三、あさがお先生

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三、あさがお先生

 八月も末に近づいたころ、大学からほど近い花街で、催し物好きの学生たちが納涼会を企画した。平本が世話役の一人で、哉も巻き込まれている。  目玉は演芸会だ。若い芸者衆や前座の噺家(はなしか)、三味線の弾き手を集めてみんなで騒ぐ。そして今年は平本がもうひとつ、新しいたくらみを仕掛けていた。 「“あさがお先生”?」  平本から受け取ったガリ版刷りのちらしの見出しを、哉は読み上げる。  櫂の顔写真が大きく載っているのを見て眉をひそめた。   「集会所を借りてな、櫂さんが仕立てた変化朝顔を展示する企画だよ。櫂さんに話は聞いているだろう? 演芸会の切符もそこで売りさばくんだ」  小鼻を膨らませて平本が力説する。 「櫂さんには、朝顔の仕立てについて、来場者の相談に乗ってもらってな。だから、あさがお先生だ」 「その話はもちろん聞いている。しかしずいぶん櫂さんの写真を大きく載せたな」 「えっ、そうかなぁ。ハハッ」  平本がなぜかごまかし笑いをする。櫂が了承しているのだから哉もとりたてて異論はないのだが、なにやら胸騒ぎがする。  納涼会の当日、哉の胸騒ぎは的中した。  朝早くから花街の集会所を貸し切って、「あさがお先生」のにわか教室が始まった。早朝にもかかわらず集会所の外まで押すな押すなの大盛況である。園芸好きとみえる中年の婦人や紳士もいたが、それよりも目につくのは女学生や若い女性、子どもを連れた若い母親たちだ。櫂が出ていくとあからさまな歓声があちこちで起こった。 「おい、すごいな、真木」  集会所の隅で様子を見ている平本が舌なめずりでもしそうな顔をする。哉は彼の脇を肘で小突いた。 「どういうことだよ。みんな、朝顔というよりは櫂さん目当てじゃないか」 「いやあ、どうだろうなあ、アハハ」  平本はまたごまかし笑いをしながらそそくさとその場を離れていった。哉は念のため、櫂の様子を見守ることに決めた。彼は集まった人々から寄せられる質問にていねいに答えている。  この日に合わせて花が咲くように、櫂が仕立てた朝顔はどれも見事だった。  細い管のような赤い花弁を垂らしたもの。  白い針のような姿をしたもの。  紫色の花弁の中から、もうひとつ花弁が立ち上がったもの。  澄んだ空色の花びらが裂けて、ひらひらとあでやかなもの。  葉のかたちも、縮れたものや発条(ぜんまい)のように巻いたものなど、まさに珍花奇葉(ちんか きよう)の朝顔たちだ。  母親に連れられた数人の少年が甲高い驚きの声を上げている。 「えーっ、これが朝顔?」 「ねえ先生、間違えて違う花をもってきたんじゃないの?」  一人の少年が櫂を見上げる。  櫂は先生と呼ばれて照れ笑いしながら、かがみこんで子どもたちと目の高さを合わせた。 「そう思うのも当然ですね。でもこれは間違いなくすべて朝顔ですよ。こんなにもいろいろな姿になるのには、遺伝子の働きが関係しているんです」 「いでんし?」 「少し難しい話だけれどね。君たちは、朝顔を仕立てたことはありますか」 「あるよ!」 「遺伝子の研究をすると、花の色とか形の秘密がわかるようになります」 「へーっ」  夢中になって櫂と話し込んでいた少年たちが母親に急かされて立ち去ると、一人の紳士が待ちかねたように櫂をつかまえた。園芸通とみえて、櫂が緊張しているのがわかる。それでも話が弾んでいるようで、ときどき笑みがこぼれた。  哉は櫂の姿に長いこと見とれていた。  出会って一年と少し。櫂が他人と親しく交流しているところをあまり見たことがなかった。自分以外に向けられる笑顔に少し嫉妬する。 「櫂さん、やっぱり人気者だなあ。狙いどおりだ」  平本が哉の隣に戻ってきて、しめしめという顔をしている。演芸会の切符もよくさばけたのだろう。 「そりゃあ、あのとおりの美男だしな」 「真木、櫂さんを大事にしてくれよ」  平本がふいに真面目な口ぶりで言うので、哉は意外に思って彼の顔を見た。 「熊本に同行してつくづく思った。俺たちの研究室に無くてはならない人だ。あのとおり、穏やかな人柄で頭脳は明晰。あの人の育種の実績に、あちらの研究者も舌を巻いていたよ」  そこで平本がニヤニヤする。 「お前があの人に甘えたい放題に甘えているのは見ていて分かるが、あの人もお前がいると安心するのか、表情が明るいんだよ。お前のことが大好きなんだなあ。だから、大事にしてほしい」  哉はふたたび櫂の姿を見る。  今度は中年の婦人に、朝顔の仕立て方を聞かれて説明している。  その横顔がきれいだった。 「お前に言われなくても、大事にしている。一生、大事にするつもりだ」 「おうおう。お惚気(のろけ)だな」
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