四、櫂の気持ち

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 芸者衆の舞台が終わると客席の盛り上がりは最高潮に達していた。怒号のような歓声と拍手のなかで、芸者衆と三味線方の女性たちが客席に向かってしきりに手招きしている。彼女らは口々に「師匠、師匠」とはしゃいだ声を上げていた。観客の視線が客席をさわさわと移ろい、手招きされた人物が立ち上がった。  品の良い夏上布に身を包んだ紳士が、観客から押し出されるように舞台へ上がった。三十歳前後とみえる。長身で姿勢がいい。  三味線を受け取り、舞台の中央に座った。  遠目にも水際だった美男子だとわかる。  客席がしんと静まった。 「菫青会(きんせいかい)家元の青山紫龍(あおやましりゅう)と申します」  落ち着いてよく通る声だった。  拍手と歓声が起こる。 「まったくお忍びのつもりでしたので。普段着でお恥ずかしい」  端然と座った青山紫龍は、三味線を調弦しながら軽口をきく。客席からため息がもれた。 「本日は私どもの門下生をお招きいただきありがとうございます。私も昨年まで、この近くに小さな稽古場を構えておりました。せっかくのご縁ですので……ひと節、申し上げます」  ひときわ大きな歓声が上がった。  この男ぶりで相当の人気者なのだろうと、櫂はぼんやり思った。 「若い方ばかりの演芸会ですから、私も修行時代にかえったつもりで。門前流(もんぜんなが)しの新内節(しんないぶし)から、少し」  高く低く、三味線の響きが場内を満たしていく。  古くは遊女の悲哀を題材にとって人気を博した新内節だった。青山紫龍は巧みに緩急を弾き分ける。唄はなくても強く柔らかく、染み入るような旋律が場内を満たしていく。蒸し暑い空気がすうっと澄んでいくようだった。気づけば、観客たちが扇子や団扇であおぐのも忘れて聴き入っている。櫂もしばし暑さを忘れて、その明瞭な音色に耳を傾けた。  ――ひとりの人間としての魅力や才能には、男も女もない。彼らと違って私には、何の魅力も才能も、ない――。  櫂の気持ちが、またゆっくり沈んでいく。 (第五話につづく)
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