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狼男の憂鬱(表)
いつからだろう。
満月を見ても何も感じられなくなったのは。
私は高校生男児だ。至って普通の、とは言えない。
何故なら私は生まれてこの方ずっと、狼男だからだ。無論、この事実は誰にも言えない私だけの秘密だ。
私の家柄は皆この血筋だった。冗談でも無く、満月の夜になると勝手に身体が疼き出し、何の躊躇いも無く狼の姿に変身する。美しい遠吠えを轟かせ、人々をちょっとした恐怖に脅かし、或いは魅了する。
私はかつて、そんな謎めいた自分が決して嫌いでは無かった。
なのに。
「そんなでっかい溜息つかないでくださいよ。こっちまで気分下がるんで」
突然の辛辣な声に意識を引き戻される。気が付くと後輩の赤谷君が隣でタバコのケースを補充しながら怪訝そうな顔でこちらを睨んでいた。
私は昼間は学生をしているが、夜はコンビニでアルバイトをしている。離れて暮す家族からの仕送りだけでは生きていけないからだ。
赤谷君はバイト先の後輩で、深夜時間に同じシフトに当たることが多い。派手な見た目の彼は学校にも行っていないらしく、正直なところあまり良い噂は聞かない。
「すまない。つい」
「ついじゃないっすよ。この5分間で何回溜息ついたと思います?」
「そんなについていたか?」
「12回すよ、12回。マジで鬱陶しいから」
赤谷君が舌打ちを鳴らす。左の八重歯がチラリと覗き、余計に不機嫌そうな顔をしていた。
自分でもそれだけのため息を溢していたことに、全く気が付かなかった。隣で働く赤谷君が苛立つのも無理はない。
私はずり下がってくる眼鏡を押し上げながら「すまない」と繰り返し謝る。すると赤谷君がまた舌打ちをし、「謝られんのもウザイっすね」と容赦なく言い放つ。更にしゅんとなる私に、彼は長めの前髪をわしゃっと掻き上げ心底面倒臭そうに尋ねる。
「で、ため息の原因は?」
赤谷君は私を心配してくれているようだった。厳しいのか優しいのかよく分からないが、私は彼が自分を気にかけてくれたことに漠然とした喜びを覚えた。
「いや、大したことではないんだ」
「大したことじゃないんなら、もう絶対に溜息つかないでくださいよ」
うっと言葉に詰まる正論に、何も言い返せない。しばらく沈黙が流れたが、観念し私は自身の悩みを打ち明けた。
「最近、うまく出来ないんだ」
「何が」とまた面倒臭そうに赤谷君が聞き返す。薄々分かってはいたが、彼は気が長い方では無いらしい。
「今まで上手く出来ていたことが、普通に出来なくなった。周りと自分は違うということに、改めて気が付いてしまったんだ」
「何それ、部活か何か?」
「部活、というよりも、ライフワークかも知れない。私が息をするようにしていた当たり前の事が、世間の当たり前じゃ無かった」
私は話し出すと今までの我慢していた思いが次々に止めどなく流れ出てくるのを感じた。誰も居ないコンビニの中心で、悩みをぶちまけたくなった。いや、赤谷君だけは居るのだが。
「こんな日がいつか来ることは、頭では分かっていた。けれど、本当に意識してしまったら最後、元には戻れない。もう何も考えなくても気楽に過ごせていたあの頃の自分には、二度と戻れる気がしないんだ」
「ふーん」
赤谷君は自ら尋ねてきたというのに、まるで興味もなさそうにガラスケースへ肉まんやあんまんを補充している。私は彼のその様子に落胆し、両手で頭を抱え込んだ。
誰かにこの答えを求めること自体が過ちだ。彼に何かを期待していたわけでも無い。
「こんな事言われても、困るだろう」と取り繕う。失笑気味に頭を抱えたまま赤谷君の顔を盗み見る。
「うん、話が抽象的過ぎてまるで分かんないすね」
「そうか、そうだな、すまない」
私が謝ると、赤谷君は「謝るの禁止だから」とまたこちらを鋭い切長の目で睨み付けた。そんな彼に私はまたすまないと言いそうになるのを堪える。
二人の間に再び沈黙が流れた。それは永遠とまでは言わないが、耐え難い空気感の長い長い沈黙だった。最早客の一人や二人来てくれやしないかと望む程だった。
話は終わった。これ以上彼に具体性を持たせた進展ある話題を提供することは出来ない。私もこれ以上この話の結末に、望みもない。
仕事に戻らなければ。そう思い背を向けた時、赤谷君の舌打が背後から聞こえてきた。
「俺もありますよ、そういうの」
「え」
赤谷君が声を発したことに反射的に声が漏れる。そんな私に赤谷君は眉根を寄せて怪訝そうな顔をする。
「いや、つい、変な意味ではなく、ちょっと意外で。続けてくれ」
むすっとしながらも赤谷君は私の弁解を聞き入れ、続けてくれた。
「俺も普通じゃ無いから学校にもろくに行けないし、友達も出来ない。友達になる前に手が出るから」
手が出る、というのは色んな噂を持つ赤谷君らしい表現だと妙に腑に落ちた。
「あんたは普通になりたいんすか?」
そう尋ねられ、私は些か考えたが、答えはすぐに見つかった。
「いや、そういう訳でも無いのだと思う」
「だったら、ただのスランプじゃん」
「スランプ?」
「てか普通って何?って話だから」
確かに、”普通”とは一体何だろうか。
「誰基準の世界なんだって話だから。俺はとっくの昔に”普通”に生きることは諦めてるし、別にそれで良いと思ってるし。俺が俺らしく生きる事にもう何の後ろめたさも無いっすよ」
今はそう簡単に言ってのける赤谷君は、これまでどれだけの苦悩を乗り越えてこの言葉を得たのだろう。そう想像すると私には彼がとても尊く輝いて見えた。
「でも」
神々しく見える彼が少しだけ目を伏せる。長い睫毛が下を向く。
「まあ確かに、誰にも理解されないっていうのは、いつまで経っても慣れないところもありますけどね」
唐突に弱さを見せた赤谷君のその感情は今の私自身のそれと同じに思え、理解者を発見したことへ少しばかりの興奮を覚えた。
「そう。そうなんだ。誰も私のことを本当の意味できっと理解なんて出来ない。それが何よりも悲しく、苦しいんだ」
「でも意外とあんたの個性をわかってくれる人がいたりするもんじゃ無いんすか」
「そうだろうか、私もそれを望んで良いのだろうか」
「知らね」
赤谷君はやはり短気なのか、突然さじを投げたように無責任な口調になる。うまい具合にこちらとの距離感を図っているかのようだ。私はふと、そんな赤谷君のことをもっと知りたくなった。
「君は」と赤谷君のことを質問しようと体を捻ると、左手が尖ったものに当たった。
「痛っ」と思わず声を上げ、小さな痛みが走った指先を見ると中指からじわりと血が滲み始めた。どうやらカウンターに置いていたテープカッターの刃先にぶつけてしまったようだ。
軽い擦り傷だが、小さな点になっていた血の塊が徐々に大きさを増し、ぷくりと膨れ上がって来る。何か拭うものを探そうとした時だった。
いつの間にか目の前に赤谷君が居た。しかも文字通り、目と鼻の先に。
何故だか赤谷君の目は見れなかった。正確にはその場を動けず、見ることが出来なかった。まるでナイフのような鋭利なものの切先を喉元に突きつけられているようだった。
恐らく数秒程の時間だっただろう、しかし私にはまるでスローモーション映像の中に入り込んでしまったかのように思えた。その間も、私は絶えず思考していた。
数メートルも先に居た赤谷君が、どうやって私の目の前に移動したのだろうか。どうして私はこんなにも分かりやすい殺気を向けられているのだろうか。
思考は継続するも、体は石化されたように動かない。パシっと左手首を赤谷君に掴まれた時も、私はそれを黙って見ていることしか出来なかった。これから何が起こるのか様々な可能性を何パターンも想像したが、しっくりくるものが一つも無い。
何とか石化を解くために、擡げた首をぎこちなく起こす。すると私の視界には、赤谷君のまん丸な金色に変色した瞳がいっぱいに広がった。
あ、綺麗だなと頭の隅で思った矢先、気が付けば私は赤谷君を思い切り突き飛ばしていた。
決して赤谷君が怖かった訳でも、彼を嫌いになった訳でも無い。
何を隠そう私は、生まれてこの方狼男だ。黄色くてまん丸なものを見ると身体が疼いてしまう。
今までスランプだったのに、どうやら私の心と本能はやっとこの苦悩を乗り越え、また自分らしさと自信を取り戻したらしい。何故かこのタイミングで。
喜びも束の間、はっと我に返り突き飛ばした赤谷君を見ると、彼は床に積まれたタバコのケースの山中に倒れていた。狼男の力は馬鹿にならない。
「赤谷君!」と叫び、咄嗟に駆け寄る。
そして「すまない、すまない」と何度も謝罪し彼の身体を起こそうとすると、赤谷君は意外にも笑っていた。
口元に覗く八重歯がいつもよりも鋭く光っている。こんな鋭い歯に噛みつかれたらひとたまりもないだろう。
そして彼は身体を半分起こしながら、言った。
「謝るの、マジで禁止だから」と。
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