二、待てなかった理由

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二、待てなかった理由

 哉は昨年の春、花街の路地裏で櫂と出会った。夏の終わりに互いの気持ちを認め合って以来、もう身も心も櫂にめろめろになっていて、数日と離れていられなくなっている。  櫂は、伝統的な古典園芸である「変化朝顔」の育種家である。懐古趣味の愛好家を相手にほそぼそと生計をたてていたが、哉の手引きによって、いまは大学の理学研究室に民間研究員として出入りしている。朝顔は遺伝学の研究材料にも用いられる。大学にほど近い場所に新しく家を借りて、そこから研究室へ通う日々を送っていた。  哉は少しでも長く櫂と一緒にいたいので、これまではさぼりがちだった大学の講義にも真面目に顔を出している。講義が終わったあとは足どり軽く理学研究室に向かうのが日課だ。  四月半ばのある日のことーー。 「櫂さーん」と弾んだ声で勢いよく研究室の扉を開けた哉を、室内にいた平本(ひらもと)があきれ顔で出迎えた。 「真木、うるさい。もう少し静かに入ってこい」 「櫂さんは?」 「教授のところに行っている。もうすぐ戻ってくるよ」 「ふうん」 「櫂さんが我々の研究に協力してくれるようになって本当によかったよ。不純な動機であろうとも、お前がまた大学に来るようになった」  哉は政治学、平本は理学と、それぞれ学部は違うが同学年で、同じ下宿の住人どうしでもある。平本は哉と櫂の関係を認め、生あたたかい目で見守っている唯一の友人だった。哉も平本相手には、櫂に対する惚気(のろけ)を隠さない。 「不純ではない。純愛だ」 「何が純愛だ。たまには下宿に戻れよ。櫂さんのところに入り浸りすぎだ」  はたしてそこに櫂が戻ってきた。哉の顔を見て花のように笑う。 「やあ、哉さん。今日の講義はもう終わったの?」 「はい。……くそっ、やっぱりきれいだ。今すぐにでも抱きしめたい」 「真木、心の声が漏れているぞ」  平本に頭を小突かれても哉は気にしない。 「櫂さん、熊本行きの日取りは決まったんですか」 「うん。五月に入ったらすぐに出発する。ふた月の予定だよ」  櫂は熊本へ長期出張することになっていた。かの地で門外不出として厳格に守られている朝顔の育種法について学ぶためだ。 「……やっぱり俺も行こうかな」  真面目な顔で呟く哉に、櫂は苦笑いし、平本は天を仰いでため息をつく。 「いやいや、哉さんは大学の講義があるでしょう」 「愚かしいな、真木」 「櫂さん、あちらで迷子にならないでくださいね」  櫂はおっとりしていて、哉はそこがかわいいと思っている。しかしどうしようもない方向音痴なのが心配だ。自宅や大学から少しでも離れるとすぐに道に迷うので、櫂がどこかへ出かけるとなれば、できるだけ付き添うようにしている(過保護だという自覚はある)。 「安心したまえよ、真木。姫君に悪い虫がつかないように、俺がお守りしてさしあげるから」  愉快でたまらないという表情で平本が言う。彼もまた遺伝学専攻の学生として熊本へ赴くのだった。哉はちっとも愉快ではない。  ――櫂さんと二人きりで長期出張というのが気にくわない。平本の奴がうらやましい。 「平本君、あんまり哉さんをいじめないでやってよ。それに私は君たちより年上なんだから、自分のことは自分でできるよ。姫君でもない」  櫂がのんびりと笑う。  平本もアハハと笑う。  不機嫌なのは哉だけである。
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