泡沫、君の声

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自分の声が嫌いだった。低くしゃがれていて、「潰れたカエルみたい」なんて言われたこともある。だから人と喋るのも好きではなかった。第一声を発した時の、嫌悪を隠しきれていない相手の表情を見るのが嫌だったから。 『声お貸しします』 そう書かれた看板を眺めながら、私は大きく息を吐き出す。どれだけ嫌でも声は変えられない。——だから私は、声を「借りる」ことにしたのだ。 ✽ 古びた日本家屋の前に立ち、スライド式のドアをコンコンと叩く。すると、遠くからぎしぎしと床板の軋む音が聞こえてきた。店主がこちらに向かってきているのだろう。そう気付き、私は身を固くして待つ。 「今開けるよ」 暫くその場に佇んでいると、そんな言葉と共にガラリと音を立てて戸が開いた。 「お客さんかい?」 白髪混じりの髪に海老のように曲がった腰、それから皺の刻まれた目もと。現れたのは、どこにでもいそうな見た目をしたおばあさんだ。けれど、ここ『声貸し屋』には店主一人しか住んでいないと聞いている。ということは、この人が噂の"魔女"なのだろう。そう判断して、私は小さく口を開いた。 「おばあさんが魔女なんですか」 「私は魔女なんかじゃないよ。どこにでもいる普通の人間さ。……ただ、この店の客にはそう呼ばれているけどね」 言いながら、おばあさんはイヒヒっと魔女のような笑い声を上げる。 「客なら入りな。好きな声を貸してやろう」 言うや否やおばあさんはくるりと踵を返して家の中へと戻ってしまう。置いて行かれたら大変だ。私は玄関先でぺこりとお辞儀をすると慌てておばあさんの後を追いかけた。 「あの、おばあさん」 とても老人とは思えないような早足で廊下を歩くおばあさんに声をかける。室内は薄暗く、長い長い廊下は突き当りが見えなかった。 「本当にどんな声でも貸してもらえるんですか?」 「そりゃあここは声貸し屋だからね。アンタの望む声を借りることができるさ」 「歌手みたいな美声でも?」 「それをアンタが望むならね」 その言葉に、私はほっと息を吐く。おばあさんの返答はどれもはっきりとしていて、嘘を吐いている気配は感じられなかったからだ。 「せっかくだから、とびきり綺麗な声を借りたいんです。どんな歌姫にも負けないくらいに」 そう言うと、おばあさんは「歌姫ねえ」と声を溢した。 「アンタがそうしたいならそうすればいいさ。……でも、それは本当にアンタの望みかい?」 「え?」 おばあさんの問いかけに、私は思わずぴたりと足を止める。すると、それを察知したのかおばあさんも私に合わせるようにその場に立ち止まった。 「声貸し屋には色んな人が来る。ここにやって来る人たちは皆んな自分の声が嫌で嫌で仕方なくて——ほんのひとときでも望んだ声を手に入れようとするんだよ」 「……私だって、自分の声が嫌だからここに来ました」 そうでなければ声貸し屋の噂を信じてわざわざ足を運んだりしないだろう。そう思い声を上げると、おばあさんは「本当に?」と言ってこちらを振り向いた。光さえ呑み込むような黒い瞳がじっと私を見つめる。 「ほ、本当ですよ……。だって、こんなしゃがれた汚い声気持ち悪いでしょう?」 「誰かにそう言われたのかい?」 「え……?」 驚いておばあさんを見つめ返すと、彼女は一つ小さく息を吐いた。 「ここに来る人は皆んな自分の声が大嫌いなんだ。だから、それがたとえ店主——私相手だとしても、なかなか声を聞かせてはくれない。……でも、アンタは違った」 言いながら、おばあさんはトンッと人差し指で私の胸を突く。 「アンタが嫌いなのは自分の声じゃなくて、周囲から嫌悪の視線を向けられることなんじゃないのかい?」 「それ、は……」 確かに、私はおばあさんには何の躊躇いもなく声を聞かせることができた。それは、おばあさんが声貸し屋をしているからで——つまり、汚い声を聞くことには慣れていると思ったからだ。汚い声を聞き慣れているおばあさんなら私の声を嘲笑ったりはしない、と。そう思ったから、私は躊躇うことなく口を開くことができた。 「アンタは私の客だ。声を借りたいって言うんなら貸してやるのは構わないさ。結局のところ、決めるのはアンタ自身なんだからね」 おばあさんは訳知り顔でそう告げる。 確かに、低くしゃがれて汚いこの声を誰も嘲笑ったり馬鹿にしたりしなかったら、私は今ほど自分の声を嫌っていなかったかもしれない。お世辞にも綺麗とは言えない声だから好きになることは無理だったかもしれないけど——それでも、声を変えたいと思うほどに思い悩んではいなかったはずだ。そう思うと、おばあさんの言うとおり私が本当に嫌だったのは自分の声ではなく周囲から向けられる嫌悪の感情なのだろう。 けれど、それを理解したところで私の答えは変わらなかった。 「いいんです。それでもいいから、どうか私にとびきり綺麗な声を貸してください」 真っ直ぐおばあさんの瞳を見つめてそう告げると、彼女はちらりと廊下の奥に視線を向けた。 「アンタが望むのは、どんな歌姫にも負けないくらいの美声。……それでいいんだね?」 「はい」 大きく頷くと、おばあさんは先ほどよりも更に早足でスタスタと歩き出す。 こちらを一切配慮することのないその動きに、私は慌てて後を追いかけた。 「これが声変わりの薬さ」 先が見えないほど長い廊下の奥の奥。突き当りの部屋にたどり着くと、おばあさんはそう言って貝殻があしらわれた小瓶をこちらに差し出した。透明な瓶の中は毒にしか見えないような紫色の液体で満たされている。 「この薬は一滴につき一時間声を変えてくれる。お茶にでも混ぜて飲むといい」 「……ありがとうございます」 そっと手を伸ばしそれを受け取ると、小瓶の中でちゃぷんと波が立った。 「……そういえば」 そこで私はふと思い出す。自分がまだ薬の代金を支払っていないということを。 「この薬、いくらするんですか?」 窺うようにおばあさんを見ながら尋ねると、彼女は「お金はいらないさ」と言った。 「タダってことですか?」 私の問いかけに、おばあさんはふるふると首を横に振る。 「いや、それも違う。この薬の対価はね、金じゃないんだ」 そう告げたおばあさんの口もとには、僅かな笑みが浮かべられている。 「それじゃあ対価って一体……」 おばあさんの言う"対価"とは何だろう。私は何を払えば良いのだろう。頭の中に浮かんだ疑問を口にしようとして——けれど、私が声を上げるよりもはやくおばあさんが口を開いた。 「対価が無事に支払われればその薬は跡形もなく消え失せる。それまでその薬はアンタのもんだ。好きに使えばいいさ」 言うだけ言うと、おばあさんは話は終わったとでも言うようにくるりと背を向ける。その背中はまるで「帰れ」と言っているようで、私は諦めて廊下を引き返すことしかできなかった。 『今日の通話、予定通り二十時からで大丈夫?』 声貸し屋を出た直後、時間を確認しようとスマホを開くとそんなメッセージが入っていた。メッセージが届いたのは今からおよそ一時間前。どうやら、私は思っていたよりも長い時間あそこにいたらしい。 彼女との通話の時間には十分間に合うけれど、何となく気持ちが急いてしまって私は歩くスピードを速めた。 『大丈夫だよ。ランこそその時間で大丈夫なの?今日バイト遅くなるかもって言ってなかった?』 歩きながらそう返信すると、メッセージの横にはすぐに既読の文字がつく。 『大丈夫!やっとユリと話せるのに時間無駄にしたくないもん』 やっと、という言葉を見て、随分ランを待たせてしまったと申し訳ない気持ちが湧き上がる。 私とランは、半年ほど前にSNSで知り合った。最初は挨拶程度の仲だったのが、好きなバンドとゲームが同じということが判明してからは頻繁にリプライを飛ばし合うようになり、やがてランの方から「通話をしないか」と持ち掛けられるようになったのである。本当は、その言葉に直ぐさま「喜んで」と言いたかった。けれど、自分の声の醜さを思うとどうしてもそれはできなかったのだ。 ランに気持ち悪いと思われたらどうしよう。もう話したくないと思われたらどうしよう。アカウントをブロックされてしまったらどうしよう——。過去の経験から、私はどうしたって思考が後ろ向きになってしまう。 そんな時にふと学校で噂になっていた声貸し屋の存在を思い出したのだ。本当にそんな店があるのか、あったとして本当に声は変えられるのか。正直なところ、最初は全てが半信半疑だった。でも、今日声貸し屋を訪れて確信した。きっとあの店は本物だ。あの店に入った途端、本能的にそれを感じたのだ。 私が歩を進めるたび、肩にかけたスクールバッグの中で小瓶がカタカタと音を立てる。 これを飲めば、やっと私は汚い声とおさらばできる。そして、やっとランと心置きなくおしゃべりができる。喜びのあまり、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてしまいそうだ。 私はゆるゆると緩む頬を隠しもせずに家へと続く道を駆け出した。 「これでよし、と」 お気に入りの紅茶を用意して、その中に声貸し屋で貰った薬を三滴垂らす。毒々しい紫色の薬は、予想に反してすぐに紅茶に溶けてしまった。 ちらりと時計を確認すると、針は十九時四十二分を指し示している。三滴垂らしたから、薬の効果は三時間。明日が平日であることを思うと夜遅くまで通話をすることはないだろうし、そろそろ薬を飲んでもいい頃合いだ。そう判断して、私はカップを持ち上げた。 口いっぱいに広がった紅茶をごくごくと飲み込む。薬というくらいだし、物凄く苦かったらどうしよう——なんて考えていたのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。本当に薬が入っているのかと疑いたくなるほどに紅茶以外の味は一切感じられない。 とはいえ重要なのは味ではなく効果だ。そう思いゆっくりと口を開く。そして、恐る恐る声を出した。 「あー」 唇から溢れ落ちた声が私の脳を、身体を、部屋の空気を揺さぶる。けれど、それは決して不快な感覚ではなかった。 「すごい……」 まさしく"どんな歌姫にも負けないような美声"だ。やはり声貸し屋は本物だった。いつもの低くしゃがれたカエルのような声は、もうどこにもない。 「ふふふっ」 思わず笑みが溢れ落ちる。高く澄んでいて、それから白百合のような可憐さを持ち合わせた声。たった三時間とはいえ、こんな素敵な声が自分から発せられるなんて信じられなかった。 上機嫌で鼻歌を口ずさみながら、私は部屋の中をくるくると回る。声が変わっただけで世界はこんなにも色づくのか、と。そんな風に感心しながら、私は感情の赴くままに踊り続けた。 テーブルの上に置いたスマホがカタカタと揺れたのを見て、私は慌ててそれに手を伸ばす。 画面には、案の定『ラン』という文字が浮かび上がっていた。 "通話"をタップする手が僅かに震える。それはきっと、私の中に声を発するのが怖いという気持ちが染み付いているからだ。でも、今日の私は今までとは違う。大丈夫だ、と自分に言い聞かせて、私はぴたりと人差し指を画面に当てた。 「も、もしもし。ラン?」 恐る恐るそう声をかける。しかし、電話の向こうはしんと静まり返ったままだ。 「もしもし……?」 再度声をかけると、電話口からかさりと衣擦れの音がした。 「ラン?大丈夫?」 こうも黙りこくられると私の方も不安になってくる。不審に思いつつも何度か呼びかけをすると、四度目でやっと反応が返ってきた。 『はぁ……』 それは、小さな吐息だった。まるで緊張を吐き出すような、そんな弱々しい吐息。 『……ユリ』 「な、なあに?」 SNS上でのランはいつも明るくて賑やかだ。こんな風に張り詰めた空気を纏ったランなんて、私は知らない。一体何を言われるのだろう、とびくびく震えていると、ランは静かに話し出した。 『私、ユリに言わなきゃいけないことがあるの』 「言わなきゃいけないこと……?」 『……うん。聞いてくれる?』 嫌だ、なんて言えるわけがなかった。だって、ランは友達だ。一度も会ったことはないけれど——本名も顔も知らないけれど、幾度となくメッセージを送り合った友達。だから、私は緊張を押し殺しながら頷いた。 「もちろん。なんでも聞くよ」 そう言うと、電話の向こう側の空気が僅かに緩んだのを感じる。きっと私と同じくらいに——いや、私以上にランも緊張していたのだろう。だとしたら、尚更私が落ち着きを失っている場合ではない。そう思い、ぎゅっとお腹に力を込める。 すると、それを待っていたかのようなタイミングでランが声を上げた。 『私ね、しゃぎょうが上手く言えないの』 「……へ?」 しゃぎょう。しゃぎょうとは何だろうか。社業?それとも車業?頭の中いっぱいにクエスチョンマークを浮かべながら脳内で"しゃぎょう"を変換していると、ランが再び言葉を発した。 『だからつまり……滑舌が悪いって話なんだけど』 そこまで言われて、ようやっと"しゃぎょう"が"サ行"のことだったと分かる。 『ほんとはもっとはやくユリと通話したかったんだけど、話してるしゃいちゅうに舌が回らなくなったらと思うと恥じゅかしくて』 今度はちゃんと"しゃいちゅう"が"最中"だと理解できた。見事なまでにサ行だけ呂律が回っていない。 『……ごめんね、ユリ』 何と返事をしたものか、と考えていると、ランは沈んだ声でそう言った。 『滑舌のトレーニングとかもしてるんだけど、なかなか良くならなくて……。嫌だったら、やっぱり今日は通話やめようか?』 「い、嫌じゃない!!」 思わず大きな声が出てしまって、電話口でランが驚いた気配が伝わってくる。 「嫌なわけないよ……!ランと話せるの、すっごく楽しみにしてたんだもん」 滑舌のトレーニングをしている、と言っていたくらいだから、ランにとって滑舌が悪いことはコンプレックスだったはずだ。こうして電話越しに話をするのだって相当な勇気が必要だっただろう。それでもちゃんと事情を説明して私と話そうとしてくれたことがとても嬉しくて——それと同時に、自分のことがどうしようもなく情けなくなった。 だって、ランはこんなにも正々堂々と打ち明けてくれたのに、私は本当のことを隠しているのだ。今話しているこの綺麗な声は——私のユーザーネームにぴったりな、まさしく百合のようなこの声は、私のものではない。借り物の——仮初の声。ランに嫌われたくなくてこの声を手に入れたはずなのに、本当にこれで良かったのか、と気持ちがぐらぐら揺らぎ出す。 『あのね、私もユリと喋るのしゅごく楽しみにしてたんだ。……だから、嫌じゃないって言ってもらえて嬉しかった。ありがとう、ユリ』 「ラン……」 ランの言葉がグサリと胸を刺す。私はそんな褒められた人間じゃないのに。勇気を出して打ち明けてくれたランとは違って、今も本当の自分を隠しているのに。——私は、このままランに嘘を吐き続けていいのだろうか。 でも、自分の醜い声が嫌だったから声貸し屋で声を貸してもらいました、なんて言って信じてもらえる?いや、きっと信じてもらえないだろう。だったらこのまま、偽りの私のままでいた方が良いんじゃないか。相反する二つの感情がぐるぐると渦巻く。 『やっぱりユリは優しいね』 「……え?」 どうしたものか、と思い悩んでいると、電話口からふとそんな声が聞こえてきた。 『ユリはいつも私のこと気にかけてくれてたから。だから、ユリになら打ち明けようって思えたんだ』 「そっ、か……」 確かに私はランのことを気にかけていた。SNS上でしかやり取りをしていなかったけれど、私にとってランは大切な友達だったから。そして、それはきっとランも同じなのだ。ランだって、いつも私のことを気にかけてくれている。——私のことを、友達だと思ってくれているから。 だとしたら、やっぱり"本当の私"を伝えなければならない。百合のような麗しさがなくても、歌姫のような美声でなくても。ランと友達になった私は、潰れたカエルみたいな声をした私なのだから。 「……あのさ」 打ち明けたら、ランはどんな反応をするだろうか。気持ち悪がられたらどうしよう、という不安と、ランならきっと受け入れてくれる、という期待を胸に私は口を開く。 「私ね、ほんとは——」 隠していた真実を声にのせる。 視界の端で、おばあさんから貰った薬が泡になって消えたのが分かった。
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