願わくば

　さらさらと、静かな雨音が響いている。俺は優しい雨に打たれながら、自分の頬を伝う雫が雨か涙かも分からないまま立ち尽くす。
　俺には大切な人がいた。いたはず、だった。
　断定できないのは、この雨に打たれていると、次第に記憶が消えていくからだ。
　ただ、顔も名前も忘れていくのに、唇に僅かな温もりが残っていて、それを指で辿ると締め付けられるような痛みが胸に走った。
　その痛みが唯一の記憶の手がかりだからと、思い出そうと何度も唇に触れ、押したりして、俺は記憶を奪い続ける雨に願う。
　願わくば、消えていく名前も知らない君が、どこかで泣いていないように。幸せでいてくれるようにと。
　数秒か、数分か、もっと長かったかもしれないし、短かったかもしれない。ゆっくりと顔を上げると、雲間から光が差し、次第に雨が弱まってきた。
　俺は雨が完全に上がる前に歩き始める。迷いない足取りで、前へ進む。
　この先に会いたかった人はいないかもしれない。それでも。
　太陽が顔を出し、雨が上がった頃には、俺は自分が何を考えていたかも忘れていった。
　ただ、微かに胸の奥に痛みだけを残したまま。