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「もしもし、あの、今日からウーフでお世話になる宵野間と申しますが……」
『迷っちゃった?』
「はい。今バスから降りた道を左に進んでいるんですが、あっているかちょっと不安になってしまって……」
全然ちょっとじゃないが、これは彼女の癖だった。
感動を伝える時は「すごく」、悩みを伝える時は「ちょっと」。
いつだって自分の気持ちを表す言葉の輪郭を、幅を持った言葉でぼやかせてからでないと、まるで思っていることは口から外へ出ないようであった。
『海は見える?』
「はい、正面に」
『近くに、海沿いに肌色の四角い建物があるでしょう。その向かいに渡してあるちょっとした橋を折れて、まっすぐ坂を上ってきてください。途中まで迎えに行きますから』
うっかり進み過ぎて、彼女は来た道へ引き返し、先ほど通り過ぎた小さな橋のそばまで戻って角を曲がった。
それまでスマホのライトで足元を照らしていた彼女は、ここにきてようやくスマホをポケットへ仕舞った。何メートルか先、坂の上の方で、白い光がフワフワと浮かんでいるのが見えたためだ。
触れたらひんやりとしそうなほど真っ白な光。
その光を目指して、彼女は不安よりも増した緊張をキャリーバッグの持ち手と一緒にギュッと握りしめ、坂を上る歩みを速めた。
スマホ上の地図でそうと分かるところまで迎えにきてくれたのは、母より何歳か年上らしく見える細身の女性だった。懐中電灯の光に目を細めながらカコが挨拶を述べると、その女性――朝霧スミさんは、静かな笑みを湛えたまま小さく頷いた。それだけだった。
早足に進むスミさんの後を、カコは遅れないよう必死についていった。たまに振り返ってこちらを確認してくれてはいるが、決して歩みを緩めてくれることはない。優しいのか厳しいのか。それにしてもずっと坂を上っている気がする。
門をくぐり、庭を抜けると、行き先にポツンと灯る蜜柑色のランプと木製の扉が姿を現した。もっと近づくと、扉の隣、ランプの下に〈朝霧〉と書かれた表札が目に入る。
ネット上でのやりとりの際、何度も目にしたその名と目の前の女性とを見比べる間もなく、カコはキャリーバッグを持ち上げて扉をくぐった。名前と人物が二つに割れて、それぞれが独り歩きしているような不思議な感覚に陥る。
「夜ご飯は食べましたか?」
咄嗟に言葉が出てこなくて、カコはただ首を横に振った。
屋内の灯りのもとで見ると、スミさんは黒縁眼鏡をかけていて、長い髪を無造作に束ねていて、シャツとダウンベストとジーンズに身を包んでおり、どの角度からも見ても普通の人だ。プロのフルート奏者、ガーデナー、ふるさと大使という肩書までもが独り歩きを始めた。
キャリーバッグを玄関に残し、カコは導かれるままに階段を上った。キッチンとダイニングを含め、生活スペースは二階にあった。
ふと、イギリスでは日本でいう二階をファーストフロアと呼ぶことを思い出す。普段生活するのが二階なら、確かに二階よりファーストフロアの方がしっくりくる。
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