左手屋

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起きてすぐ視界に入ったのは、左手の形を模したゴムの塊だった。上半身を起こすと、自分の頭の重さでせき止められていた腕の血液が勢いよく流れ出すのを感じる。ゴムの左手の前には、昨日のままのワインが何事もなかったようにグラスに注がれていた。薬指には、華奢な指輪がはめられている。 48時間。長い夢だった。俺は指輪を丁寧に抜き取ると、近くに置いてあったケースに戻して蓋を閉じた。紙袋にしまっていた風呂敷にゴムの左手を乗せる。なんとなく、こちらに手のひらを向ける左手に自分の右手を重ねてみた。それは不自然に固く、ひんやりとしていた。 「ご返却ありがとうございます。如何でしたか、使い心地は」 「いい夢が見れたよ。ありがとう」 それはそれは、と完璧な営業スマイルを浮かべる男を背に店を出る。いい夢が見れた。本当にその通りの気分だった。泣きながら夢から覚めるとき、その内容は覚えていないことが多い。それでも残るほんのりとした爽快感と少しの寂しさは、起きてからの生活を少しだけ彩ることがある。この二日間はそんな夢を見ていたのだと思う。これからの生活を、少しだけ彩るような。 家に着いてパソコンを開く。一体この体験をどう記事にしたらいいのだろう。書き始めてはデリートを連打して2時間ほど経っただろうか。指輪のケースを片付けていなかったことを思い出した。タンスの一番上の引き出しを開け、定位置に置こうと引き出しを覗く。ふと白い封筒が目についた。指輪のケースの下にしまっていたからずっと触っていなかったそれは、翔子が書いた俺宛の遺書だ。 遺書というより手紙のようなそれは、翔子の死後一年ほどは繰り返し読まれていたものの、翔子の母からの「いつまでも引きずらないでいいからね」という言葉を機に、指輪と共に引き出しの底にしまわれていた。 久しぶりに開けた封筒から出てきた便箋はもう端が黄ばんでしまっていて、二十年という月日の長さを物語っていた。手紙が書かれた日に病院であったこと、最近また食べられる物が減ったこと、窓から見える景色。遺書とは思えないその手紙の最後を読んだ瞬間、俺は家を飛び出していた。 『追伸(遺書に追伸はおかしいかな) 昨日素敵な夢を見ました。きっと神様からの誕生日プレゼントだと思う。 あなたは老けてもあなただった。 これからお酒が飲めるようになっても、あまり飲みすぎないでね。 ありがとう。私も愛しています。』 左手屋があったはずの場所は空き家になっていた。雑草の生えた玄関の前で立ちすくむ。突然びゅうっと音がして、強い風が吹いた。思わず瞑った目をゆっくりと開けると、どこからともなく桜の花びらが舞っていた。足元に一つ、また一つと落ちていく。長い夢だった。長くて儚くて、これからの生活を少しだけ、彩るような。翔子の左手の感触がまだ右手に残っているような気がして手のひらを見る。示し合わせたかのように、そこにゆっくりと花びらが着地した。
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