0人が本棚に入れています
本棚に追加
俺は息を呑んでいた。翔子がこちらを見つめていたからだ。
俺が重ねた左手の先には左腕があり、左腕の先には身体があって、不思議そうな顔をした翔子がこちらを見ていた。俺の右手の下で翔子の手が動き、慌てて手を離す。翔子は青い病院服を着ていて頰は少し痩けていたが、紛れもなく翔子だった。周りを少し見回してから、俺と俺の手元にあるワインを交互に眺めている。
「翔子」
翔子はハッとした顔をすると、何かを喋ろうとしてから首を傾げて喉に手を当てた。顔が、身体が、仕草が、すべてが翔子だった。夢でいい。催眠術でもなんでもいい。
「誕生日、おめでとう」
首を傾げていた翔子が、嬉しそうに微笑んだ。
二人でワインを飲みながらたくさんのことを話した。翔子がいなくなってからの人生は彩りに欠けていて、墓参りに行った時もこれと言って報告することがなく困っていた俺は、自分の口から溢れ出てくる言葉に驚いていた。本当は全部聞いて欲しかった。隣で全部見ていて欲しかった。翔子が喋ることはなかったが、俺の面白みのない近況に目を丸くしたり、微笑んだり、たくさんの反応を返してくれた。今なら全部、言えるかもしれない。
俺は席を立つとタンスの一番上の引き出しから小さな箱を取り出した。翔子が驚いているのが気配でわかる。席に戻ると、おもむろにその小さな箱を開けた。心臓の音がうるさいくらいに響く。震える手で指輪を取り出すのに手こずっていると、翔子の左手が俺の手に重ねられた。前を向くと翔子がこちらを見て微笑んでいた。俺の手の甲をゆっくりとさするその手の体温があまりにも優しくて、視界が勢いよく滲んでいく。
俺はもう随分歳上になってしまったけれど。翔子がいないと部屋もこんな感じだし、稼ぎはあまり多くないけれど。気持ちを伝えるのも下手だし、きっと小さな迷惑をたくさんかけてしまうけれど。
「愛しています。結婚してください。」
俺の震えた声が部屋に溶けていく。ぼろぼろに泣きながらプロポーズをする俺が面白かったのか、翔子は肩を震わせて笑うと、俺の両手を自分の両手で包むように重ねてから、俺の目を見てしっかりと頷いた。
指輪は翔子の痩せた指より少し大きかった。翔子は自分の左手を高く掲げるとそれを見上げて笑った。
最初のコメントを投稿しよう!