左手屋

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その日の夜は、翔子の左手の横で眠った。汚いベッドに翔子の左手を招く気にもなれず、久しぶりに洗ったシーツと干した布団に挟まれて横になる。指と指の間に自分の指を滑り込ませて握ると、柔らかく曲がった翔子の指から微かな体温が伝わってきた。生前、手を繋いで眠ったことなんてあっただろうか。「愛してる」なんてもちろんのこと「好き」ともなかなか伝えられない俺にずっと寄り添ってくれた翔子と、今こうして手を繋いで横になっている。目を閉じれば右手の先には翔子の左手があり、その先にはすやすやと寝息を立てる翔子がいた。起こさないように翔子の額を撫でたあと、俺は眠りについた。 随分深く眠っていたらしい。目が覚めると部屋の中は暖色の日光に照らされ、柔らかい空気が漂っていた。4月10日15:00と表示されている時計に目をやる。久しぶりに夢を見なかった。 ハッとして布団を捲る。翔子の左手は俺の右手から離れてはいたものの、俺の横で静かに横たわっていた。 4月10日。翔子の誕生日。翔子が生きていた頃は酒が飲めなかった俺もいつの間にかワインを嗜むようになり、この日は毎年一人で晩酌をしていた。もちろん今年もそのつもりでワインが用意してある。 夕飯の片付けを終えて、なんとなく、グラスをふたつテーブルに置く。これまで何回も一人で飲んできたし、これから何回も同じことをするんだ、たまにはこういうこともいいだろう。誰かの結婚式の引き出物でもらったペアグラスにワインを注いで、ひとつを手元に、もうひとつを翔子の手の前に置いた。 「乾杯」 自分の小さな声が、静かな部屋に馴染んでいった。 ゆっくりと三口ほど飲んで、翔子の手を見る。ワインの向こうに見える力の入っていないその左手は、ほんのりとした電球の灯りを受けてテーブルに淡い影を落としていた。なんとなく、そこに自分の手を重ねたときのことだった。
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