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昼近くになって「あさがお先生」の教室は、盛況のうちに仕舞いになった。
朝顔たちは早くもしぼみかけている。
はかない花だと、哉はあらためて思う。
世話役の学生たちに交じって会場を片付けている櫂に、哉はそっと近づいた。軽くつつく。
「先生、たいそうな人気でしたね」
「いやあ、先生はやめてよ。遺伝学の知識なんか知ったかぶりもいいところだし」
困ったように櫂が笑った。多くの人と交流したせいか、顔が汗ばんで上気している。目にも生気が満ちていきいきと輝いていた。こんな表情を見るのは初めてで、哉はまた見とれてしまう。そこに平本がやってきてぽんと手を叩き、張り切った声を出した。
「さて、櫂さん。おかげさまで午後からの演芸会は満員御礼ですよ。お客さんとして楽しんでくださいね」
「うん、そうさせてもらうよ」
「真木も世話役の一人だから櫂さんのお伴はできないが、演芸会がはけたら一緒にお座敷にいらしてください。夜は無礼講です」
「ありがとう」
「芸者衆とおシャミは、とびきりの美人ぞろいなんです。売り出し中の巧い噺家も呼びましたから。期待しててください。それじゃ」
慌ただしく去っていく平本の背中を、哉と櫂は並んで見送った。
それから顔を見合わせる。
「正直、こういう場に櫂さんをひっぱりだすのは心配でした」
「……」
「櫂さんの昔の客。彼らが来やしないかとひやひやしていた」
哉と出会ったころ、櫂はひっそりと朝顔の育種で生計を立てていた。
顧客の多くは富裕な趣味人で、花番付や花合わせで芸を競うために、陰で櫂のような育種家を雇う。なかには朝顔にかこつけて櫂自身を買っていた好き者もあって、彼らがこの場にやってこないか、哉は警戒していたのだった。
「表向きの立場のある方ばかりだったから。外で顔を合わせることはないよ」
櫂が静かに答える。
「不安にさせてごめんね、哉さん」
「櫂さんが謝ることじゃない。それに今日の櫂さんは格好よくて、俺は惚れなおしました。だから良かった」
「えっ」
赤面する櫂を、哉は心から愛おしく思う。そっと彼の手を取った。
「いっしょに昼飯を食ってから演芸場に行きましょうか」
「うん」
「何を食べたいですか」
「そうだねぇ……」
二人は集会場を出て、花街で最も賑わう表通りに向かった。
(第四話につづく)
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