を知ってしまえば、無秩序なミチオって人間が、自分の中に居場所を作った。 「ねぇ? お金持ってる?」  出会い頭にミチオは、まるで親しい友人にでも話しかけるみたいに尋ねた。他人に、それも名前だって知らない相手に、そんなことを尋ねられたのは初めてで少し戸惑った。だけど、こうしてミチオの望んだ通り、喫茶店のテーブルで向かい合ってるのは、臆面もなく「コーヒー奢ってくんない?」とねだったミチオに興味が湧いたからだ。それもこれも、小高い山のてっぺんに建つ、国立大付属病院以外に特筆すべきものが何もない、死ぬほど退屈なこの辺鄙な田舎町のせいだ。 「地元、どこ?」 「大阪」 「あんま、なまってなくない?」  時々、地方出身者からそんなことを言われたけど、訛ってない自覚はない。ミチオも他の誰かと同じで、テレビで見かける「どぎつい」関西人のイメージを、大阪の人間に持ってるらしい。あんなのは大抵大袈裟で、テレビが作ったフィクションだ。 「学生?」  青い色が抜けかけた中途半端な金髪じゃ、そんな風に思われたって仕方ない。もちろん、ミチオの言う通り、マトモに働いてない。学生ならまだ良かったけど、学校はゴールデンウィーク明けに辞めた。 「ひきニート」  引きこもりのニートが肩書になるとは思ってない。だけど、それ以外に自分の立場を表現する言葉は思いつかなかった。こっちに越してくるまでの、ちょうど二か月間、自室からリビングまでの数平方メートルが、俺の世界の全てで、それだって、外に出なきゃ息が詰まって窒息するようなことはないってことと、生活の全てが家の中だけで賄えるってこと以外に、なんの教訓もない。 「いっしょ、俺もソレ」  何が面白いのか、ミチオはまた笑った。自虐的ならもうちょっと面白かったかもしれない。そうだろうな。と思った以外の感慨はなかった。地元の大阪ならまだしも、見える範囲が大体山か空のこんな田舎じゃ、働き口はなさそうだ。特にミチオや俺の見た目の奇抜さは、こっちじゃ歓迎されない。テーブルに着いたころから感じる、様子を伺うような視線がすべてを物語ってる。 「おまたせしました」  汚れたエプロンの男が、アイスコーヒーが二つ乗ったトレーを運んでくる。ホール係のおばちゃんは、店の入り口で手持無沙汰に突っ立ったままで、忙しいわけでも人手が足りないわけでもないのに、わざわざキッチンから男がコーヒーを運んで来た理由は、考えなくてもわかる。 「あ、すんません」  自分が卑下されてることに気付かないのか、ミチオはテーブルにグラスを並べる男に、ペコぺコ頭を下げた。丁寧に接してやる必要なんかないのに。もしかすると、そんなことを想像するだけの脳みそも、ミチオにはないのかも知れない。どっちにしたって、頭を下げるミチオにも、まるで未知の生物とでも遭遇したような、怪訝な表情でグラスを並べる男にもイライラさせられた。 「こっち、なんもないっしょ?」  俺の気持ちなんて察することもないミチオは、のんきにガムシロップをグラスに注ぐ。まだ左手の感覚にはなれないのか、傾け過ぎたスチールのピッチャーからは、注ぎ口の三角形を無視したガムシロップが溢れ出て、ミチオの指先を汚した。 「長いん? 」 「五ヵ月? 多分、そんぐらい」  ほとんど空になったピッチャーをテーブルに戻したミチオは、言いながらがガムシロップで濡れた指先を舐めた。俺にしろ、ミチオにしろ、もうそんなみっともない事を人前で披露するような歳じゃないはずだ。ミチオの幼稚さに呆れてると、今度はストローをこっちへ突き出した。 「わり、開けて?」  ストローの紙袋を開けるのは、早々に諦めたらしい。なんせ、ミチオのギプスの右腕はかろうじて、指先が動く程度だった。ミチオが病院に居たのも、その右腕が原因だ。仕方なくストローの袋を開けてやると、ミチオはありがと、とまるで締まりのない笑顔を見せた。  右腕のギプスの原因は察しがついてる。昨晩の騒ぎがいつもより、ずっと大袈裟だったからだ。怒鳴り声が聞こえた後、何か硬くて重い物が、床だか壁だかにぶつかる酷い音がして、それからすぐに男の悲鳴が壁を突き抜けた。毎晩「また始まった」って呆れるだけのお袋も、さすがに昨日は随分気をもんでた。きっと、あの悲鳴はミチオのだ。  「骨折?」 「そう、利き手やると、やっぱ不便だな」  ミチオはグラスにストローを差し込み、ガムシロップが、グラスの底で滞留したままのアイスコーヒーを吸い上げる。喉仏が大きく上下して、混ざりきらなかったガムシロップがミチオの喉を下りていくのが見えた。その白い首元には、小さな鬱血の痕がいくつかあって、それが虫刺されなんて野暮なもんじゃないことは、簡単に想像できた。 「酒入ると、めちゃくちゃなんだよ。加減しらねぇからさ」  加減を知らないのは、ミチオのことなのか、それともミチオと暮らすもう一人の隣人のことなのか、ミチオの軽薄そうな薄い唇から吐き出される言葉は、楽しいことでも話してるような軽快さで、どれもまるで他人事みたいだ。 「いっつも、そんなんなん?」  ミチオのギプスに目をやると、ミチオもつられたように、ギプスに目を落とす。 「違う違う、これは俺が受け止めようとして、手出したのが悪いから。いっつもここまでじゃねぇし」  ミチオが何を受け止めようと手を出したのかは知らないけど、右腕を折られただけじゃないのはわかりきったことだった。タトゥーの無いミチオの脚には擦り傷や、痣がいくつもある。 「マサキも悪気あってやってねぇから」  毎晩怒鳴り声を聞かされる隣人への謝罪よりも、同居人を庇うことの方がミチオにとっては大事なことらしい。初めて知ったミチオの同居人の名前に、先日すれ違った男の背中を思い出した。
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