こーひーいんにょう

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彼女と一緒にランチを楽しむ現在の私の姿。 老舗のフレンチレストランを事前に予約しておいた。この店はミシュランガイドにも掲載されるほど絶品な料理を提供してくれる。 子羊の赤ワイン煮込み。フランス産アスパラのオレンジソース和え。塩漬けシュリンプのバター炒め。削りトリュフのシーザーサラダ。その他にも様々な料理がテーブルを囲んだ。 白ワインの入ったグラスでお互いに乾杯する。カチリと小さな音を立てグラスは自身口元へと運ばれる。 やはり白ワインは格別だ。私は赤よりも白を好む。豊潤な香りが私の鼻腔をわずかに刺激する。 「美味しいね」 彼女の放ったその言葉。素直に私も美味しいねと言葉を返す。 「いつもよりも張り切っておめかしして来ちゃった。変かな?」 「ううん、そんなことないよ、とても綺麗だし似合ってるよ」 事実私の彼女は美しかった。道行く人達から振り抜かれるくらいにその美貌は素晴らしかった。 「ランチが終わったら映画の予定。映画を見終わったらあなたの自宅マンションにお泊まり。こんな日常が私幸せでたまらないの」 子羊の肉をお上品に口に運ぶ彼女を見て、私は今が幸せであることを知る。 東京都内は快晴の晴れ模様。こんな日はいつも以上に晴れやかな気分になる私。先ほどの喫茶店の件など頭の隅にも残ってはいない。 「今日晴れてよかったよね、天気予報では曇り予報だったから」 「うん、晴れてよかった。君と過ごす休日はいつの日だって晴れであって欲しい、そう僕は思うんだ」 これが曇りの天気であれば『僕にとっての太陽は君さ』とキザな台詞を言えたりもするが、事実今日は晴れの天気で曇り空など空には皆無だった。 「前評判の高い映画なんだよね、今から期待しちゃうな、映画のチケットはもう取ってあるんだよね?」 「ネット予約しているから安心してよ、一番いい席予約してるからさ」 映画館で映画を鑑賞する。これすなわち隣り合った座席を共に共有するということでもある。程よい距離に互いに存在する二つの心臓。同じ作品を観て、互いにその作品に対する感想を持ち、観賞後に互いに意見を言い合える。そんな劇場鑑賞と称されるカップルの憩いの場。 食事を終えた私達は歩いてすぐの映画館へと向かう。 発券機でチケットを受け取り、館内へと入場した。 二番シアターまではエスカレーターで移動する。暗がり照明の中、今が昼間であることを忘れてしまうような異質な空間。 段々形状の傾斜のある劇場内へと入ると映画予告はもう上映されていた。 すみませんすみませんと言いながら狭い通路を進んでゆく。座席を下ろし売店で買った飲み物を肘掛部分に置く。 一瞬の静寂の後。映画本編の上映が開始された。 高レビュー点数をつけた邦画である。期待感は否応にも高まる。どのような物語を見せてくれるのだろうか。 雨降りしきる路上に一匹の小猫。その傍らには深めにパーカーフードを被った幼い少年。 月夜など存在しない雨模様の暗がりの小道。そこに小猫と少年はいた。 「お腹は空いているかい?」 少年は子猫にそう声をかけると優しく抱きかかえた。雨に濡れないようにトタン屋根ボロ屋の軒先へと避難する。 うずくまるような格好を見せる少年。胸に抱かれた子猫はブルブルと震えていた。 「明日になれば朝になる、そのまま時間をすぎると夜になる。それをすぎると明後日になってまた朝になるんだ」 微笑を湛えた少年の口元。雨に濡れた唇は雫となり真下方向地面へとポタリと垂れる。 向こうから一点の光。車のヘッドライトが徐々にこちらへと向かってくる。 私はここで尿意に駆られた。 おしっこがしたくなった。 席を中座しようにも座席は満席状態。トイレに行く勇気を私は持てない。 自身膀胱が膨らみを増して。局部突端に力を込めなければそのまま漏らしてしまう。そのような状態だった。 私は隣に座る彼女を静かに一瞥する。 上映中の映画に彼女は見入っていた。ここで声を掛けるわけにもいかない。 ここで私は不意に思い出した。 借り物の液体を今自身は体内に入れている。この場合の放尿とはいかなるものか。善悪の判断を間違えれば、借りたモノを返さない非道な人間として認定されてしまうのではないか。 借りたモノは返しましょう。社会の決まりきったルールである。 自身喉を通り胃袋に溜まり、血中に僅かに吸収され、残った排泄物が膀胱へと溜まる。許容量に達した膀胱は自身脳へと信号を発し、その瞬間尿意を覚える。 吐き出す為に存在する局部。異性と交配する為に存在する局部。狭い管として存在する尿道。そこを黄色い尿や、白濁液が自在に通り過ぎる。 全ては自身の意思決定次第なのだ。出したいと思い出す。人に備わる生理現象。人の遺伝子に組み込まれた生きる為の本能なのだ。 もう辛抱堪らん。このままでは漏らしてしまう。 彼女の隣で粗相を致すなどあってはならないことだった。それだったら死んだほうがマシ。 すみませんすみません。 狭い通路を通り抜け私は劇場内をあとにしトイレへと向かった。 女心と秋の空——。 そんなこと言ってる場合じゃねえ、漏れそうだ、今すぐ漏れそうだ。一瞬でも気を抜いてみろ。盛大に漏らす勢いだ。 ——トイレ清掃中看板。 ガッデム。サノバビッチ。ジーザスクラシスト。オーマイガー。マザーファッカー。ファックユー。素直にファックユー。 私は清掃中立て看板に向かい中指を立てた。 事態は急を要する。非常に切迫している。自身心の中はブザー音が鳴り響き、決壊を指し示す脂汗の大群。 もう一歩も動けなくなった。動いたら最後、自身足元に水溜りを作る羽目になる。 と。思ったのも束の間。尿意は何故か次第になくなり膀胱部分の張りも無くなってきた。 私は劇場映画館を急いであとにし、あの喫茶店へと走って向かった。 あの謎のコーヒーにはきっと利尿作用を含む何かが含まれている。そう思った私は今すぐあの喫茶店店員に詰め寄りたい気分だった。 コーヒー1杯の貸し借りなど馬鹿げた話もあったものだ。私に変なモノを飲ませたあの店員。生かしてはおけない。 映画館に置き去りにした彼女のことなど今ではどうでもよかった。 私は今1杯のコーヒーに自身心を支配されている。
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