もういい。

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 このままでいたくない。  だから私はもがいているじゃないか?  ふつうの生活に疲れた。  決まった時間に起きて出社して、決まった仕事をきちんとしているよ?それだって、私の感性は満足していない。どういうこと?流されるまま生きてきた。それが理由でこんな気持ちになっているの?カレシはいるけれど、将来的に期待できないし。こんな人生でいいはずがない。そんな気持ちで仕方なく、最近は付き合っている。  人の気持ちを考えることに、自分の限界を感じている。悟りというか。人の痛みのデータベースが蓄積されたからかも知れない。私はただの会社員。この会社で生き残らなければならない。だけれど辞めたい。今すぐに。という気持ちに最近気づいた。気づかない振りをしているけれど。きっと会社の外側で大変な変化が始まっている。それを私の感性は何気なく捉えている。なのに私はここを動かないでいる。そのことに、危機を感じているのに。感性の端っこにね。本当は好きなのに、その好きにわざと気づかない振りをしているみたいに。あの時の私みたいに。本当に大事なことから目を背けて、また私は今の自分をごまかすのだろう?でもそうやって普通に生きてきたよ?だからいつも何気なく心地がわるいのだろう?いつも便秘のような。本当は笑っていたくない。でも笑っている自分。そんなような。    今現在見えているものが、このまま普通に続くなんて、今の私は思ってなんかいない。そこまで馬鹿じゃない。今のカレシだって、本当はどうでもいい。付き合っているのかさえ、曖昧。そんな曖昧な気持ちに今の私はわざわざ向き合いたくないから。だから付き合っているのかも?それでも毎日忙しいから。自分の輪郭を保つことで精一杯だから。なのになんでこの国は、衰退をしているのだろう?それが不思議。誰が悪いの?社長?総理大臣?私はそれでも目の前のことに忙殺されているよ?もう一度人混みに紛れて自分の存在を無にしてしまいたくなる。もしかして私、輪郭を保つことに臆病になっている?このままの輪郭を保って維持してもたかが知れている。そのことに今の私は気づいている。なのにどうすることも出来ない。スマホを弄ってみるけれど、結局眼球だけ疲れて終わる。スキルとか。そんな言葉がやたらと目に入ってくる。だから何をすればいいの?言葉にしたら、「そんなことは自分で考えろ」ってどうせ言われるから。結局言ったその人だって、何も分かってなんかいないだろう?英会話を身につけて外資系?結局語学って、ツールじゃないの?日本語が得意ですっていう外国人が日本に来たって何のスキルもなければ何のスキルもない日本人と一緒だろう。違う⁉必要性は感じるけどね。でも今の私の仕事では使わないし。本は買ってみたけど緊急に必要ではないから頭に入らない。日々疲れているし。自分がもっと輝ける何かを夢見ているけれど、そんな感じでスマホで探すけどね。眼球だけ疲れて終わる。なんとなく焦燥感が誤魔化されるだけでね。自分なんかよりキラキラしている人をスマホで知っている。だからこんなにも私はイヤな気持ちになっているのだろう?何気ない日常は幸せだって知ってはいるよ?でも何かが満たされない。苦しい。思考が飛躍して死んでしまいたくなる。みんなどんな感じで生きているんだろう?だからスマホで検索ばかりしている私。空いた時間はどんな感じで過ごせば結局素敵なんだろう?教えてくれよ?誰か。  こんな感じで生きている今の自分が嫌い。はっきりと思わないようにしているけどね。自分が嫌いなんて完全に理解してしまったら、私はきっと死ぬだろう?それでも何とか今は生きていたいから。だから今の本当の自分なんて知りたくない。時には流されることも大事、ということを今の私は知っている。その間に自分を少しでも高めてしまわなければ。なるべく気づかれないように。今のカレシに未練はない。まったくない。どうでもいい。こんな輪郭の今の私。人は死ぬ。私だって死ぬ。これは逃れられない真実。それだって自分にとって好きなことだけやって生きていけるわけじゃない。目の前には生活がある。生活を維持させる為の、自分にとっては嫌なことも仕方なくやっている。そのことにイライラしている私。嫌いな人とも会話をしなければいけないし。「何を私はやっているのだろう?」そんな瞬間も、日々あるし。情報があり過ぎるから。それなりの答えも既に大量に用意されているから。だから自分が余計に分からなくなる。私は私。こんな単純なことに、今の私は苦しんでいる。自分で苦しんで考えなくても検索すれば出てくる答えで目の前のことは何気なくやり過ごせるし。分かったつもりになって、何となく安心するし。今の私はスマホがなければたぶん生きていけない。隅々まで管理されて生きたくはないけれど、私の理解できない場所で頭のよい人達の議論で生み出された技術で、今の私は何気なく管理をされている?そんなことは、いくら馬鹿な私でも感じてはいるよ?分かってはいるけれど、依存をしなければ今の私は生きていけない。きっとどんな時代でも、頭のいい人は有利に生きていけるのだろう?目の前のことに忙殺されて、一生懸命に生きているフリが出来ている。そんな今の私。本当に大事なことから何気なく逃げられている。そんな今の私。それに気づいているのに。でも何も出来ない。なぜ?と自身に問うけれど。私はそんなに頭はよくないし。今の環境から抜け出ようとする内面の強烈なエネルギーもなく。だからこんなにもやもやしているのだろう?それでも生きていけてるから。だからこんなにもやもやしているけれど、生きていけてるんだろう?このままでいい筈ではなくて。このままの延長では絶対にいい筈ではなくて。そんなことには気づいているし。でも何も出来ない私。どうすればいいの?教えて欲しい。学歴の高い人、教えて欲しい。ただ。学歴が高くても現実の世界では使えない人がいるということを現実の今現在の私は知っている。人はきっと、生まれながらの与えられた才能なのだろう?内面に、そんな答えを出している私。それは歴史が証明している。たまたま生まれた稀有な才能は、自身の栄華を存続させようとする。それが続かないことは、歴史が証明している。人とは何だろう?なぜこんなにも日々、苦しんで生きているのだろう?生きるとは何か?日々の忙しさの中に、こんな大事な問いから逃げながら、今の私は生きている。今の私は日々疲れている。それでどこか満足しているし、納得している。だからこんな私でも、何気なくどこかで今の私を認めているのだろう?このままでいい筈がなく。でもこのままの自分から抜け出ることが出来ない。今の私はどうすればいいの?教えて欲しい!こんなにも日々真剣に生きているよ?それだって俯瞰で見たら、きっと怠惰なのかも?今現在を生きているのに、今現在の生き方が分からない。自分の中で、基準が茫漠としている。だから自分がどこに立っているのか分からない。だからこんなにも死にたくなるのだろう?この国はいったいどうなっているのだ?その現在さえ、今の私は理解出来ていない。このまま生きていくことに不安を感じている今の私。どうすればいいの?この国と一緒に、衰退していけばいいの?どうなの?誰か教えてくれよ!私はいまどこに立っている?そんなことを訊いてもきちんと答えられるカレシじゃないから。だからどうでもいいわけで。私という存在が危機を感じている。でもどうすることも出来ない。だからこんな私をどうすればいいの?私が揺れている。今現在の私の存在が揺れている。その揺れに対する答えを今現在の揺れている私は求めている。今のカレシは馬鹿だから。もっと勉強をしておけばよかった?と、何気なく感じている今の私。世の中は広くはなかった。それを世の中に出ることで知った。何気なく選別された今の場所で、今のカレシと出会った。きっと恋愛なんて、こんなものなのだろう?だから妄想で今の自分を支えるのだろう?すでに私の人生は始まっているよ?選別された今の場所で頑張っても……ねぇ。仕事に貴賤はあったという実感がある今の私。現実を知らない子供に嘘を言って金儲けをしている人がいるということを現実を知った今の私は知った。もう疲れた。純粋な下地に刷り込まれた上っ面な価値観に。だって私は普通の人だもの。目の前が何となく混沌としている。それもこれも刷り込まれた価値観のせいだろう?今の私はそんな気がしている。もっと楽に生きたい。それが今の私の素直な願望。だって何の為に頑張るの?まずは自分が幸せになる為に頑張るのだろう?そうかな?という人とは、今の私は付き合うつもりはない。もうない。それが今の私。もう過去の価値観に疲れた。もういい。もういいよ。今の私を必死で生きているのに、過去の価値観が邪魔をする。うるさい!とにかくうるさい!過去なのに、過去のくせに今の私を苦しめる!私はそれでも生きているよ⁉淡々となんて、きっと生きられない。そんなに日々をふつうに生きられるほど、日常を生きることは甘くはなかった。それはきっと波乱万丈の人が最後に辿り着く境地なのだろう?普通に生きることが幸せなんだと。初めから私のような普通の人は、普通に生き続けることは何気なく辛い。それでも馬鹿だから、何気ない日々を続けていけるのだろう?つまらない狭いプライドでね。それを知った今の私は疲れている。笑ってはいるけれど、この場所には居たくはないと、素直に思っている。今の自分の気持ちを言葉にすることに、痛みを感じる。自分の輪郭が曖昧なほうが、楽に生きられるということを知っているのに。どこか満たされていない。だから他人の不幸で今の自分を肯定し続けているのだろう?どうなってもいいから今の場所から抜け出てみたいと思っている自分と。安定を求める自分と危険を求める自分と。自身の内なる衝動に何気なく戸惑っている私。人はどんな教育を受けても、結局自分から抜け出ることは出来ない。最後は自身の衝動を信じるしかないのかも?帝王の器のない者が、帝王学を学んだところで結局ね。       自身の内面の変化で過去に対する視点が変化する。取りあえず私は今を生き延びなければいけない。私は取りあえず私を演じる。自分にとって不必要な言葉に、やっと鈍感になれつつある。私って、こんなものだったよ?って、誰に言ってるの?私。寒いのは嫌だし。暑いのもイヤ。朝はゆっくり寝ていたい。どうしたんだろう?私。やっと自分に戻ってきた感じ?別に誰にでも好かれたくない。疲れたよ、もう。どうしよう?これから私。仕事はしているけれど、惰性で仕方なく働いている。おなかが空くのは嫌だし。買いたいものがあるしね。義務だし。働くの。仕事が好きっていう人って、よほどの天才かよほどの馬鹿なのかも知れない。強烈に生きたくもなく、強烈に死にたくもなく。今の私の内面は、こんな感じに流れています、言葉にすると。ダメ?こんな感じ。こんな今の自分の内面に、今の私自身が実は戸惑っている。今の私は危険な存在からうまく逃げられる。そんなスキルも身についた。誰とでも仲良くならなくても生きていける。無理に会話をする必要もないし。無理に笑う必要もなく。毎日生きなければいけないのに、毎日フルパワーで生きられない。適度に緊張はしているけれど。これでよくない?だって毎日のことだもの。このまま独身でもいいと思うし、別に。家族を持つことの憧れは何気なくあるけれど、今のカレシとは考えられない。今の私はそんなに純粋ではない。私の方が年収高いし。だから焦りもなくすがる気持ちもなく。私は私として生きられているのだから。すでに私は両親から自立をしている。彼は実家で生きている。彼は彼で、それで楽しいみたいだから。家族とは、うまくいっているらしい。人それぞれでその場所で生きている。いいとか悪いとか。そんな価値観が私のなかからいつのまにか消えていた。人それぞれ目の前の現実をそれでも生きているではないか?それでいいではないか?こんな今の私、へん?でも今のカレシと結婚したいとは思わないけれど。なんか不思議だけれど。でも今は、こんな関係が心地いいのだ。今はね。このままでいいとは思ってはいない。でも辞められない。私の内面のどこかが、きっと欠損しているのだろう?だからこのままの生活の延長を何気なく続けているのだろう?ダメだって、理解はしているよ?たぶん。  過去に生まれたマイナスのエネルギーをプラスにする為に、そのコンプレックスで今までの私は頑張れた。でももうそれでは今の私は頑張れない。頑張ってそんな自分を努力で満たしたもの。だからどこか満足している。過去は、既に私の中で過去になったような?両親から自立をし、今の私は自分の稼ぎで自分を満足させている。自分を守る術をいつのまにか身につけている。それでも死なずに今まで生きてきたではないか?この事実に滑稽を感じる。不謹慎だけれどね。人生をなめているとかではなくて。それでも今まで生きていられたことに、何気ない自信が満ちている。生かされているという感覚が、ほんのちょっとだけれど理解できたような?そんな不思議な感覚。私はまだ生かされている。だから生きればいいよね?私は私を生きればいいよね?間違ってないよね?与えられた命をより気高く生きたい。今はそんな感じに生きたい。人を憎むより出来れば愛したい。こんな感じに内面が変化している。今のカレシとは別れなければいけないのかも知れない。それをカレシに言ったら「いいよ?」と簡単に返答された私。きっと彼も私のことをその程度に思っていたことを知った。私は反省をしなければいけない。私の内面の稚拙さが、彼をきっと引き寄せたのだろう?悪いのは彼ではなく私だ。自分に対していらいらする。今の自分に全然納得していない。なのに何をやっていいのか分からない、今の自分。ため息しか出ないんだけど。少し前まで、自分に対してもっとポジティブだったような記憶がある。なんとなくね。最近自分がどこに立っているのか分からない。だから一々人のことが気になるのかも?考えなくていいことを考えている。自分に対して不安だから、他人のことが気になる。気になるから、考えなくていいことを考える。与えられた命を無駄に使っている。それを分かっているのにスマホを開いてしまう。私は流れとズレることに恐怖を感じるようだ?だって今まで流れに忠実に生きてきたから。孤独はそんなに怖くないって知っているのに。やばい。なんか死にたくなっている今の私。なんでふつうに生きているだけで、こんなにも死にたくなるんだろう?ふつうに生きているだけでふつうに流れる思考の蓄積に、自分自身の正常な基準が歪むから?そんな気がする。人にはそれぞれ背景があるし。それを逐一言葉として知りたい馬鹿がいるし。そんな馬鹿から遠ざかるのも、一つの知恵だよね?いちいち言葉にしたくないこともあるし。誰とでも仲良くしなくても生きていける。迷惑を掛けずに生きていさえすれば、それでよくない?私は私。あなたはあなた。それでよくない?それで世の中に対して正しければ、私は私としていられるし、あなたはあなたでいられる。ただそれだけでよくない?自身の思考の変化にちょっとだけ戸惑っている。過去が過去として、もうすぐ過ぎようとしている、私の中で。少しずつ生きてきたし、少しずつ私が変化している。その変化に気づくために、その為に言葉を必要とする。本当に必要な言葉を、今の私は求めているのかも知れない。与えられた命を穢したくない。だから誰とでも付き合いたくはない。私は私の輪郭で生きていい。今の私はそれを知っている。私の思考は我儘だろうか?私は自分を守りたい。過去に昇華した筈の記憶が不意に私を苦しめる。今の私は冷静でいられるけどね。あの頃の私のように今の私は弱くない。本当の自分と向き合うことが、やっぱり一番苦しい。だからたぶん生きられる。悔しいから。負けたくないから。これが私の生きてる意味。自分に対して逃げない。嫌いな人からは素直に逃げる。体調にだって気をつけるよ?居心地の悪い環境からだって、素直に逃げる。自分の輪郭を日々保つので精一杯なのに、その輪郭を蹂躙されるのは迷惑。犯罪じゃない?社会に対してそんな人も環境も、淘汰されてしまえばいい。そんなに働けないし。自分自身からは逃げない。自分を守る為なら逃げる。これでよくない?殺すわけにはいかないし。だから逃げなきゃ。人の悪意は急膨張する。察知をしたらすぐに逃げなければ。世の中は所詮こんなものだった。私の世の中に対する美しい価値観が、私自身が実際に生きることで、その幻影のような価値観が簡単に破壊された。私の基準を造り直さなければいけなかった。幼いころに入れられた価値観と、どうやら私は今まで闘ってきたみたい。なんだか滑稽。笑いたくなってくる。世の中とはこういうものだった。そんな単純なことを自身に受けいれるまでに、こんな時間を必要とした。そのことに滑稽で、自身を殺してしまいたくなる。目の前には生活がある。この事実は紛れもない真実であった。どんなに高尚な精神に高めても、時間がくればお腹が空く。これはどうにもならない真実だった。とりあえず目の前を生きなければならない。だから目の前を通り過ぎる自分にとってはどうでもいい人はとりあえずはどうでもよくて。生きるって、いつの時代もこんなものなのかも?こんな感じに日々を悟って、今の私は生きています。目の前には生活があって。だから継続させていく不安もあって。その向こうには得体の知れない世の中があって。そこから滲み出てくる不快なものも、何気なく感じてはいるよ?今の私。私なりに考えはするけれど、これ以上、今の私を考える必要はある?これで死んだら、私は所詮、ここまでだったんじゃないの?そんな気がする。私は私を生きる。こんな感じで今の私を生きていますけど。  時間が経過して気づく失敗がある。浦島太郎みたいに。自分の馬鹿さを未来になって知る。未来に向かっていたはずの私の時間が一気に引き戻される。また修復しなければならない。いつもトラブっているパソコンみたいに。嫌になる。私の過去の閃きに対して挫折する。修復することで、私の閃きの精度は向上しただろうか?出来れば失敗なく生きたい。でもその時の決断は、未来になってみないと分からない。恋愛みたいに。だってあの時は好きだった。そんな感じ?一流の経営者だって失敗しているし……という感じに自分を慰めてみる。別に会社を経営しているわけではないけれど。私は私の答えを出さなければならない。私が揺れている。この状態の自分と向き合う私が憂鬱。私なりの答えが内側から出てくるまでは、また胃のしくしくが続くのだろう?読書だけではうまく生きられない。私の経験と、うまく融合させなければ。私の呼吸に変化させなければ。今を生きているのはこの私。今生きるこの私を、うまく生かさなければ。その為に、過去の優れた知識を変化させて使いたい。私は今生きるこの時代のなかで揺れている。この揺れにもがいている。それでも、こんなでも、私は生きているではないか?世の中には私を惑わせる、様々な視線や考え方がある。だから余計に揺れてしまう。私のキャパは無限じゃない。すべての視線や価値観を、受け入れられるわけじゃない。自身の足元がくすんで見える。危険。今の私は危険。俯瞰で見なければ。その訓練を、読書でしてきたじゃないか?もっと冷静に、私。今を生きる時代に、内面をもじゃもじゃ掻き回されているような気がする。これはこれで、生きている感じがするから。今度は私自身が生きなければいけないから、この時代を。  個としての自分を追求し過ぎて疲れた。人は個としては生きられない。世の中があって個としての自分が成り立つ。それを世の中に出てしばらくして知った私は馬鹿なのかも知れない。私は私、として言葉を発しても、世の中から相手にされなければ個としての自分は無視され自然に消えてしまう。その自分に固執をすれば、犯罪という扉を開くしかない。私は世の中に対して正しく生きているだろうか?自分が好きでしている仕事ではない。でもこうして命を繋げていけている。税金だって家賃だって払っている。私は今現在、悪い子だろうか?こんな私でも、世の中に対して今は正しく生きているよね?別に不良だったわけでもなくて。ふつうに学校に行って、ふつうに社会に出て。それが今の私。時には個としての自分を叫びたくなるだけ。毎日少しの揺れの蓄積が、私をおかしくさせることだってある。そんな日もあるよね?もう嫌だって、はっきり言いたい日もあるよね?別にカレシと別れたけれど、特に心は痛んでいない。私にとって恋愛は、それほど重要なことではなかったみたい。それを知れたから。私の現実がまた一つ暴かれた。私にとって恋愛は、それほど重要なことではなかったという輪郭。恋愛体質の人って、きっと精神が病んでいるのかも知れない?そんな気がする。言葉にはしないけどね。きっと馬鹿なんだよ。笑っちゃう。実際に言葉にはしないけどね。死ねばいいのに。あ~あ。表の顔と本当の顔。使い分けるのも疲れるわ。人の本質なんて、いつの時代も変わらない。であるなら、その視線の条件の中で、私なりに輝きたいと今は素直に思う。仲はいいけど繋がっていない。今はそんな関係が最高に心地いい。笑って話す毎日の人がどうなっても、今の私はどうでもいい。そんな感じで生きている。若い頃の私はそれがとてつもなく孤独で腹立たしい出来事だったけれど、今に至ってはそれほど感情は動かない。人って所詮、こんなものだよね?自分と繋がりがない人が死んだからといって、別に悲しくないし。仕方がないから新生活で数千円出すし。嫌だけど。それが社会人?だと強制的に思うから。繋がっていないのに繋がっているフリをして、今まで疲れていたような気がする。人は所詮孤独だよね?私は自分の死に対して、精神的な繋がりの無い人に参列されたくない。もういいよ。そういうの。日々の生活を潤滑に進めたいから仕方なく笑っているだけであって。自分の死に対して、来てほしくない。自分なりに自由に生きて、そしてひっそりと消えたい。仕事をしているから、寂しくはないけど孤独。でもそういうものだよね?生きるって。私は私の人生を完結させる。これでいいよね?だって私、立派な葬儀なんて求めてないし。綺麗に死ねれば別にそれでいいよね?そんなシステムも出来ているよね?軽く調べてみたけれど。生まれてきたから仕方なく生きている。今はそんな思考に薄汚なさとかもったいなさとか感じない。仕方なく生きている。これの何がいけないの?命に過大な評価をしているのは特別な才能を与えられた数百万分の一の人だろう?日々を地道に生きている私にとっては今は響かない。もう疲れた、そういうのに。お金が必要だから、生きるには。だからそのお金を得るために仕方なく働く。別にこれでいいよね?駄目って言われても、ここまで辿り着くまでに、複雑な内面の逡巡はあったから。だからもう立派な教科書的な言葉は今の私には響かない。やっと価値観の外側に出られたような気がする。きっと学問で捉えられている領域は、世間知らずな狭義な世界なのかも知れない?本も人が書いている。人は完璧ではないから。その本だって、きっと完璧ではないだろう?生きていいの?私。それとも死ねばいいの?私。何に対してそれを決めればいいの?めんどくさい。特に閉鎖的な場所ではね。情報があり過ぎて、私の基準が揺れる。それに影響されて心拍が乱れる。私は苦しい。ただ普通に生きているだけなのに。だから共感を得たくなるのだろう?そうだよね?って。正しくありたいとは思うし、願う。そう思い願いながらも、今の自分を守るために流されなければいけない現実に苦しい。みんな、自分が優位に生きたいと心底は思っている。きっと誰もが静かにもがいているのだろう?そんな意地悪な視線で今の私は他人を見る。目の前には生活がある。何とか自分の輪郭を保って日々をやり過ごさなければならない。うまくいかない。だから考えることを諦めたくなる。自分のままでいようとすることは、こんなにも苦しい。世の中に対して正しく自身の輪郭を維持し続けなければいけない。そんな時、個としての自分が出てくる。叩かなければいけない。どうして生きるって、こんなにも不安定になるんだろう?それがもどかしい。まだ死にたくはない。でも積極的に生きたくもない。楽しいことをしたいと思うし、おいしいものだって食べたいと思うよ?こんな感じで生きていることが、最近楽しいと思えるようになった。人って変わる。こんな自分が今はちょっとだけ好き。生きているから、ちょっとだけでも好きになれたんだよね?生きているだけで毎日こんなにも思考に振り回される。固定した視線では、自分を保っていられない。繋がりなんて、環境の変化で簡単に切れてしまう。世の中って、そういうものだった。大事なのは目の前の生活だし。人を信じるとか信じないとか。いつのまにかどうでもよくなってしまった。繋がりたくない人のほうが多いし。それは別に孤独なことではなかった。私はそれでもここに生きているよ?世の中には同じ歳で経済的に成功している人がいる。その人と私を相対させて、自分に生まれたことが嫌になる時がある。日々を生きることは別に嫌ではないけれど、そんな些細な視線の変化に死にたくなる。要は生活を繋げていければいい。今はただ、そう思える。人の悪意の視線から、日々逃げなければいけない。これはもう仕方のないことなのかも?疲れるけどね。普通に仕事をやって一日が終わるなら、別にそんなに疲れない。世の中には成功とされる価値観があって、その価値観を突き付けられることで、そのことに息苦しくなる。ウザい。私は私なのにね。気づくとその価値観の間で緊張している。だからその緊張を解くために、アルコールが増えていったのだろう。こんな自分が何気なく嫌い。ある程度過ぎてみなければ、その時の自分って見えてこない。過ぎてみて、見える。あの時の私は精神的にも肉体的にも危険な状態だったなって。進んで検証して落ちこむ。未だに私は今の自分に苦しんでいる。死にたくなるよ、ほんとに。だからいつも疲れているし、だからこんなにもイライラしているのだろう?もしかしたら、ものすごく危険な精神状態なのかも?それだって、ある程度過ぎてみなければ分からないのでしょう?日々という空間の中で揺れ続けている私。なんとか普通に生きているよ?今の私。これからどうなるか分からないけれど。それが怖くもある。自分のことなのに、自分に対して完全に責任を持てる自信がない。こんなこと、誰にも言えないけれど。こんな感じで生きているんだもの。だからしょうがない。すべてが解明されてはいない自分の中で、それでも私は今現在を生きているよ?個としての自分をすべて解放してしまいたいけれど、世の中で生きているから。だから今の世の中の常識の範囲で個としての私をコントロールしなければならない。きっと意識をしていない私の内側の領域には、陰湿な歪みが眠っているのかも?うまく自分を正常にコントロールしなければ。他人の歪みに、私の内面の深くの歪みがどうか繋がりませんように。日常の空間には、人それぞれの触角が蠢いている。誰とでも繋がることは大変危険。孤独とか。今の私はそんなことはどうでもよくなっている。ある程度の無関心でないと、日々を生きていけない。時間の経過が最近苦痛。それに耐えることで、対価としてのお金を得ている。お金が十分にあれば、この時間から抜け出られる。最近、こんなことを考えるようになっている私。目の前の仕事に対して今までの私は一生懸命だったけれど、内面が変化した。見える景色が変化した。もういいや。何がもういいのか分からないけれど、感覚的にもういいのだ。見える景色に対して、もういいという言葉が溢れてくる。時間が淡々と過ぎていく。与えられている命を無駄に使っているような気が無性にする。私は私の輪郭を維持するために、正しく反抗しているだろうか?思春期のような鋭利な反抗心はない。今いる場所に、疲れているのかも?私の内面が揺れている。私自身の輪郭を、私自身がうまく認識出来ていない。私の感覚がなぜか?暴走している。私は私って、すでに悟った筈?なのに。結論として。日々の連続した生活の中では自身の輪郭はブレやすいという事実。自分のままで生きるって田舎ではたやすいことだけど、刺激の多い都会では難しい。誰だってより洗練された快楽的な生活を本能的に求めてしまう。私はいったい何を言っているのだろう?私は私の内面に、私自身が戸惑っている。脳の記憶と目の前の現実に、今現在の私自身が戸惑っている。日々をただ淡々と生きているだけなのにね。生活を繋げていきながら、私は私の内面の齟齬を、縮めていかなければならない。私はもう目の前の仕事に対して、感情は何も動かない。目の前の仕事に対して、私なりに最高到達点まで、悟ってしまったのかも知れない?もういいって。馬鹿にしているとかではなくて。私の内面的に、もういい、のだ。目の前の現実は、私の無関心に動いている。そんな映像として、私の瞳に映しだされ、記憶へと運ばれる。私はその記憶に対してすでに、何の感情も動かない。私はここに居るべきではない。それを理解しているのに動けない。なぜなら目の前には生活があるから。時間が来れば、お腹がすくし固定費の支払いがやってくる。サッサと裏切って、次のステップに行きたいよ。でもこれが現実。最近はそれがおもしろいって思えるようになってきてはいる。完全ではないけれど。微妙な精神のバランスで、何とか普通に生きられてはいる。私は今現在を生きている。これからどうなるかなんて、素直に分からない。不安を絶えず抱えながら生きている今の自分に、死んでしまいたくなる時がある。そんな微妙な境界線上で、今の私は生きている。ここまで生きてきたのに、まだ不安を感じている。これってもう、仕方がないことなの?どこまで進めば、この緊張感から完全に開放されるの?辿り着いた場所で、また新たな視線や価値観と、闘わなければならない。生きるって疲れる。絶えず自分なりの答えを出し続けなければいけない。一日終わってまた昨日のように疲れている。昨日の疲れなんて、完全に取れてはいないのに。過去の記憶に対してだって、納得した答えなんて、今を生きる私は出してないよ?それなのに、日々は淡々と過ぎていく。ちょっと待ってよ!って……言いたくなる。分かる?この気持ち。私という存在が揺れている。ずっとずっと揺れ続けて生きてきて、未だに私は揺れている。だからもういいよ。今現在の、私自身に対するそんな感慨。現実を、もっと楽に生きたい。人に気を使うことに、もう疲れてしまった。だったらなるべく関わらなければいい。そんなテクニックも身につけた。完全に孤独ではなくて。でもそれほど近寄らない。そんな自分なりの距離感に、今の私はやっと辿り着いた?ような気がする。もういいよ。過去が、私の内面の目の前を、素っ気なく流れていく。私はそれをもういいよという感覚で見ている。誰とでも仲良くなんかなれない。別にならなくてもよかった。私は私のままでよかった。自分でいられない環境なら、その環境から逃げてしまえばよかった。もう疲れた。そんな感慨を持てる今の自分が、ちょっと好き。自分にとって危険な人物は、明確に記憶に記録されている。これはもう、しょうがないのかも知れない?傷つけられたら狡猾に知性的に闘わなければならない。すでに学生ではない。ある程度の規模の会社なら、コンプライアンスに反応してくれる。その制度をうまく使い、自分を守らなければ。私は私として、生きていかなければならない。であるなら。狡猾になってもいいよね?その狡猾さが世の中に対して正しければ、きっと私は生き続けられる。自分を極限まで突きつめることに疲れた。他人の気持ちを考えることは大事だけれど、考え過ぎると自分を見失ってしまう。このバランスが未だに難しい。関わる他人の精神レベルは同一ではない。私は私を見失いたくはない。だからその距離感が難しい。他人の気持ちを考えることは素晴らしい。ただ。考え過ぎると私の輪郭が消えてしまう。ファッションは輪郭。私は世の中に対してこうですという輪郭。だから私は日々の洋服に気を使う。お金を掛けるということではなくて。だって私は私でいたいから。だから私は田舎が嫌い。だって服装に気を使わなくていいから。単に地域の繋がりに、にこにこしていればいいのだから。日々の生活に、私は緊張感が欲しい。だから都会が合っているのもかも知れない。とんでもないお金持ちが何気なくいるし、そうでない人も何気なくいる。そんな価値観の渦の中で、私は私でいるには、私なりの答えを孤独になって絞り出さなければいけない。そんな緊張感が好き。私は私。私を維持し続けるのはすごく大変。人間の本質は今も昔も何も変わらない。変わるなら、芸術なんて存在しない。変わらないからこそ、過去の芸術が今を生きる人を感動させる。都会に行って変わる人は、きっとその程度の本質だったのだろう?都会はその人の本質を炙り出す。その混沌とした揺れが、私は好き。本当の人が中心にいればいい。その本当の人を炙り出すには、それなりの揺れが必要だ。その揺れに落ちてしまう人は、きっとそこまでの人なのだろう?痛みとか悲しみとか。本当の人はそれさえも吞みこんで自らの輝きとするのだろう?努力では到底辿り着けない領域がある。それを今の私は知っている。もう疲れた。だからもういい。人を美しく見過ぎることに疲れた。やっとこれから、私は私として生きていけるような気がする。もういい。過去に対して、もういい。へとへとになってやっと、こんな領域に辿り着いた。あらゆる記憶を言葉にしたし。だからもういいのかも?カレシと別れたことは、何も後悔がなく。それだって、世の中の常識からカレシがいるのが当たり前のような。そんな不文律があって。だから私は付き合った?そんな感じで今の私は疲れている。世の中を完全に無視して生きられない。だからといって、世捨て人のようには生きたくない。流行りのものには素直にトキメキたい。いけない?もういいよ。難しいことは。私はそんなに頭よくないしね。きっと何とかなるんじゃない?地球もこの国も会社も。ちっぽけな私がこれ以上何ができるの?過去に刷り込まれた価値観に、今の私は疲れている。その価値観とちょっとズレた生き方をしているけれど、それでも何とかお金にも困らずに生きているよ?大した人生でもない教師とかペーペーの会社員とか。今はその人たちの言葉なんて、薄っぺらくて内側に入ってこない。もういいよ。疲れた。その価値観と現実の世の中との間で今までの私は葛藤していた。自身の揺れに、私自身が疲れた。だからもういいよ。努力は大事だけれど、報われるとは限らない。私だって、今の仕事を好きでやっているわけじゃない。生きていれば、それだけで固定費が必要。だからやっている。仕事をする理由なんて、しょせんこんなものだよね?この仕事をやる為に生まれてきたなんて思える人は、きっと何十万人に一人だろう?私の感覚的な数字だけど。より環境のいい場所で働きたい。今の私は素直にそう思える。いい部屋に住みたいし、質のいいおいしいものを食べたい。だから私は働く。それ以上でもそれ以下でもない。私は私の人生に責任を持つ。こんな感じで生きているけど、いけない?私は私の過去に刷りこまれたことに対して、もういい。日々を淡々とふつうに生きているのに、私の内面はこんなにも変化した。この場所に不満はないけれど、この場所に居てはいけないと内面が言っている。そんな言葉にそそのかされて、今の私がここにいる。なんの為に、私はこの世に生まれてきたのだろう?そんな感慨に内側が満たされて、内面が苦しくなる。過去に刷りこまれたことに対して、もういい。ただ未来に対して何の展望もない。過去に固執するつもりはまったくない。ただこれからどう生きるか?の展望はまったくない。ただ、現在に対する不安はまったくない。それはそれなりの貯蓄があるからだ。お金は素晴らしい。生活者としての私を守ってくれる。生きているだけで固定費は必要。それが現実。私はまだ生きたい。だから仕方なく会社に行く。いけない?仕方なく目の前の仕事はするよ?ダメ?いけない?今まで怒っていたことに対して、今はそのことに対してもういい。何気なく恥ずかしい。淡々と過ぎていく日に、今は心地いい。生きているから。だから生きていかなければならない。すでに過去ではないし、私は今現在を生きている。だから今現在の価値観に合わせなければより優位に生きられない。私は内側に蓄積された過去の価値観を、頑張って排出しなければならない。過去の価値観に束縛された会社が瀕死の状態だ。今の会社もそんな会社。会社に対する愛なんて、下層にいる私にはまったくない。会社の生存なんてどうでもいい、はっきり言って。誰にも言えないけれど。会社があって世の中があるわけではない。世の中があって、会社がある。そう私は考える。だから。世の中に貢献出来ない会社は淘汰されるべきだと密かに考える。でも。私にも生活がある。だから狡猾に今の会社に在籍しているのだ。だって。まだ私が生存できる環境があるから。人は、理想だけでは行き詰ってしまう。それを世の中に出ることで知った。そんな狡猾さが、若い頃の私は許せなかった。もういいよ。過去に刷りこまれた正しいことなんて。ほとほと疲れた。日々のペーペーの視線の変化に対する対応に、今現在の私は疲れている。この場所に、今の私はもういい。そんな気持ちに変化している。生活には何も不自由はしていない。内面の変化に、今の私が苦しんでいる。誰とでも、仲良くなりたくはない。そのことに、やっと言葉として理解できた。生活の質を上げたいから、私は今まで勉強も仕事も頑張ってきたのだ。いけない?こんな思考。もういい。お酒で酔っぱらうたびに、過去の記憶に対してそう思う。もういいと。私は十分闘ってきたよね?そんな気持ちでいっぱいになる。もういいよ。だからもういいよ。私は私のふさわしい場所で輝きたい。そんなふうに内面が動いている。これは、裏切るっていうことなの?ここまで考えて、何も言葉が出てこない。不思議と内面がすっきりしている。私は何の為に生まれてきたのだろう?そんな言葉が軽く内面を流れる。これからきっと、私の現実は何とかなるだろう?だって。ここまで考えたもの。ここで死ぬなら、きっと私はここまでのいのちだったのだろう?そう思えるから。だから今日は緊張感なく安らかに眠れるかも?なんだか滑稽。人は時間が来ればお腹がすくし、疲れたらぐっすり眠りたい。いつの時代の人も、この本質は変化がない。それを思うと面白い。滑稽。世の中があって会社があるわけだけど、私には私の世の中との関わり合いかたがある。今の私は会社がどうなろうが、どうでもよく。なぜなら会社の下層にいるから。会社そのものの寿命なんて、私にはどうでもよく。私は私の人生に責任を持たなければならないから。好きで今の仕事をやっているわけではないけれど、どういうわけか、仕事はしていたいとなぜか思う。今の会社に対する固執ではなくて。きっと人は、誰でももっと世の中を良くしたいって思っている。今の私はそう信じたい。それがなぜ、会社というフィルターを通すと世の中に対する視線が歪んでくるのだろう?社内で適正な人事が行われていれば、組織内はきっと歪まない。おかしいと思われることが正当化され結果、おかしいと思えるしかも優秀な人が辞めていく。何も考えずに単に生き残っている人は、結局死んでいる。だから会社が死んでしまうのだろう?私の内面がソワソワしている。その衝動が気持ち悪い。会社はどうでもいいけれど、今の私にはまだ必要。こんな今の自分を純粋だったあの頃の自分から見たら、嫌いな大人。今の私はその、嫌いな大人になっている。今の私はそれを、素直に誇りに思う。純粋っていうのは、今の私は馬鹿だと素直に思う。だから純粋に若い人が、今現在の私は薄汚く感じるのだろう?今の私の内面は確実に変化している。こんな私に変化したことに、別になんとも思わない。生き続けることで、やっと見えてくる境地があった。今の私は純粋に若くはない。純粋な若さは過ぎた。私は今の私を生きなければならないから。世の中に対して、私は私なりの輪郭を生きなければならないから。これでも私は私という存在を、それでも必死に生きているよ?もういいし、うるさい!内面の過去に対して、今の私の意識はそう答える。うるさい!もういい!と。今という現在を生きている筈なのに、過ぎた筈の過去が今現在を生きる私を苦しめる。私の意識は、ちゃんと今現在をそのままに捉えているのだろうか?過去というフィルターを通して、濁っているような気がする。今現在の私は、世の中に対して正しく生きているだろうか?そんな微かな疑問が私の脳の片隅にこびりつく。思い描いたとおりには生きていない。それが多大なコンプレックスになってはいる。好きで今の仕事をやっているわけではないしね。思うがままに生きられてはいない現実に、正直今の私は苦しんでいる。もういいと、すぐに辞められる心の準備は整っている。なのに辞められない私の現実。これから私はどうなっていくのだろう?そんな素朴な疑問に対して、昔みたいに心臓が不整脈をしない。私は自分をあきらめている?所詮はここまでだったなって。それでも今の現実に、私自身が満足していない。目の前の現実を生きることに、とりあえずは生きるために仕方なくやらければいけない仕事に、今の私は辟易している。働くことに明確な思想を持って向き合っている人は、私という視線から見て皆無だった。そんな人は、働かされてはいないだろう?働かせるポジションに辿り着いている。もういい。今の私の内面が言っている。私は生まれてくることに、正解だったのだろうか?しなくていい苦労をしているような気がする。そんな憎しみを、親に感じてしまう時がある。今まで真剣にやった勉強も、誰かに使われる為の勉強だった、という気がするけれど。なんだろう?だからもういい、のだ。私は私なのに、日々を生きる私に対して、不思議と苦しい。これから私はどうしよう?すでに学生ではないのに、こんな疑問が溢れてくることに、惨めさを感じる。もういいよ。こんな言葉だけが、私の深淵から溢れてくる。今死んでしまっても後悔しないような気がする。それが私の現実だった。もう疲れた。だからもういい。日々を生きることに、今現在の私は疲れている。世の中があって会社があって、その会社の中で、今現在の私は生きている。なのになぜこんなに死にたくなるのだろう?元彼が実家に居続ける理由が感覚的に分かったような気がする。きっとこの国は、成長していない。だから次世代の人が、飛び出していかないのだろう?日々がよどんでいることは、そんなことは誰もがきっと感じている。なのにこんなにも長い時間、何も変化がない。誰もが疲れている。なのにそれを続けなければ、目の前の現実を生きられない。壊れてしまえばいいのに。だから壊れてしまえばいいのに。少しずつ壊れていっているから、こんなにも世の中が陰湿になっているのだろう?生きてさえいれば、その終末が見られるかも知れない?今の価値観に、今の私はもういい、と何気なく感じている。どうでもいい繋がりに、私は無下な視線で速攻で切りたい。そんな準備は整っている。不必要な親戚が、寿命で死に始めている。それが今の私を楽にしている。生きるとはなんだろう?そんな神聖な疑問は、今の私を苦しめない。生まれて生きて死んでいく。今の私の感慨は、ただそれだけだ。人が死ねば悲しむものだと感覚的に想像していたけれど、死ぬことで、自身の気持ちが楽になる感覚を知った。過去の価値観に、もういいと、今の私はほとほと感じている。生きている私は、仕方なくこれからを生きていかなければならない。生きるって、こういうことだよね?それとも。生きるって、もっと神聖なことなの?今の私はそんな神聖さを感じられない。非正規で生きているからかも?でもお金には困っていない。なぜなら投資でそれなりに儲けているから。正社員がいい?それは大企業の、でしょう?中小の正社員はボーナスも無いところが多いし。要はお金に不自由しなければいい。私は会社からも人からも、私に合った距離感を保ちたい。だから私は世の中的に見て大きな会社を辞めた。私にとっては息苦しかった。それでもお金は素直に欲しい。だから投資の知識を身につけて、だから今の私はお金に不自由していない。不安だったけれど、だから今の私の輪郭を保てている。私は世の中に対して今のところ、自由だ。やりたくないと、嫌だと、ふつうに言える。お金は素晴らしい。私は私でいられることが出来る。人に都合よく使われる為のスキルは、もういい。人に気を使うことに、今の私は疲れている。それには人に気を使わなくていいスキルが必要だ。そのスキルがお金を増やすスキルだった。お金があるだけで、本心により近い言葉が言える。お金があれば、仕事を失うことが怖くない。単純で、シンプルなことだった。今の私は自由だ。人に使われる為のスキルを長い時間を掛けて磨くより、お金を増やす為のスキルを身につけたほうがいい。そのことにある時気づいた。経営者の子供ではないし私は。だから会社を大事にしたいと思わなくなった。私は私の人生を大事にしたい。男の人を見ていると、馬鹿なんじゃないか?と素直に思った。重要なポジションには、絶対に行けないのに、なぜこんなにも頑張るのだろうと。だったら金融の知識を身につけて、資産を増やしたほうがいいだろう?と。マゾなのか?男って。仕事があるだけ幸せだろって、馬鹿なの?なんだかウケる。管理する側は楽だろう?軽く、そんな気がした。どうでもいいけど。私はただの一般人。だからどうでもいいし、見えたことに対してどうでもいい。私は私に対して自由でいたいと思う。自分の嫌がる仕事も自分の嫌だと思う人づきあいももうしたくない。それはお金というツールがあれば叶えられる。私は仕事が嫌いではない。でもそれほど会社と密になりたくない。ただ会社員としての恩恵は受けたい。社会保険とか。非正規だからボーナスはないけれど、それは投資でカバーできる。私は私の輪郭を維持したいから、今の働き方を自ら選んだ。馬鹿だから今のポジションにいるわけではない。自ら選んだのだ。私は私の心地よい生き方をしているだけなのに、人と関わりあうことで、自分の輪郭をいちいち言葉にしなければいけない苦痛。人は、理由がなければ今のポジションを認めてくれない。だから都合よく、つじつまを合わせなければならない。仕方なく、今を生きている。働かなければいけないから、仕方なく働いている。この私の現実は、いけないことなの?私はすでに、学生ではない。だから明確な答えをもって、働いてはいない。働きたくはないけれど、目の前の生活のために仕方なく働いているのだ。この私の現実は、ダメ?言葉をいちいち構築する関係に、今の私はもういい。私は自身に対して吐き気がするほど考えた。だから。自身の輪郭を明確に話さなければいけない関係に、もういい。私は私として生きている。誰にも迷惑かけずに税金もきちんと払って生きている。これでいいではないか?ダメ?やっと過去は過去として、内面で過ぎようとしている。こんな感じで、今の私は生きている。もういいよ?疲れた。今の私には、そんな感慨だけがある。過ぎたすべてのことに、明確な答えを出したわけではない、でも。もういい。でももういいと、今現在の私の深淵が言っている。私はこのまま私として、生きていってもいいよね?疑問だけど、そんな確信がある。今の私は、過去の価値観に疲れている。今を生きる私は、今現在の価値観の範囲で生きなければならない。世の中があって、社会人としての今の私が生きられる。私が、今の世の中の価値観に合わせなければならない。今の私の世の中とは、今現在派遣されている会社。なんの愛情もないけどね。社内にいる正社員は、世の中なんて何も知らないし、知ろうともしない。正社員にとっての世の中は、社内が世の中であって。結局。その社内と自宅との往復で。そんな狭い価値観の中で生きている。この国は、衰退している。相対的に観察すれば、そんなことはすぐに感じとれる。だから少しずつ、衰退しているのだろう?それが今の私には滑稽に映る。投資をしている私にとっては、少しずつ衰退している会社に在籍しているほうが心地よい。休みも多いしね。稼いだお金は優良企業に投資をすれば、何もしなくて増えていく。私はそれほど働きたくない。それほど優秀でもない。それでもふつう以上にお金は欲しい。だからお金に働いてもらう。私はこれ以上、頑張りたくない。ただ必要以上にお金は欲しい。だから優良企業に投資する。そこで働く優秀な人は、とにかく頑張ってほしい。頑張って結果を出し、株価をとにかく早急に上げろ!それが今の私の気持ち。私は頑張りたくない。私の世の中の限界の価値に、今の私は気づいてしまったのだから。私は自分なりに働くけれど、自分以上に働きたくない。もういいよ。刷りこまれた過去の価値観から、やっと自由になれたような気がする。こんな感じで生きているけれど、やっと罪悪感を感じなくなった。時代がもっと揺れて、ふつうに漂っている価値観がさらに壊れてしまえばいい。こんなふうに今現在の私は心底で思っている。私はふてぶてしく生きようと思う。死にたいと思ったこともあったけれど、孤独に考え尽くしたら、死ぬこともないのかなと。もういいよ。人との関係を今までの私は考え過ぎていたのかも?時代がさらに揺れて、時代の一部分の箱である会社をさらに揺さぶればいいと、私は陰湿に考える。そこからはじき出された免疫のない人はと考えると、それを陰湿に考えると楽しい。私はまだ死にたくない。素直にそう考える。非正規だけれど、不思議とわくわくするのだ。時代が揺れることで、株価がおおきく変動する。それがチャンスだから。会社なんてどうでもいい。投資先が潰れなければよい。私は密かに自由に生きている。金融の知識とスマホがあるだけで、こんなにも精神的にも経済的にも自由に生きられている。もういいよ?もう過去の価値観に疲れた。なぜあんなにも働くのか?馬鹿なのか?そんな感じで今の私は出世は出来ないであろう社員の様を見て思う。自分は正社員だから。そんな感じで私を見る正社員を、今の私は内心馬鹿にしている。時代がもっと揺れればいい。今の私は会社の外側が見えている。どうでもいい繋がりに、今の私の感性は反応しない。長く続いたシステムが、さっさと壊れてしまえばいいと、今の私は陰湿に願っている。会社があって世の中があるわけではない。世の中があって会社があるのだ。その世の中が揺れている。だから会社が激しく揺れている。だからその会社の中にいる人たちの内面だって激しく揺れるだろう?世の中にとって、その会社が不必要になったらその中で生きる人たちはどうなるか?その中で人生を賭けていた人はどうなるか?それが俯瞰で見える今の私は滑稽に見える。会社なんてどうでもいい、はっきり言って。私は非正規だから、何の未練もない。世の中に対して需要がある会社に移るだけ。ただそれだけ。精神的な輪郭は既に自立している。だから孤独をまったく感じない。私は自分に合った生き方を、自らしている。だから自由だ。今の私は精神的にほんとに楽。純粋に若い時、なぜあんなに孤独で不安を感じたのだろう?誰とでも仲良くする必要なんてなかった。たったそれに気づいただけで、こんなにも私は自由になった。私は私。私は私のままでいていい。それに今の私はやっっっっっと気づいたのだ。非正規になったことは、精神的に私を救った。会社はどこでも一緒ではないということを、直に知った。雰囲気、そこにいる人の気質。私が私でいられないなら、無理にそこにいる必要なんてなかった。私は私。だから。もういい。私は私の人生に責任を持つ。たったこれだけの、シンプルなことだった。私の内面が複雑な過程を長い時間を掛けて経て、やっとこのシンプルな答えに辿り着いた。この答えに辿り着くことは読書で知っていた。ただ知っている場所まで辿り着くまでが……大変だった。答えだけを先に知っていても、意味がない。その事実も知っていた。答えだけ知っていても、応用が利かないからだ。私は過去の偉人の導き出した答えを参考にし、今生きる時代に対して、自らの答えを深奥から導き出さなければならない。その答えが自ら出ないなら、使われることに人生を捧げることに、いい意味で頑張ったほうがいいのかも知れない。私は使われることに疲れている。私はまだ、内側から溢れるものがあるだろうか?このまま働くことに、今の私は辟易している。もういい。なぜかいらいらする。自身で選んだ環境なのに、不思議といらいらする。お金に働いてもらっている。お金は勝手に増えていく。だから安穏とした環境で生きられているじゃないか?こんな感じで生きている私って、どうなんだろう?私の今現在の内面に対して今現在の私の感性が気持ち悪さを感じている。心地悪いのだ。私は私に対して、正しく生きているだろうか?世の中に対して私なりに、正しく生きているだろうか?仕事に対して私なりの答えを出したから、今の環境に至ったのだろう?そう、私は自身に問う。内面がうまく纏まらずに苦しい。だからいらいらするのだろう?仕事に対する幻想が、現実の仕事を経験することで、また一つ壊れた。私はそれを、勇気をもって言葉にして、呑みこまなければならない。仕事に貴賎はない?だったら苦労してスキルを上げる必要なんてないだろう?それを静かに密かに内省する。やだよ。そんな仕事。内面のその真実の言葉を今は現実の言葉として発することが出来ないから。今現在を生きる私は、今現在の価値観に合わせなければ生きていけない。私は逃げる。うまく逃げる。やだよ。不必要な苦労なんて。もう疲れた。やっと過去の私にとってはどうでもよい価値観が消えていっている。もういい。だって私は今現在を必死でそれでも生きているのだから。誰とでも仲良くしなくても生きていける。その事実を知っている今の私はつよい。お金に不自由したくない。だから私は投資をやっている。私自身はふつうに働きたい。ふつうに働いて、ふつう以上のお金が欲しい。だから経済を独学で必死に学んだ。私は一つの会社で一歩ずつ地位を高めていける体質ではなかった。自分に合わないことはどうしても出来ないということを、今までの経験で学んだ。私はまた一つ自分に気づいた。ふつうに働くだけで、ふつう以上のお金が欲しい。投資という道があった。それに私は気づいた。視点が変化した。視点が変化することで、見えなかった世界が見え始めた。働くことは素晴らしい。ただふつうに働いても、たいしたお金は稼げない。肉体的に長い時間働いても。精神レベルをある程度まで高める為には必要なのかも知れない。でももういい。私の深奥が、そう言っている。私の内面が複雑に揺れている。自分で自分が分からない。でも不安ではない。なぜだろう?もう、過去に対して未練はない。私はそれでも今を、こんな感じで生きているよ?生きているだけで、毎日こんなにも内面が揺れる。その揺れに対して、自分なりの答えを出し続けていかなければならない。家に居ても、悪質な営業が訪問してくる。瓦が浮いているとか。銃で撃ち殺したいと素直に思うけれど、銃を持ってないし、殺したら私の人生が汚れるから。逆恨みされても嫌だから。その為のあしらう技術も高めなければいけない。検索してね。めんどくさい。ただ現実の世界にはそういう人がいて近寄ってくるから。世の中に通じない独自な価値観と言葉を持っているから。だから。会話をすることが無駄。独自な世界を守る為に、生き延びる方法を日々勉強している。だから会話をすることが無駄。だからスマートに逃げなければ。同じ日本人なのに、言語が違う。世の中に反する独自な価値観で生きたいなら、世の中と関わり合いなく生きていけばいいのに。結局。世の中と関わり合いなく生きていくことはどんな人でも出来ないから。だからぎりぎりセーフの場所で、こっちと関わってくるのだろう?体が危険を感じて心拍数が上がる。嫌な気持ちが何日間か続く。こちらはあちらと距離を取っているのに関わってくる。ほんとに迷惑。私はこちらのルールの中で振り落とされないように日々必死で生きている。そして休みの日。家で無防備で過ごしているのに、チャイムを鳴らされる。そしてしなくていい検索をし、思考を使う。もういい。来なくていいのに。こちらのルールで生きられないなら、迷惑だから来なくていい。私はこっちのルールで淡々と生きている。ちゃんと働いて、税金だってきちんと払っている。その淡々としたリズムの中に、入ってこないで欲しい。私はこっちのルールの中で、それでもまだ生きていたいと思っているのだから。世の中は怖い。改めてこの事実を思い出す。誰とでも付き合いたくない。そんな感じで生きているのに勝手に侵入してくる。日々頻繁に使用している距離感では通用しないから。揚げ足を取ってくる会話に、思春期の子供を相手にしているような会話に、不思議と私が情けなくなる。私は日々きちんと働いて、ちゃんと生きているよね?自宅でリラックスしているだけなのになぜ、こんな嫌な気持ちになるんだろう?会話にならない会話に、それでも相手はそんな私を冷静に観察している。日々、こう言われたらこう言おうと、訓練しているんだもの、この人たちは。自分を抑えて相手の気持ちを考えようとか尊重しようとか。日々私がやっているそれをこの人種の人たちは利用しようとする。こんなどうでもいいことに、いちいち言葉にして自分を納得させ、いずれまた来るであろうこの人達に、備えなければならない。どうでもいい人といちいち闘っていても。だからもういいよ。自分にとって真剣に向き合わなければいけない人なんて、日々の日常の中にはそんなにいないしね。私は日々真剣に自分と向き合っているから。だからそんな自分に相応しくない人から、私は逃げる。そういう人。ちょっとでも繋がりたくない。だから感性を着信拒否する。逃げながら、私は自分と闘う。日々ね。私の人生に対して、迷惑を掛けないで欲しい。私は私として、それでも正しく世の中に対して正しく生きようともがいている。その邪魔をしないで欲しい。と願っても。そういう人は現実に存在しているから。だから私は自分を守る為の周辺の溝を、深くしなければならない。誰にでも親切に出来ない。自分の中に、そんな残酷な現実を受け入れさせなければいけない。それはそれで、私自身が苦しい。私は人として、正しく生きているのだろうか?そんな疑問に苦しくなる。私は私として、きちんと生きているよ?ただ。そういう人も現実の世の中には存在するわけで。そんな人から自分を守らなければならない。その現実に対して私の心が苦しい。人って何なの?そんな疑問が私に湧き上がる。私の価値観が揺れている。私はこの時代を生き抜かなければならない。そんな今の私の内面に苦しい。今現在の価値観と、過去の継続されてきた価値観に苦しんでいる?今の私。もういいよ?過去の価値観は。尊敬もするけれど。でももういい。過去の価値観では、だって今の時代を生きてはいけないから。私はそれでも今の時代を生きているから。生きているからお腹がすくから。だからお金を稼がなければいけないから。もういいよ?イデオロギーとか偉そーな思想とか。もう疲れた。私は私として、個として今生きる時代を輝きたい。いけない?ダメ?自身の内側にある価値観に、今の私は疲れている。もういいよ?私は私でいていいよね?イメージした通りの人生には今現在なっていない。私は私なりに頑張ったのにね。努力ではどうにも出来ないことがあると、今現在の私は知った。でもその時の私の内面の衝動に、素直に従ったよ?私は私を生きた。後悔はない。このまま過ぎていくことも、今の私はそれほど怖さを感じない。純粋に若かった頃は、あんなにも過ぎていくことが怖かったのに。焦燥とか?知りたいことがあり過ぎて?でも、もういいよ。疲れた。今は健康でいたい。それが今の私の興味。自分にとって不必要なものを、肉体から抜いていきたい。今の私はその段階のような気がする。記憶と向き合うことで、私という人の輪郭が見えたしね。そして今の私は私の言葉を持っている。私はそれでも生きようとした。それがなぜか滑稽。不器用なりに、それでも私は生きているではないか?私は人として、それでも生きているよね?生きようとしているよね?それを俯瞰で頭の中で見て、不思議と可笑しくなる。私の生きるって、こんな感じでいいのかも?私はそれでも私を生きているよ?この今生きるこの時代を、こんな私でも必死で生きているよ?過去の価値観に苦しめられながら、それでも日々を生きているよ?過去の価値観に対して引け目があった。その価値観にある程度は合わせようとしたけれど、今を生きるには内面が苦しくなった。だからもういい。今の私は過去の時代を生きているわけではない。今という時代を生きていかなければいけない。危険を感じたら、素直に逃げる。闘わない。だって私はそんなに強くないもの。まだ生きたいもの。誰とでも仲良くしなくても生きていける。それを今の私は知っている。私はうまく逃げるし一時的に仲良くもする。そんな狡さのスキルも、今の私は受け入れられている。今の私はこんな感じで生きているよ?いけない?ダメ?こんな感じで生きている今の私は、不思議と静謐に満ちている。こんな状態の自分を味わえるとはね。だからもういいよ?私は私なりに仕事をするし、それについてとやかく言われたくない。私は私として自由に生きたいから。そのための努力をする。時代に対して文句を言う体力が馬鹿々々しい。ルールの変化に対して自分を変化させればよい。まず大事なのは衣食住。だからもういいよ、エラソーな講釈は。今生きる私に、そんな高度な知識は必要なかった。自分の中にその知識を入れることで、私には必要なかったと分かった。疲れた。もういいよ。今現在はそんな感慨しかない。日々健康で。それで一日終わっておいしくお酒が飲めれば。こんな感じでよくない?もしかして私は、比べることに疲れている?過去の上昇志向だった私に、今現在の私は疲れている?年齢にはその年齢の衝動があって。その衝動に私は毒されただけ。今は淡々とそう思う。そんな過去の衝動に今現在の私は疲れている。もういいよ。そんな過去の衝動にもういい。生きていくってこんな感じでいい。それが今の私はやっと理解できつつある。いろんな事情で人は生きているし。適正な距離で生きればよくない?今はこんな感じで日々を生きているよ?今の私は考えることを止めない。これが今の私のプライド。だから今の私はそれでも生きられている。どこまで生きられるのかまったく分からないけれど、それがスリルあっていい、と自身を納得させている。私は私を生きるしかない。私は私について、世の中に対して相対的に考える。世の中に対して偉くはない。ただ。世の中に対して正しく生きたいとは何気なく思ってはいる。個としての歪みは、孤独になって昇華させなければいけないこと。世の中はそれでも淡々とながれている。私はその流れに、ついていかなければならない。目の前の生活を維持させなければならない。だから。過去の価値観はいいよ。もういい。素晴らしいことは分かった。でも。現在を生きる私には響かない。ただそれだけ。今現在を生きる私は、今現在の苦しみを抱えている。私は私を、この現在を生きなければならない。価値観ではなく、思想を教えてほしい。価値観は時代で変化してしまうから。思想は時代で変化しないでしょう?誰とでも付き合いたくないし、誰とでも仲良くなりたくない。世の中って、こんなものだった。やっとこんな真実に辿り着いて、精神的に楽になっている私。過去は正しく反芻しないと流れていかない。その時間の判定なんて、過ぎて反芻しないと見えてこない。世の中を美しく見過ぎて疲れた。そんな言葉が今現在の私から溢れてくる。もういいよ。美しく見過ぎていた場所から現在のマイナスの位置までの距離に対して、もういいよ。疲れた。だからもっと素直に生きようと思う。対象に対して、以上に考えないようにしようと悟った。本で癒されない理由が、ここに見えたような気がする。たぶんこれから、眠れるような気がする。だれでも幸せにはなれない。この真実を、今の私は知っている。幸せとはなにか?言葉にするのは難しいけれど。今の私が幸せなのか?それはきっともうちょっと過ぎてみなければ分からないのだろう?淡々と日々を生きている。それで今現在はいいでしょう?健康を維持できない毎日なら、それは自分に合っていないと考える。できれば心を満たし、肉体も健康が保てる環境で日々を流れたい。今はそれが出来ている。今を生きるには、今に合った生き方がある。私の肉体は今現在、過去を生きてはいない。私は私を生きる。ただそれだけ。それだけなのに、視線とか過去の価値観とか。そんなものが今を生きる私の精神を苦しめる。世の中に対して正しく生きたいと思ってはいるよ?私は私の心を守る為に、今の環境を選んだのだ。私は今現在、正しく生きているだろうか?私は自身に対して正しく生きたい。これは理想だろうか?自身のポートフォリオの分配が難しい。私は私自身の経営者。自分に対してなのに、おかしくなるよ?思考を継続させるって、ものすごいストレス。だから日々お酒を飲みたくなるのだろう?連続した思考をアルコールで壊してしまいたい。そんな衝動が私にはあるのかも?どうでもいいよ、現実なんて。そんな衝動が、アルコールの波長と合うのかも知れない?もう疲れた。だからもういいよ。そんな感じに満たされている。過去と現在が錯綜する。目の前の現実をなんとか生きながら。目の前の現実だけでもこんなにも大変なのにね?ここまで考えて。これ以上は考えられない自分に気づいた。今まで見えていた世界に、今の私はゲップしている。こんな些細なことにも言葉にしないと、私の意識は理解しない。私はいま現在の居場所に、心地悪さを感じている。それを自身と向き合い、言葉にすることで気づいた。私に与えられたいのちの時間は有限。もういいよ?私は私として、今という現実を生きていきたい。人それぞれいのちの使い方はある。すべてのいのちの使い方を自身に受け入れ深く考える時間は、私にはない。今は世の中に対しての、私の輪郭はある程度完成している。自分探しに、疲れた。自分の輪郭探しに疲れた。どんな人でも世の中に対してしか生きられない。だからもういい。感覚の世界は、今の私を癒してくれない。いつまでも感覚の世界で生きていたかった?みんな友達だし、みんなやさしい。そんな世界で生きられると思っていた。もう疲れた。へとへとに疲れたよ。今現在の私はただの非正規雇用だしね。でもお金には困っていないけど。私は学生の時、世の中を知りたいと渇望した。世の中をある程度知ってからは、自身の輪郭以上の世の中に興味が無くなった。知ることに疲れた。だからもういいよ。今の私はそんな感じで生きている。いけない?読書が好きなおかげで、私は現実的に救われた?そんな感覚がある。人ほど怖いものはない。それを今現在の私は知っている。私は私を生きる。日々を生きる為の言葉なんて、とても薄っぺらだから。人の本質なんて、いつの時代も変化ないから。もう疲れた。だからもういいよ。こんな感じに今の私はいらいらしながら生きている。それでも時代は流れていく。だから。過去にいちいちかまっていられない。それでも過去は、今の私を苦しめる。もういいよと、過去に対して生きようとしているのに?私の内面は高速で変化しているのに、現実はそのスピードで変化していかない。今までの繋がりなんて、すべてゼロにしてしまいたいのに?もういいよと、今現在の私が思っているのに今現在の現実は、それを跳ね返すことが出来ない。でも私は諦めない。だって今現在の位置に飽きているから。私はまだぎりぎり感覚の世界で生きているのかも知れない?その狭間で、生きているような気がする。私は私なりに自由に生きているつもりなのにね?私は自由に生きていることに疲れている⁉そんな感じがすることに、今現在の私は疲れている。今現在の私の内面が苦しんでいる。その苦しみを俯瞰で見ている私の精神に対して今現在の私が苦しい。だから。人と会うことに対していいよ。もういいよ。それが今現在の私の真実の気持ち。誰にも会いたくない。今現在の私は、薄っぺらな人脈なんてまったく必要なんかないということを知っている。今現在の私は、素直に今現在の私と向き合わなければいけない。孤独だけれど、その孤独を楽しめなければいけないということを、今の私は知っている。一日終わってもう疲れたという言葉を吐く日々に、今の私は疲れている。もう純粋に、若くはない。労働を純粋に神聖化できた時期はとっくに終わっている。人はそのままの状態で生きていられない。不思議と次のステップを求めようとする。それが今の私の状態。過去は過ぎた。ん?もうすぐ過ぎようとしている?なんか、そんな感じ。このままでいることに、今の私が焦燥と居心地の悪さを感じている。もういい。満たされないことに対して苦しい。これが今の私の素直な状態。日々は静かに流れていくのにね?なんだろう?この便秘のようなうざったさは?私はここにいるのにね?でも気づかれないように生きたいという何気ない感情もある。それでいて自身の輪郭はそれなりに主張はしていたいという。自分で自分が未だに分からない。積極的に生きたいわけでもなく。そんなに生きていることが苦しいわけでもない。こんな感じで今の私は生きているけれど、どう?スキルとか?もういいよ。どんな職種の人だって、大半の人は潰しなんてきかないだろう?今まで働くということを、美しく見過ぎていたような気がする。すべてのことを言葉にする必要もないしね。子供はすべてのことを言葉にしようとする。でも今の私は子供ではない。大人として生きている。言葉にする必要もないことを逐一言葉にするエネルギーを捻出することに疲れる。結局そういう人は、どこかで大人になれなかった利口馬鹿だ。今の私は自分の輪郭を追い求める時期は過ぎている。出来ないものは出来ないしね。友達なんていなくても生きていけることを、今の私は知っているし。若者的な悩みを抱えることに、もういいよ。だから若者的な悩みを抱える人は近寄らないで欲しい。なぜなら今の私はやっと若者的な悩みから解放されたのだから。きっといつの時代もこんなものだったでしょう?普通の人の生活なんて、いつの時代もこんなものだったでしょう?それは歴史を覗けば見えてくる。きっとほとんどの人が、世の中のことも自分のことさえも、深く考えようなんて思ってはいなくて。目先の生活に追われているだけで。そのストレスの捌け口を何かしら探しているだけで。そんな気がしている今の私。生きているって、そんなに難しく考える必要なんてあるの?軽く考え過ぎてもね?そんなことは知っているよ?なんだろう?いらいらする。静かにいらいらする。過去の、私にとってどうでもいい人に対して今更になっていらいらする。今の私はあの時の私のように弱くない。人を美しく見過ぎたことに疲れた。今の私には、私なりの基準がある。その基準から見たら、鼻でㇷって嘲笑えるくらいの人。今の私なら、出来る。その事実が滑稽。でもあの時の私は弱かったから。だからあの時の私は生きのびる為に、あの時の私を内面からやっと絞り出して演じたのだ。そして私は生き延びた。そして時間を掛けて強くなった。だから。陰湿な感慨だけが残っているのだろう?自由に生きたければ強くなるしかない。強くなるには時間が掛かる。その間、野心的な自分を隠して道化を演じるのもある意味楽しい?……楽しかった?いや……楽しくなんてなかった。早く自由に生きられる実力が欲しかった。もういいよ?もう自分を酷使することに疲れた。だから私は投資をやっているのだ。自分の現実の限界を知ったから。だから私は投資を始めたのだ。優秀な人に働いていただいて、その恩恵を受ける。そんなお金の儲け方があることを、今の私は知っている。もう。頑張りたくない。これ以上、頑張りたくない。でもお金は欲しいよ?生活を維持する以上に。投資だって、そんなに簡単にお金は儲けられないよ?それを今の私は知っている。だからテレビを余計に見なくなったのだろう?今の私には響かない。そんな自分を寂しくは感じない。次のステップの自分が始まっている。淡々と、そんな自分を今の私は俯瞰で見ているから。過去は。なんとかやっと過ぎようとしている。ここまでそれでも生きられたではないか?もういいよ?もういいと、自身の内面に対して言い聞かせる。孤独な時間が苦しかった。私は今迄静かに闘ってきたよ?日々を淡々とそれでも生きてきたよ?だからもういいの。そんな感慨がある。もう疲れた。過去の記憶と闘うことに疲れた。私は過去に勝ったよね?だからこうやってふつうの人として何気なく生きているよね?自分にとってどうでもいいことに感情が揺れて、私の輪郭は歪んだ。それでも自分の輪郭に戻ってきたではないか?日々を自分らしく生きるにも、こんなにも苦しい。そもそも自分らしくって分からなかった。だから興味のあることをやることで、都度内面が複雑に動いて、その動きに対して答えを逐一出して。そうやって自分の輪郭に気づいていった。その結果が今の私。ある程度は気づいたから。だからもういい。努力ではどうにも出来ないことがあるということを知って、今の私はそれなりに楽にはなったよ?それでも日々を怠惰に生きたくない。私には、私に対するプライドがあるから。    なにかこう……不思議な時間だったような気がする。こうして過去を流れた内面を、言葉として昇華している自分に対しても、不思議さを感じている。昇華することで、私自身が癒されていく。私は孤独ではないし、寂しくもない。最近こんな感覚に心地よい。へとへとに言葉にしてきたその先に、こんな境地に辿り着くなんて?もういいよ。だからもういいよ?私はそれでも生きてきたではないか?まだやり残していることはあるの?こんな風に自分に問う。もうこれ以上、自分を言葉にする必要ある?もう疲れた。だからもう終わり。終わりにする。やっと私は自分になった。そんな気がする。  人の中でしか生きられない。人の中で生きることは楽しい。そう思えるには、精神をコントロールする、ちょっとしたコツが必要だった。私だって激しく揺れたよ?自分の存在を消してしまいたくなるくらいに。それでも私は死ななかった。生きることに執着した。私には私の居場所があるよね?それを微かに信じた。誰とでも仲良くしなくても、楽しく生きていける。危険を感じたら、素直に逃げる。それでよかった。今だから確信として吞みこめる。くだらない人の精神に、アクセスしたくない。存在には精神が流れている。その流れに、私の感性は鋭敏になる。流れは簡単に歪みになる。その流れから、私は自身を守らなければならない。今の私は孤独ではないし、寂しくもない。日々の会話なんて、それなりの内容だから。それなりの内容に、癒しを求めてもね?若い時って馬鹿だから。適正な人との距離感なんて分かっていない時だから。生きるって、とっても冷酷なことだよね?それを理解する為の過程だから?だからあんなにも苦しかったの?もういいよ。もう大丈夫。過去に対してソワソワしない。不自然に感情が揺れないし。仕事をするのは生活の為。でも仕方なくでも仕事を継続してきたから。いつの間にか不思議だけれど、過去を乗り越えてた。嫌な自分と少しずつだけれど向き合って、そしてそんな自分を受け入れられる今の私。生きるって楽しいよね?やっと最近、こんな感じになれる。やっと過去が過ぎた。私の本当はきっとここから始まる。そんな気がしている。いのちを大事に使わせていただきたい。やっと今になって、私の深奥から、そんな言葉が溢れてきた。いい感じ?私?今の私っていい感じ?こんな自分に何気なく楽しいんだ!思考を深めることで、やっと私は救われた。今の私は孤独ではないし、寂しくもない。どうでもいい会話に疲れた。日々の会話に自身の深い、本当に大事な話なんてしないから。それは読書を通して孤独に個として時間を掛けて、やらなければいけないこと。それを今の私は知っている。私は自分の人生に責任を持つ。今の私は孤独ではないし、寂しくもない。思考を正しく深めることが、自身を救うことだった。世の中に対して個としての自分がある。世の中が見えていなかった若い時、個としてばかりに執着して苦しかった。世の中に対しての個。たったこれだけのことを悟っただけで、今の私はすごく楽。精神が楽。感覚の世界から抜け出られた?ひょっとして?まだ生きたい。まだまだ生きたい!今日はこんな感じで一日が終わります。どうだ!  日々は淡々と過ぎていく。それでいいではないか?もういいよ?難しいことは。今現在の私は、今現在を生きている。今現在の苦しみを、今現在の私は抱えているよ?過去は過ぎた。リスペクトはしている。でも過ぎたよね?過去の価値観で、今は生きられないよね?私はこの時代を生き残らなければならない。本意ではないけれど。でも私が生きたがっているから。だからしょうがなく生きる術を捻りだす。生きることにほとほと疲れているけれど、だからといって、死にたくもない。それは、私の経験がそう思わせる。会社を点々としてきた経験が、相対的に考える思考を鋭敏にした。もういいよ。シンプルなことを、難しく捉えていたような気がする。それは、目に映った景色を、無理矢理美しく見過ぎたからなのかも知れない?今の私は過去の価値観に疲れている?それでも。今を生きる私は、今生きるこの時代を、生きなければならない。過去はもういいけれど、十分尊敬はするけれど、だけどもういい。今という現実を生きるには、その為の思想が必要だから。情報を取り過ぎるという害を、今の私は知っている。だからもういいよ。もう疲れた私は。大量に情報が流れこんでくる。本当の私が消えてしまいそう?情報を抜いて、私は立っていられるだろうか?情報を抜いた私に、何が残っているだろう?何もない自分と向き合うことが怖いから。だから私は情報を過剰に摂取しようとしている?情報中毒?なんの為の情報なのか?その根本を見失っているような気がする。何気なく苦しんでいる自分に、言葉にすることで気づいた。私だって、こんなにも苦しんでいるではないか?どうでもよい情報は入れない強さを持ちたい。これが今、私が身につけなければいけないスキルなのかも?どう思う?  私は今現在、私自身のいのちを正しく使っているだろうか?最近、死を意識する。死にたいということではなくて。折角生まれてきたのだから。日々、何気なくもどかしい。だからこんなことを考えるのかも?私は私だって、理解はしている。でも簡単には割り切れないよね?すっきり生きたいのにもどかしい。精神がいつも便秘のような。年齢を重ねていくことに、何気なく不安。たまにしらがを抜いている。やっぱり相対的に自身を考えてしまうよね?今の私は人を美しく見過ぎることに疲れているし、もう出来ない。自分を安全に保ちたい。人は怖いという事実を、今の私は知っている。だから周辺の繋がりに神経を尖らせる。本を読むことで繋がれる。なぜ若き日、あんなにも無性に孤独で不安だったのだろう?今の私はあの場所にはいない。当たり前だけど。そして今。私は孤独ではないし、寂しくもない。誰とでも繋がらなくても、こんなにも精神が安定している。自分でも不思議。世の中って、こんなものだよね?今はそんなにいらいらしない。みんな必死で生きている。それを、今の私は理解できる。だから何を言いたいかっていうと。自分を考えることに疲れた。人の気持ちを考えることにも疲れた。だからもういい。今はこんな感じ。私は私としてしか生きられない。これは真実だよね?もう疲れた。他人の思考を自分の言葉に落としこむことに、疲れた。それはそれで、必要だったから。でも今の私はそれを必要としていない。生きたいように生きられていない。それはそれで。仕方がないと思えるようにはなっている。このまま生き続けることに、さほど未練はない。ただ。まだ死にたくはなく。こんな自分に対して、どうなんだろう?と何気なく思ったり。仕方なく働いているし。生きていれば、何かしら欲しくなるし。こんな感じで生きていることに、多少の罪悪感が無いわけでもなく。周辺に、繋がりたくない人だらけだから、だから本を読みたくなるのだろう?生きることって孤独だよね?自分を深く見つめるたびに、こんな言葉となって内側の深くから溢れてくる。この事実じたいが不思議。私は人として生まれてきたから。これは事実だから。この事実を、あるがままに受け入れようと思う。私は私の範囲で生きる。その範囲に土足で失礼に入ってきた人に対して、闘う。これでいいよね?若い時は馬鹿だから。誰とでも平等に付き合おうとする。それは危険だということも知らずに。私はそれで傷ついたではないか?もう疲れた。人を美しく見過ぎた時間が長すぎたのかも知れない?私は私のいのちを、与えられたいのちを、限られた時間内に最高のパフォーマンスで使い切らなければいけない。もうこれ以上、人の気持ちに痛まなくてもいいよね?今の私は、そんな限界感が、ある。もう疲れた。疲れた時は、素直に休む。これでいいよね?危険を感じたら、すぐに逃げる。だって人ほど怖いものはないから。より有利に生きたいから。だから見えない場所でスキルを高める。これは生き残るための知恵だよね?いつ裏切られてもいいようにね。孤独な時間はこんなにも苦しい。こんなにも深く考えて、自分なりに世の中に対して正しい答えを出さなければならない。どうでもいいよ、毎日会っている人なんて。だから毎日会っているのに何も知らないし。名字はなんとか知っているけど名前は知らないし。興味ないし。会社なんてどうでもいいし、はっきり言って。駄目ならほかの会社に移ればいいし。そんな自身の思考の変化に狡さを感じて戸惑っている自分もいるわけで。過去の自分は簡単には過ぎていかない。余韻が残った状態で、新しい思考が始まっている。暴力的な欲求を何とか抑えてね。世の中はより窮屈に変化しているから。内面と世の中の間を流れる緊張感に、たまに死にたくなる。慎重に言葉を選ぶことに、最近何度も息苦しくなる。きっと人に対する答えなんてシンプル。好きか嫌いか?だよね?でもそれをストレートに表現したら、現実の世界ではめんどくさくなるから。まだ大丈夫。まだ生きられる。多分。現実の自分を完全に愛せない状態で、それもこんな内面で。あと少しバランスが崩れたら、私は躊躇なく死ぬかも知れない。死を意識しながら、今の私は生きている。まだ大丈夫。まだ生きられる。誰とでも仲良くしなくても生きていられるということを、今の私は知っているのだから。たったこれだけのことを悟っただけで、すっごく楽になったではないか?誰とでも仲良くなんか出来ない。過去を何度も反芻し、自分を少しずつ強くしたではないか?もういいよね?これ以上強くなる必要は。もう逃げる。一々闘っていたら、疲れるよ?  自分に今まで苦しかった。そんな個々のその時々の自分の抜け殻が、思考の向こうの遠くに見える。経験を欲し、内面の揺れに思考が沸騰した。で。自分なりの答えを出し続けたよね?だからもういいと、自身が言っているよね?これだけの答えを持っていれば、日常の大抵のことは無感情に対応できるよね?  やっと。  次の領域に踏み出せそうな気がする。  もういいよ?  今の私は大丈夫。  もう過去には揺れない。  気づくといつも私は集団から離れ、ポツンとしていた。別に孤独ではなかった。人にはそれぞれの、心地いい距離感があるということを、その時知った。別に。誰とでも繋がる必要はないということを、ある時知った。そうやって不安で苦しくなって。そして答えを言葉にしていった。そんな自分の輪郭を見つける作業が、今、やっと終わったような確信がある。だからこれからは、自身の心地いいことだけをやっていきたい。それがやっと許される場所まで辿り着いたような気がする。やっとね。誰とでも。繋がる必要はなかった。私は私でいいよね?今の自分を守る為に、古い価値観で生きてきた人から、故意に離れてもいいよね?古いものに対する敬意はもちろんあるよ?でもなんだろう?この破壊の衝動は?今を生きる私が居心地の悪さを感じ、だからこんな衝動に気持ちが悪いのだろう?与えられたいのちの時間は有限。だからもういい。一々古いものを相手にしている時間はないよね?簡単に殺せればいいのだけれど?今を生きる時代の価値観に合わせなければならないから。これが世の中を生きるってことだよね?まだ私は大丈夫?自分で自分が怖くなる。裏切る準備は整っているのにね?今の自分にもどかしい。世の中があって自分があるから。自分だけの努力だけではどうにもならないことがある。時の運というか。自分を静かに高めながら、裏切れる時を淡々と待っている、今の私。今の距離感では吐き出せない言葉でも、裏切ることが出来れば吐き出せる。その時私は少し楽になれ、次の境地で何気なく見下せるだろう?今の距離感に、今現在の私は満足していない。だから時々殺意が溢れてくるのだろう。もどかしい。今現在の位置にいることにもどかしい。いつの間にか、人の幸せを喜べなくなった。生きていることに、余裕がないのかも?こんな今の私、どうなんだろう?私は今、どこに立っている?学ぶべきことはきちんと体系立てて学んだよ?そしてやっと個としての自分に戻ってきた。今はそんな感覚。今を生き続けるには、今現在のルールで生きなければならない。その時まで健康でいなければいけないから。どうでもいいことにエネルギーを消費することに、今は気をつけなければならない。だから逃げる。どうでもいいことから逃げる。その時まで、力を蓄えなければいけないから。裏切る準備は整っている。私にはやりたいことがある。でも今現在の私には個として自由に生きていける力がないから。だから仕方なく気を使う。自由に生きるにはちからがいる。そのちからを蓄える為の今の時間、と考える。裏切ることを前提とした関係に、今の私はわくわくする。こんな思考は変だろうか?たいしてお金にならない仕事に愛着を持つことに、今の私は素直に危険を感じられる。思考を絶えず新鮮に保たなければいけない。やだよ、貧乏なんて。私は清潔に素敵に満腹に生きたい。過去の文学に酔いしれたからかも知れない?もういいよ。だからもういいよ。現実の世界を経験し、それが今現在の私に疑問を溢れさせた。疲れた。人に寄り添い過ぎて疲れた。だからもういいよ。今現在の私が揺れている。それも激しくね。純粋な若者に平気で嘘をつく大人がいることに、大人になった私がやっと気づいた。きっとこれから初対面の人と会っても、それほど内面は動かないだろう。私の内側に、人の地図が、形成されているから。もう疲れた。もういいよ?人に。出会いというものに、新鮮さをまるで感じない。私自身の軸を上げなければ、環境を変えても同じような内面の揺れに辟易する。私は今いるこの場所に、辟易している。ん?現実なんて、所詮こんなものなんじゃないの?私はまだ現実を美しく見過ぎている?日々のどうでもいい会話に既に疲れている。日常の会話なんて、天気か人の悪口だけだし。そんな日常に疲れている私。これが連続した日常だから。大切なのはその連続した生活を維持することだから。現実とはこんなものだったという事実を、世の中に出ることで知った。それを実際に働くことで、知った。実際に働くことで、個としての自分の価値を突きつけられた。過去に吸収した高尚な知識は、生臭い世の中に出た私を守ってはくれなかった。もういいよ。だからもういいよ。今までまじめ過ぎたのかも。結婚をしていないということが、今の私の唯一の救いなのかも?もういいよ。自身を深く見つめるたびに、もういいよという言葉が出てくる。私という人が、今を生きるということに、何かしら危機を感じている。だから家庭と子孫を持つことに、拒絶感を持っているのだろう?不必要に本能的に結婚し子供を持つから、昔ながらの苦労をするんじゃないの?世の中を無視した、個としての欲望として抱えられる以上の責任を持つから、不必要な苦労をするんじゃないの?そんな結論に、今の私は楽になった。働くことに、今現在の私は昔ほどに美しさを感じない。なぜ働くのか?第一の目的は、生活費を稼ぐ為だよね?そんな基本に気づいた。たいして金にもならない仕事にプライドを持ち続けることに、私はだけど、不意に馬鹿らしく、意味なくね?という疑問が内側から溢れてきて。そして何かが内側から壊れた。仕事って何かっていう疑問。それを冷静に考えたら、目の前の仕事を純粋に愛せなくなった。私は存命中に資産を築きたい。それには今の仕事を極めても、辿り着けないということを悟った。だからもういい。だからといって、スキルを高めてより高度な仕事を得ようなどという高尚な根性もなく。だったら金融だよねっていう結論になって。だから投資をやっている。私は昔からポツンとしていた。集団をいつの間にか観察できる場所にいて、ポツンとしていた。金融に向いているよね?って、ある時気づいた。自分で働いて稼ぐことには限界があって。だったらその稼いだお金に働いてもらえばいいよねっていう事実にやっと気づいた。私の視点が変化して。見える世界が変化して。私はそれで、私でいられることを知った。私にとって現実は、ここまでのこんなものだった。だからもういい。もう満腹。株で利益を出すには感性が必要で。その感性を磨く為の今までの時間だったと思えたことで、楽になった。自分で事業をやろうなんていう根性も理想もなく。株だったらスマホ一台あれば出来る。撤退も簡単だ。私は今現在、とてつもない時代を生きている。こんな田舎にいながら中央で何が起きているのか瞬時に分かるのだから。質のいい本だって、自宅に居ながら買える。周辺のどうでもいい人と繋がる必要もないしね。私は私でいられるし。もういい。今いる場所の人と繋がることに、もういい。どうでもいい。こんなにも近くにいるのに何も知らないしね。別に知りたくもないし。仕方なく生活費を稼ぎに行っているわけだから。別に非正規で働いているわけだから、会社に対する愛なんてまるでないし。駄目なら次の会社にいけばいいし。投資でそれなりの利益が出ているから残業のあるなしなんてどうでもいいし。こんな環境が、私という人に合っているとは。何だかウケる。考えることを止めなければ、何とかなるもんだ……ということを知った。身をもってね。私は私として何とか生きられている。正しいのか?そうでないのかは分からない。でも今の私にとっては心地いい。だからこれでよくない?もう疲れた。すでに生きることに疲れている。だからといって死にたくもないし。自分なりに考えたら、こんな道もあった。そんなに働けないし、働きたくない。でもお金は必要以上に欲しい。でも犯罪は嫌。だからお金に働いてもらえばいいよね?こんな結論になった。可笑しい?誰とでも仲良く付き合わなくたって、生きていける。私は今現在自由だ。きちんと選択が出来ているのだから。自分にとってどうでもいい人にリンクすることに疲れたし正直どうでもいい。私は私の人生に責任を持っているから。私の範囲に土足で入ってこないで欲しい。こんな生き方があってもいいよね?  スマホ一台あれば、何でも出来る。お金を瞬時に動かして、増やすことだって出来る。周辺の繋がりを切っても、別に?だし。もう疲れた。過去の価値観に対して疲れた。他人に気を使うことに、疲れた。だからといって、個としての欲望そのままに勝手気ままに生きているわけじゃないよ?今の私はそんなに馬鹿じゃなくて。何だったんだろう?という徒労感?がある。価値観て何なの?そんな徒労感。もしかしたら、過去の価値観に疲れているのかも。それもホトホトにね。もういいよ?今生きる目の前の現実に対して、ホトホトそう思う。裏切る準備は内面で整っているのに今現在の私はその現実を裏切れないという現実に、イライラしているという現実。これからはきっと運?なんだろう?目の前の現実に対して、それでも何とか協調を保っている間に、次のステップに進みたいという焦燥。こんな自分に苦しい。もう疲れた。今現在の場所に対して息苦しい。それでも目の前の生活に対してお金が必要。だから仕方なく協調する。もういいよ?友情とか?愛とか?そんな高尚な人ではなかった、私は!今の私にとって大事なのは、目の前の安定した生活。もう疲れた。過去の偉い理論に、今の私は辟易している。もういいよ?純粋に人を好きになって付き合って。それでよくない?今現在の私は、どこに立っているのだろう?感覚的な思考に、今現在の私は疲れている。素直に正直に、そう思う。私は結局生身の人間だったという事実を、今現在の私は知った。人の思考を彷徨って乱されて、やっと現実の私自身に戻ってきた。そんな過去の自身に疲れた。今現在の感慨として、だからもういい。これが素直な気持ち。知ることで私自身の位置を知った。感覚でそんな自分をコントロールすることに、馬鹿らしさを感じた。私は生身の人。私は私の幸せを築きたい。こんな欲望はいけないこと?長い時間軸で見たら、こんな私の欲望はちっぽけなことなのかも知れない。でも私はこの時代に生まれてきたから。今生きるこの時代で幸せになりたいと願うことは、いけないこと?そう考えると、戦略は変わってくるよね?ただ何も考えず悟らずに、汗水流して働くことに、今の私は美しさを感じない。私は今迄過去と向き合って、その為の仕事だったと感慨する。内側に向いていた視線から、やっと解放されたの?私?だから仕事に対してもういいと、思っているんじゃないの?私の中で、何かが変化した。だからこんなにも内面が纏まらない。そして眠れない。おまけに便秘が続いている。自身の内側に刷りこまれた思考に、こんなにも消化の時間を必要とした。もういい。違うよね?やっとそう思える強さを身につけられた。生きることにそれほど執着はないけれど、でもまだ死ねない。私は考え続けることで、それでも生きてきた。考えることを止めなかった。私の中で、何かが変わろうとしている。その変化を、まだ俯瞰で見続けていたい。世の中があって、個としての私がある。個を主張し過ぎると、世の中からはじかれる。個を犠牲にすると、自身の立っている場所が分からなくなる。肉体があって心があるから。たまにはそのバランスが崩れる。世の中に対して、時にはそんな自分が嫌になるよね?今は今で、精神的にも肉体的にもぎりぎりで生きている。ここを過ぎればもっと楽になるってその時々で、思ってきたような?過ぎても過ぎても新たな問題が目の前に提示されて。その問題に苦しんでいる私。何だか滑稽。ほとんどが内面の問題だったような?普通に生きているだけなのに、こんなにも苦しい。結局。自分を高めることでしか、楽になれない?だから私はまだ、生きなければいけない?年齢は重ねたけれど、内面に対して納得した答えをまだ導き出せていない。私はまだ、全然生きていない。どうしよう?私?思考が私を苦しめる。どうしてこんなにも生きているだけで内面が揺れるの?その揺れに対する自分なりの答えを、言葉として導き出し続けなければいけないのに。この緊張から逃げた時、私は死ぬのでしょう?まだ、大丈夫。まだこの緊張を耐えられる。やっと過去が、過ぎようとしているのだから。新しい自分が始まろうとしている。だから。もういい。
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