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眠れないまま朝を迎えた。翔子の左手は昨晩から変わらぬ様子で、テーブルの上に広げた風呂敷の上に横たわっている。
ベッドの中で目を閉じている間中、翔子との思い出がまるで映画でも観ているかのように頭の中を流れては通りすぎていった。口喧嘩もすれ違いも、倦怠期すらも愛おしく映り、俺はひとつひとつの思い出が切り替わる度に泣いた。意味のない目覚ましがけたたましく鳴り響き、それを止めるために目を開けたとき、テーブルの上の左手は窓からの朝日を受けてより一層白く光っていた。
コーヒーを飲みながら、テーブルの向かいに置いたままの左手を眺める。健康な頃の翔子の手とは違い、白い肌に青い血管が浮き、痩せ細って骨ばっている。開け放した窓から春の風が舞い込み、カーテンを揺らした。そうだ、あの時もこんな季節だった。翔子はよく退院したらしたいことについて俺に熱心に話していた。記憶の中の翔子が窓の外を眺める。
「退院したらやっぱり、花を見に行きたいわ」
土曜日のお昼時の公園は当たり前のように親子連れで賑わっていた。俺が歩くたびに紙袋の中で翔子の左手がガサガサと音を立てる。こんなことをしても意味がないのに。手頃なベンチを見つけ、腰を下ろしてから自分の右側に紙袋を置いた。他人からはゴムの塊にしか見えていないだろうことはわかっていたが、流石にそのままの姿で持ってくるわけにもいかず、「左手屋」と印字された紙袋の中に左手を入れてきた。俺の頭上では、葉桜になりかけた桜がまだしぶとく咲いている。
「本当に桜の花びらみたい」
慣れない手つきでどうにかマニキュアを完成させた俺の前に両手をかざして、翔子は笑っていた。目を閉じて弱々しく笑う翔子の顔を思い出す。花はよくわからないけど、翔子がそう言うから俺も花びらに見えたんだよ。目を開けて紙袋の中を覗くと、日光を浴びた翔子の左手はなんだか嬉しそうに見えて、そんなことを感じた自分がおかしくて少し笑ってしまった。翔子、花って桜でよかったかな。俺は自分の右手を紙袋の中に入れると、翔子の左手をそっと握った。
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