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将来の夢。就きたい職業。
そんなもの、私には無い。
【 知っている、覚えてる。 】
高校に進学して半年が経った。
クラスメイトは勉強に部活に恋愛に忙しい。
青春を謳歌するみんなを、私は遠く感じていた。
別に上から目線な訳でも皮肉屋な訳でもない。
重い足取りで帰る家。
東京都心の広大な敷地に建つ日本家屋。
玄関では何人もの男性が頭を下げて私を出迎える。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「……ただいま」
御用絵師、という職業がある。
江戸時代。徳川将軍家に仕えた奥絵師・狩野探幽。
彼を祖とする一族が代々、頂点に君臨している。
明治維新以降は国家絵師と名を変え、その制度は現代まで続いていた。
父は狩野家15代当主。
私はその一人娘。
母は既に他界している。
父は高齢で後妻を迎える気も無い。
だから一人娘の私が父の弟子の誰かを婿に取り、跡継ぎを産む。
それは決まった未来。
抗うことは出来ない運命。
台所でぼんやりしていた私の後ろから伸びた手が、流しっぱなしの水を止めた。
ふわりと漂う優しい香り。振り向かなくても誰だか分かる。
「どうしたの、蓮。具合でも悪い?」
従兄弟の尚兄。彼は父の仕事を手伝っていた。
細身で女性的な顔立ち。少し長い髪も似合う。
イケメン国家絵師と女性に人気で、テレビに出たり雑誌に載ったりと忙しい。
もちろん絵の才能にも恵まれている。
作品は高く評価され高値で取引されているらしい。
「……尚兄」
優しい彼に全て話してしまいたかった。
でも我慢した。
尚兄を困らせるだけだと分かってるから。
「そうだ、蓮。今度の日曜日、空いてる?」
「何も予定は無いけど……」
「僕とデートしてよ」
尚兄は女の人にモテる。
何と言うか、とても女慣れしてる。
特定の交際相手は居ないみたいだけど。
「警戒してる?」
私の沈黙を、尚兄は悪い方に取った。
「何もしないから」
「それは、わかってる」
「友達が個展をしてて。蓮も一緒に見に行かないかな、って」
そう言って尚兄は、1枚のハガキを私に手渡した。
ハガキには日本画のような西洋画のような、不思議な蓮の花の絵が印刷されていて。
私はひと目で心を奪われた。
尚兄と約束をして部屋に戻る。
ベッドに寝転がってハガキを眺めた。
「白神……結さん」
こんなに魅力的な絵を描くのに国家絵師ではないのは、女性だからだろう。
古い伝統を重んじる国家絵師の世界。
未だに女性は居ない。
どんな人なのだろうか。
尚兄の友達だから、いい人なのは間違いない。
私も仲良くなりたい。
日曜日が来た。
私は早起きして念入りに身支度をする。
長い髪を後ろで纏めて清潔感を出し、少しだけお化粧もした。
服装も派手にならないように心掛け、スカートも丈の長いものを選ぶ。
迎えに来た尚兄も、私の気合いの入りように驚いてた。
「良かった」
会場のギャラリーに向かう途中、尚兄が微笑んで言う。
「何が?」
「蓮、元気なかったから心配してたんだ」
「そう……だった?」
「今日は楽しそうで良かった」
尚兄は優しい。尚兄なら私の悩みもわかってくれるだろう。
「あのね……尚兄」
「うん」
「私……」
話し始めたところで尚兄が足を止めた。
気づいたら目的のギャラリーの前だった。
「あ……後で話すね」
「わかった」
尚兄がガラスの扉を開け、私に先に入るよう促す。
さすが、女慣れしてる。
思ったより広々とした明るい会場。
様々な大きさや題材の絵が、壁面に整然と並んでいる。
ハガキに使われていた蓮の花の絵は、会場の一番奥に展示されていた。
その絵の前に、何人か女性が集まっていて。
あの中に結さんが居るかもしれない。
私の胸は高鳴った。
「……尚兄。私、白神さんにご挨拶したいんだけど」
「ちょっと待って」
尚兄は会場の中をぐるりと見回してる。
あの女の人の中には居ないのか……。
「あ、来た」
私は慌てて尚兄の視線の先を見る。
そこには背の高い男性が居た。
彼は手を振る尚兄にも無表情で。
眼鏡の奥の目が怖い。
そんな彼と目が合った。
彼は何故か驚いた顔をして、まっすぐこちらへ向かって来る。
隣の尚兄のことは完全に無視して私の目の前に立った彼は、とても端正な顔立ちをしていた。
「……蓮」
名乗ってもいないのに名を呼ばれたのだから、本来は驚くところだろう。
なのに私は不思議に思わなかった。
彼の声には聞き覚えがあって、初めて呼ばれた気がしなかった。
「私と結婚してくれ」
出会って30秒のプロポーズ。
あまりにも非常識な彼の行動に、尚兄も会場に居た人たちも固まっている。
私はと言うと、彼の突拍子もない行動に全く驚いていなかった。
彼がこういう人間だとわかっていたから。
「結……ちょっと話がある」
尚兄が彼……結さんの腕を掴んで、ギャラリーの奥にある控え室に消えて行った。
残された私に他のお客さんの視線が向けられて逃げ出したかった。
私が初対面の彼に感じたのは、懐かしさ。
ずっと一緒に過ごして来たような安心感。
それでいて、泣き出したくなるような切なさ。
思わず触れたくなるような恋しさ。
彼の声、香り、温もり。
私はそれを知っている。
きっと彼も私を知っている。
得体の知れない怖さより、『覚えていてくれた』幸せが勝った。
控え室から尚兄と結さんが戻ってきた。
尚兄にお説教されたらしく、結さんは私に謝った。
気にしていないと伝えると、結さんは少し残念そうだった。
尚兄が言うには結さんは昔から変わり者で非常識らしい。
だから実力はあるのに国家絵師にもなれなかったみたい。
尚兄は有名人だから女の人に囲まれてて。
私は独りで蓮の絵を見ていた。
そしたら結さんがさりげなく隣に立って、一緒に絵を見てた。
言葉は交わさなかった。
必要なかったから。
止まっていた時が動き始めている。
再び出会えた私たちは、これからの人生を共に歩むのだろう。
やがて皆が気づくことになる。
結さんに受け継がれた天才絵師の記憶と才能。
実ることの無かった愛に。
遠慮がちに差し出された大きな手。
私は躊躇うことなく、強く握った。
【 完 】
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