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「あいつ、櫂さんとの距離が近いんですよ、いつも」
大学からの帰り道、櫂と並んで歩きながら、哉はぶつくさ文句を垂れた。
「そうかなあ」
「あんまりべたべた触らせないでくださいね」
「わかったわかった」
平本が面白がってからかっているだけだというのはわかっている。それでもしょっちゅう親しげに櫂に話しかけたり、ときとして肩や腰に手をまわすのが、いちいち目について仕方がないのだった。
「ふた月も会えないなんて俺は寂しいよ、櫂さん」
「そうだね……私も寂しい」
櫂がそっと、往来ですれ違う人々にわからぬように哉の手に触れた。
二人の指がすばやく絡み合って、そして離れた。
◆
そうして櫂は熊本に行ってしまった。
その間、哉のもとには数日おきに葉書が届いた。
日々の研究のことや宿舎での暮らしのことを知らせる文面の最後に、いつもそれとなく哉への思いが書き添えられていた。哉も櫂からの便りを心待ちにして、まめに返信を書いた。便りのない日は何度も郵便受けをのぞいてため息をついたし、葉書が着けば着いたで、会いたい気持ちが募った。
櫂からは借家の鍵を預かっていた。ときどき訪れて風を通したり、枝ものの鉢植えに水をやったり、櫂の布団を日に当てるついでに、こっそり顔をうずめてみたりもした。
そして今日。
待ちに待った帰還の日である。
――櫂さんが、今日、帰ってくる。
哉は朝からそわそわしていた。浮き立つ気持ちを映すように、梅雨明けも近い七月の空はあかるく晴れ渡っている。
櫂の自宅の雨戸を開けて掃除をした。顔を見ればすぐにでも抱きたくなるのは分かっていたので、風呂に行って念入りに身づくろいも整えた。
前日に下関を発った夜行列車が東京に着くのは午前十時の予定だ。しかし列車が予定より早く着くかもしれない。哉はたっぷり余裕をもって駅に着いた。大勢の人でごった返す降車口で、首を長く伸ばして待つ。
果たして列車は定刻に到着した。
人波が押し寄せる。
哉は背伸びをして、櫂の姿を探した。
「おーい、真木」
櫂より先に、人込みのなかで手を振っている平本の姿を見つけた。哉も手を振り返す。
「真木、お迎えご苦労」
「平本を迎えにきたわけじゃないがな」
「ははっ、知ってるよ」
平本は荷物を足元に下ろし、額の汗をぬぐった。
「ああ、暑い。くたびれたよ」
「お疲れさん。……で、櫂さんは?」
平本はきょとんとして、後ろを振り返った。
一緒にいるはずの櫂の姿がない。
「あれっ? 一緒に列車を降りたはずだぞ」
人込みのなかにも櫂の姿は見当たらない。
二人で辺りを見まわす。櫂がいないので、手分けして駅構内を探しまわった。
◆
結局のところ、櫂は駅構内で迷って事務室で保護されていたのだった。哉と平本がたっぷり一時間ほどもかけてほうぼう探したあとだった。
「ごめんね、平本君、哉さん。……列車を降りるとき、近くに座っていたお婆さんが」
櫂が消え入るような小声で述べた言い訳によれば――。
その老婆は長旅のせいで腰が立たなくなっていたのだという。助けを求められて手を貸しながら、櫂は平本を呼び止めようとした。しかし平本はあっという間にプラットホームに出て行ってしまった。
「それで、しばらくはお婆さんを支えて歩いていたのだけれど、もう歩くのがつらいというからね、どうにか手の空いていそうな駅員さんを探して引き渡したんだ。そしたら」
降車口がどこなのか、わからなくなってしまったのだという。
「駅のなかを往く人たちはみんな忙しそうだったから、呼び止めるのも悪くって」
上背もあって外国人めいた風貌の櫂が、大きな手荷物を抱え、ひとりぽかんと構内に立ちつくしているさまは人目を引いたのだろう。別の駅員が心配して声を掛けてくれたのだった。
「それで降車口まで連れてきてもらったんだけど、平本君も、迎えにきてくれているはずの哉さんもいなくって……」
そのころ哉たちは駅構内を探しまわっていたので、すれ違ってしまったのだった。事務所に詰めている若い駅員がニコニコ笑いながら言う。
「ここにいればきっとお迎えの方が来てくださいますよって、お引き留めしたんです」
櫂はしきりに恐縮し、小さくなっている。
哉は櫂の無事に心から安堵し、相変わらずの方向音痴ぶりに少し腹が立ち、それからやっぱり愛おしく思ってしまう自分に呆れたのだった。
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