虎は死して皮を留め

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 人間の才能というのは、突き詰めて言えば『脳におけるシナプスのつなぎ』なんです。  人はよく『簡単』とか『難しい』って言うじゃないですか。あれ、何が『簡単』で何が『難しい』か分かります? それは実際の工数の多さとか細かさや速度で決まっているんじゃあないんです。    『難しい』とは、実は『脳が慣れていない状態』なんですよ。だから自分の目から見て『何でこんな簡単なことが』と思えるようなことでも、他人には『難しい』と思えたりする。……その逆も然りです。  なのであることを『簡単』にしたいと思えば、脳を慣らしてやればいいんです。つまりトレーニングですね。そうしてトレーニングを積むと『それ専用』の回路が脳の中に構成されるんです。そうすると、『遠回り』をしていた脳の電気信号が最短距離を『近道』するようになる……つまり『簡単』になる。これが『脳におけるシナプスのつなぎ』というヤツなんです。  帝都大学の研究は、この原理を応用したものなのですよ。  被験者の脳を細かく分析し、脳の何処と何処のシナプスが繋がっているのかを詳細にマッピングし、これをデータ化した上で『まったくの他人』に転写させる……というものでして。  早い話、熟練職人の技術や勘をレンタルできるようにする技術なんです。  いえ、その効果はあまり長続きしません。どうですかね、せいぜい1週間も持てばいい方じゃないですか? 所詮は『借り物』、すぐ元に戻ってしまうんです。故に『レンタル』と。  でもそれによって言語化できないような深い領域での思考や技術を、他人が一時的に体得することができるはず。それはその分野の後進にとって大いなる教育訓練の機会となるのでは? と期待されるのですよ。プロゴルファーやプロ野球選手のスイングの感覚とかね。  そこで私は考えた。この技術を使って彼の思考の謎の一端に迫れないかと。益田八段と帝都大学を説得し、彼の将棋に関する思考をコピーして私に転写する実験をしたんです。……ふふ、これは内緒ですよ。  その結果どうなったか? ですか。  ええ、その1週間は私にとって奇跡ともいえる時間でした。  異次元。彼の住んでいるのは、一言でいえばそういう世界です。  普通、対局中のプロ棋士は常に20~25手先くらいを読んでいるものです。それくらいが現実的で時間も掛からず、なおかつ安定して先の展開が読めるからです。  私? 私はだいたい30手先くらいを読んでいました。今でも田辺八段とかはそれくらい先を読んで指しているはずです。  ふふ……その、『5手の違い』が勝敗を分けるのですよ。  でも彼は違う。  益田八段の読みは実に『35手先』に至るのです。私たち一線級のプロより更に5手も遠い未来を、彼は歩いていたんです。これは衝撃だった。  そして何より驚いたのが、彼の代名詞とも言える試合中盤で繰り出される『謎の一手』が、『ヒラメキ』によって生み出されているという事実でした。
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