1日目

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1日目

 静まり返った車内に、ガタゴトとタイヤの砂利を踏む音が響く。  東京駅から一時間半かけて高速道路を走ってきたバスは、今や地元の一般バスへと切り替わり、見たことのない停留所を次々と通り過ぎて行く。ほとんどすべての席を埋めていた乗客は、ただ一人を除いて全員、館山駅で降りて行った。  後方窓際の指定席。自分以外誰もいなくなったバスの一角、その「ただ一人」となった彼女――宵野間カコは、今にも破裂しそうなリュックサックを両腕に抱え、これから始まる一週間を脳裏に描いては消し、また描いては消しを繰り返していた。  ”ウーフ”というシステムがある。イギリスで生まれたこのシステムを構成しているのは、ウーファーとホストの二者。ウーファーは能力や労力を以て農作業や軽作業を手伝い、ホストはそんな彼らに住まいと食を提供する。両者の間に金銭のやり取りは一切生じない。知らない人との出会いも勿論魅力の一つであるが、パーマカルチャーやオーガニック農業に対する認識と知識を広げるシステムとしても、人々から注目を集めている。  かくいう彼女も、今日からウーファーだった。知らない土地、知らない人物のもとで、家族と離れてただ一人、一週間の滞在。それは、二十年間生きてきた彼女にとって大きく思い切った挑戦だった。 『次は、西岬、西岬……』  待ちわびたその名に、彼女は素早く反応した。  少しだけ椅子から腰を持ち上げ、頭上のボタンに指を伸ばす。間髪入れずにパンポン、と間の抜けた電子音が響き、車内のボタンが一斉にオレンジ色に点灯した。  まもなくと告げてからバスが実際に停まるまでには、少々時間があった。降車の準備が整い、手持ち無沙汰になった彼女は何となく視線を窓外へ向けた。こちらを見返す自分と目が合う。信号も、街灯も、コンビニなんて勿論ない。真っ黒な背景のなかで、鮮明な映写を妨げるものはとうとう一つも現れなかった。  バスが停まる。  出発当日三日前くらいに慌てて予約した乗車券を運転手に手渡す。マスクの下でにこやかな運転手に頭を下げ、ステップを下り、外側下方の扉をスライドしキャリーバッグを地面へ下ろす。コンクリートにタイヤのぶつかるゴロ、というくぐもった音を合図に、扉は溜め息のような音を立てながら閉まり、やがてバスは暗闇の向こうへ見えなくなった。  闇。  そして沈黙。  目と耳とを同時に塞がれた気分だ。しかし肌の感触だけはハッキリしていた。風は冷たいが、決してよそ者を凍えさせてやろうというほどのものではなく、むしろまったくの無関心を湛え、すました顔で脇を通り過ぎてゆく。  自信はないけれど、とりあえず彼女は左へ向けて歩き出した。けれども数歩行ったところでやはり思い直し、踵を返して右を向く。しかしやっぱりこれも違うと踏みとどまり、今度こそ、今しがたバスが消えていった方角へ爪先を定めた。  キャリーバッグの四つのタイヤが、遅れないよう文句も言わずにガラガラと後をついてゆく。  タイヤの転がる音と、ウィンドブレーカーの擦れる音との合間を縫って、何やら違う音が混ざり込んでいることに、しばらくして彼女は気が付いた。大きなラジオが、遠くでノイズを立てているような。  ザザア、と一際大きな音が彼女の脳裏に水しぶきを上げた。  波だ。  そう思った途端、微かな磯の香りが彼女の冷えた鼻をくすぐった。  海は、闇のうちに溶け込んで少しもそうと判別できない。ただ灰と紺と黒とを混ぜ合わせた絵の具でぼんやりと水平線が引かれているのを認められるだけだ。  転がるタイヤが、ザリザリと砂を巻き込む。  海岸は近い。探している家は遠い。そんな確信が錨のように働いて、彼女の歩みを重くした。  とうとう彼女の右手がウィンドブレーカーの右ポケットから携帯電話を取り出した。電話に出たのは、今まで何度かメッセージでやり取りしただけの女性。  キャリーバッグの持ち手に半ばしがみつくような姿勢で、しかし声だけは凛と保てるよう肺に力を入れる。 『もしもし』
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