嵐がくる

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それは、ある晴れた日の事だった。雲一つないお手本のような青空を見上げた青田優子は、その細い眉を微かに寄せた。 「嵐が来る…。」 「は?」 怪訝な表情を向けられようとも、どこ吹く風。青田は、先程よりも険しい表情で煌々と輝く太陽を睨みつけた。 株式会社孫の手。家事代行サービスを営むこの会社は、設立から2年と経たない、まだまだ新参者の会社である。しかしながら、根深い人気により徐々にその頭角を現しつつあった。それは偏に、その便利さに起因する。 “最短10分から!貴方の孫の手に!” 犬の散歩、電灯の取り換え、旅行の手配、果てはゴミの分別まで…その謳い文句通り、呼ばれれば何処へでも駆けつける。まさに究極のパシリとはこのこと。 そして今日もまた、依頼の電話が鳴る―。 「依頼主は新規の女性、大岡様。依頼内容は、部屋の清掃及び整頓。詳しくはその都度指示するとのこと。」 ニコリともしない事務員が差し出した用紙には、依頼主が事前に登録した内容があっさりと記されていた。比較的近場の住宅街で、希望時間は3時間ね。さらりと目を通した青田が顔を上げると、珍しく事務員は何か言いたげな顔で待っていた。 「…あたしの長年の勘が言ってる。これは大きな山だよ。」 真剣な表情を向けた彼女は、それだけ言うとクルリと背を向けた。青田は、しばし呆然と彼女の広い背中を見つめていたが、その後思わずと言った感じで呟いた。 「まだ1年目でしょう。」 …そして冒頭に戻るわけだが。青田は傍らに立つ新人、稲葉うさぎをチラリと盗み見た。黒目がちな大きな瞳に、一世を風靡したアヒル口。緩く巻かれた明るめの茶髪からは時折甘ったるい香りが漂ってくる。 「青田さぁーん、今日はぁーよろです☆」 意図的に繰り出された甘え口調からは、熟練の技が見え隠れする。きっと、今までもこれ1つで何かと乗り越えてきたのだろう。青田は苦笑いを浮かべそうになったが、そこではたと思い至った。実は、彼女には誰にも言えない苦労があって、その結果身に付けた処世術なのでは…?その考えに至った途端、青田の目頭には熱いものが込み上げた。 「分かっているからね。」 「は?」 うんうんと頷きつつ彼女の苦労を労うも、向けられるのは怪訝な顔。もはや稲田の中では“ヤバイ奴”認定されているとも知らず、青田は目尻に浮かんだ露を弾いた。私が彼女を一人前にしてみせる!青田の胸は使命感に燃えた。 依頼主大岡の住まいは、駅から徒歩10分程の閑静な住宅街の一角にあった。周辺にはスーパー、コンビニが立ち並び、利便性に優れた場所である。また築年数も10年以内と浅く、チョコレート色に彩られた外観は堂々とした風格を備えていた。 「ヤバ…!絶対ここ高いですよねぇー!」 大理石でまとめられたエントランスに入るや否や、稲田は興奮気味に叫んだ。無理もない。青田はもはや慣れてしまったが、株式会社孫の手が抱える顧客は富裕層が多い。要は金持ちの友達は金持ちというわけである。 「そのうち慣れるわ。」 青田は微笑を浮かべると、さっさとオートロックの台へと近寄り部屋番号を打ち込んだ。軽快なチャイム音が1回、2回と続き、若そうな女性が応答した。 「株式会社孫の手、青田と申します。本日はご利用誠にありがとうございます。」 青田は深々と頭を下げると、背後に控えた稲田もまた頭を下げる気配が感じられた。 「はーい。よろしくでーす!」 声質もさることながら対応も若い。もしかして稲田と同年代だろうか。稲田を連れてきて正解だった。青田は愛想の欠片もない事務員を脳裏に思い浮かべ、静かに合掌した。  オートロックを通過し、品よく並べられた応接セットを横目にエレベーターホールへと足を踏み出せば、3基のエレベーターが青田たちを待っていた。 「青田さーん、何階でしたっけ?」 さっさと乗り込んだ稲田はうずうずとした様子で尋ねる。同年代であろう客に一刻も早く会いたいのだろう。そしてあわよくば仲良くなって彼らの仲間入りを…なんて、浅はかな魂胆が透けて見える。青田は薄らと微笑を浮かべ、間もなく稲田が遭遇するであろう現実を思った。甘いな若人よ。  数分後、最上階に辿り着いた青田たちは、エレベーターを降りた瞬間から異変に気が付いた。エレベーターから真っ直ぐ伸びる1フロアー1ルームの大岡家の玄関扉。その両側を、まるで縁取るかのごとく積み上がった段ボールの数々。青田は悟った。事務員の勘は正しかった。 「いらっしゃーい!今日はよろしくお願いしまーす!」 インターフォンが鳴りやむ前に顔を出したのは、予想通りの若い女性であった。金髪に近い髪を緩く結い上げ、下着同然の格好でにこやかに招き入れる。これには流石の青田もしばし言葉を失った。 「あ…はい。こちらこそ宜しくお願いいたします。」 慌てて言葉を取り繕いつつ、未だ放心状態の稲田を片肘で小突き正気に戻す。呆ける気持ちは分かるが、客前だ。チラリと向けた視線の先で、はっと我に返った様子を確認し、青田は大岡家へと足を踏み出した。  大方の予想通り、室内は雑多な物たちに占拠されていた。広々としていたはずのリビングは、所狭しと運動器具が立ち並び、運動部の部室を彷彿とさせた。そこに大量の衣類が掛けられ、まるでクリーニング屋のようだ。折角の大型テレビも、今や物干し竿に成り下がっている。 「えーっと、まずはこの部屋を整えてほしくて。あ!あと、何処かに鍵が落ちてると思うんで、それも見つけてください。」 にこやかに指示を出す大岡と、信じられないものを見るように目を見開く稲田。現実はこんなものだ。青田は稲田に同情の視線を送り、努めて優しく承諾の意を示した。  作業開始から30分。青田の頬を一筋の冷汗が伝った。それもそのはず、大岡の指示はあくまで整頓。つまり、この多くの荷物を手放すと言う選択肢はないのだ。これは中々…。横目で伺った稲田はもはや白目をむいている。どうしたものか。 「大岡様、お洋服はどちらに移しましょう?」 青田は、何やら鼻歌交じりにスマホを操作する大岡に声を掛けた。 「え?あー…この部屋のままで大丈夫です!」 何が、どこが大丈夫なのか。意味合いは理解しているが、引き攣る顔が言うことを聞かない。青田はしばらく遠い目をした後、なんとか収納出来ないものかとリビングを見渡した。ウオーキングマーシン、ランニングマシン、ダンベル、腹筋ローラ…だめだ、ジムとアパレルは相容れない。と、その時インターフォンが鳴った。 「はいはーい!」 視界の端を金髪が横切り、その数分後には、某ネコ運送会社のロゴをまとった男性2人が大きなハンガーラックを持って現れた。 「あ、そこに置いちゃってくださーい!」 と、今しがたやっとの思いで掘り進めた箇所は、あっけなく埋められた。呆然と立ち竦む青田と稲田は、サクサクと己の仕事をこなすネコマークを見ている他なく、ものの数分で立派なハンガーラックが3つも出現することとなった。 「お、大岡様…あのこれは一体…」 服の海に突き刺さるハンガーラックを指さし、青田は震える声で尋ねた。その心中たるや、孫の手創業以来初と言っていい程荒れ狂っていた。これ以上モノを増やしてどうする?! 「やっぱりー、収納スペースって必要かな?みたいな?2人が頑張ってる姿見てたら、あたしも何かしなきゃって思って。」 キャハハと甲高い笑い声を上げた大岡は再びスマホに視線を落とした。残された2人は互いに顔を見合わせ、そして静かに頷いた。やってやるよ。  とは言え、突然驚異的な作業スピードが出るわけもなく。大岡が希望した3時間まで後30分と差し迫った頃、青田は悔しそうに顔を歪めた。間に合わない、どう頑張っても終わらない。稲田もまた悔しそうに顔を歪ませると、崩れた化粧などお構いなしに豪快に汗を拭った。 「大岡様、申し訳ございません。」 とうとう約束の時間を間近に控え、青田は重い口を開いた。 「努力いたしましたが、現状3分の1ほど片付けが完了しておりません。また勝手ながら、ハンガーラックを部屋の中心に据え、リビングを二分割いたしました。」 青田の言葉通り、30畳ほどのリビングは、大きなハンガーラックを境にジムスペースと衣装スペースに分割されていた。また壁に沿うように設置されていた運動器具は、大型テレビと平行するように置き直すことで、閉め切られていた出窓が息を吹き返した。 「えー!すごーい!まじすごいんですけど!」 目をキラキラと輝かせ喜ぶ大岡とは対照的に、青田たちの顔は暗い。全ての片付けが完了していない上に、鍵も見つけることが出来なかったからだ。 「それと鍵の事ですが…」 「あ!それね、ありました。」 言いませんでした?と、首を傾げる大岡を前に、青田は安堵の息を吐いた。初耳だが、とりあえず見つかったようで良かった。…とは言え、本来ならば指定時間をオーバーすると判断した時点で、顧客にその旨伝えるのが筋である。しかし思わぬ刺客の登場により、頭からすっぽり抜け落ちてしまった。 「大岡様、この度はお約束を違える結果となり誠に申し訳ございません。その為、今回に関しましては…」 お代は頂きません、そう続けようとした青田に、大岡はスマホ画面をずいっと突き出した。 「続けて予約出来ちゃったんで、引き続きよろです☆」 さらりと揺れた眩い金髪に、口元を飾るアヒル口。…ああ、今朝も見たな。 「…畏まりました。」
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