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退院したらすぐにプロポーズをするつもりだった。指輪は翔子の細い指に似合うよう、華奢で小ぶりなものを選んだ。俺のそんな思いとは裏腹に、翔子は病院のベッドの上で日に日に弱っていった。
大学のサークルで出会って付き合い、お互いに奥手だったからか愛の言葉を交わすようなことはなかったが、翔子と俺は確実に想い合っていた。大学卒業後は一緒に暮らすようになり、お互いの矢印が同じ形で向き合っているという確信の中で流れる日々は心地よく、そして幸せなものだった。
翔子が倒れたあの日もすぐに救急車を呼べたのは俺がすぐそばにいたからだ。
衰弱していく翔子をなんとか元気付けようと、薄いピンクのマニキュアを買ったことがある。手が震えてしまうからと俺に塗るのを任せた翔子は、自分の指先と俺の顔を交互に見ては終始ニコニコとしていた。マニキュアなんて人にはもちろん自分にもしたことがない俺が完成させた翔子の爪はまだらに染まっていて、二人して顔を見合わせて笑ったんだ。
その翔子の手が、ここにある。病室で爪を塗ったばかりの、二十年前の、死ぬ前の、翔子の手が、ここに。
重ねた右手から、微かにだが体温が伝わってきた。俺は泣いていた。フローリングの床が落ちた雫で濡れていく。翔子の左手の甲に添う形で右手を重ね、指の間に指を絡ませる。夢でいい。催眠術でもなんでもいい。久しぶりに感じた翔子の体温が、温度以上にあたたかくて、涙を止めることができなかった。
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