02

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「とんでもなく星空が綺麗っていうことは理解した」  あの迷子の子どもと話している途中だったのに。  何かショックを与えられて気絶して、どこかに運ばれたとして……一体ここはどこなんだ。崖の下――いや、谷というのがぴったりな場所。川のせせらぎが近くで聞こえるが、どんなに星空で明るく見えても夜の川というのはあまりにも暗くて分かりにくい。川には近づきすぎないよう歩き始めてすぐ、俺は足を止めることになった。 (ここ。もしかして、鉱山か何かか……?)  よく見れば、岩肌のあちこちが、星空に負けじと光り輝いている。好奇心をくすぐられて近づくと、様々な色合いをした輝きが見て取れた。複数の鉱石が眠っているのでは、と期待させる。そのほとんどは透明で、水晶にそっくりだ。 「なるほど。お幸せにっていうのは、ここで金儲けて貯蓄を増やせってこと……じゃあないよな……」  それにしても、ここが異世界だといわれたらあっさり納得してしまいそうなほどに美しい場所だ。虫が何者も気にせず鳴いて、星空はどこまでも広がっていて。煌めく水晶の谷――こんな場所、夢じゃなければあり得ない。 (まあ、とりあえず通帳でも見て落ち着こ……ん?)  んん? おかしい。俺は確かに、ジャケットの内ポケットに記帳を終えたばかりの新しい通帳と、勤めを終えた古い通帳の二冊を入れていたんだ。安定剤代わりの通帳が……消えている! 「あの子ども、まさか!!」  急いで確認すると今着ているスーツ以外、俺は何も持っていなかった。通帳どころか、財布も携帯も。一瞬で怒りが沸き起こっても、すぐに虫たちが奏でる音に怒気を抜かれ、その場に蹲り、しばらく動けないでいた。 (俺の通帳が……俺の生きがいが……どこかで酷い目に遭ってないといいけど……)   やはり、このままここで蹲っているわけにはいかない! 立ち上がると、夜明けが近づいていることに気づいた。通帳を記帳していたさっきまでは、夜になりかけだったのに。  空の境界線が白み始め、あっという間に夜空が朝焼けに色を変えていく。星空の下でも美しかった水晶の谷は、顔を出した太陽の光によってより一層美しく輝き始めた。そんな曙色の空を背にして、何か――いや、大きな鳥がこちらへと真っすぐ飛んでくるのが見えた。見たことがないくらい大きな翼の鳥が、数十羽はいる。 「うわあ……こういうところで異世界感、いきなり出さなくてもいいんだけど」  つい独り言が漏れ出る。しかし、俺はすぐにそれが自分の勘違いだと気づいた。あっという間に俺がいる水晶の谷までやって来た『彼ら』は、ぐんぐんと高度を下げてきて、やがて俺の目の前でその翼をたたんだのだ。 「なぜ、ここに『羽なし』がいるんだ?」  俺を囲んできたのは、みんな鼻が高くて髪も色とりどりの、外国人たち。鼻が高いと顔が整って見えるから羨ましい――じゃなくて。連中はみな、ここまで飛んできた大きな翼をその背に持っている。彼らは、飛べるのだ。ということはやはり夢だな、これは。ものすごく精巧なコンピュータグラフィックでも、ここまでの再現は難しいだろうなっていうくらい彼らの翼はすごい迫力がある。 「えーと……お邪魔しました」  一礼してから、俺は元来た方へと――谷の奥へと急いで引き返した。とっとと夢から覚めて、俺の大事な通帳の在り処を確認しなければならない。後ろから「待て!」と怒鳴り声が追いかけてくるのも無視して水晶の谷の奥に戻ると、ひんやりとした空気が出迎えてくれた。差し始めた日の光はここまで届いておらず、まだ夜の名残が残っている。 「なんかこれ、他のとまた違うな」  大ぶりな透明の水晶と水晶の間に隠れていた、深い青金色の石。吸い込まれそうな美しい青に手を伸ばそうとして――何かが風を切る音と共に、ひどい痛みが俺の背中を襲った。 「痛い?! 痛い!!」 「止まれ、怪しい奴め!」  振り返ると、あの有翼人たちが憤怒の形相で俺に向けて短剣や弓矢を構えていた。恐ろしくて確認できないが、今まさに俺を襲ったひどい痛みは――短剣でも投げつけられたのか? そう認識したら、一気に痛みが全身を走り抜け、眩暈がして足がふらついた。 (……夢で死んだら、俺ってどうなるんだ? ちゃんと起きることができるんだろうな?!)  無傷な通帳たちに再会できるまで、俺は死ねないんだ。見失った通帳のことを思い出して歯を食いしばると、俺は先ほどの青金色の石を掴みながら姿勢を変えようとして――失敗した。 「あれ?」 「「「ふぬあああああ?!」」」  青金色の大きな岩は俺の手に触れた途端、固形物から青い光に変わった。その不思議な光景に驚いたのは、俺だけじゃない。有翼人たちも悲鳴を一斉に上げた――そう、悲鳴を。  後ろを振り返らなくても分かる。俺は今、映画さながらのピンチを迎えている。ここはもう行き止まりで逃げようがない。それこそ翼があったとしても飛んで逃げたところで間違いなく矢を射かけられ、落っこちて終わりだ。こんな、わんさか有翼人がいる世界なら、俺にも翼があったって許されそうなものなのに。 「ヴェルリヤ様に面目が立たない! 今すぐこの者に罰を!」  青い光が空へと消えていった途端、俺の眩暈は一気に悪化してその場に蹲った。グラグラと世界がまわり、それから血が一気に頭から下へ流れる気持ち悪い感覚に襲われる。彼らは俺をどうする気なのだろうとか、そんな大事なことすら考えていられない。 (……通帳……俺の、通帳たち……)  もう、守ってやれないかもしれない。 *** 「どうして生かしておくのですか!」 「何度も言わせるな。この者からは聞きたいことがある。それに、私の許可なく手傷も負わされたことだしな。もうこれは終わったことだ。この者をこれ以上追及するのであれば、お前たちが鎮魂の谷に無断で立ち入ったこともまた、断罪する」  問い詰める声に対して、男が面倒そうに答える。同じ男でも惚れ惚れとしてしまうくらい魅力的な声だ。低いけれど若さはあって、声優でもやっているのかな、なんて考える。しかし、最後の『断罪する』という一言には厳しさを感じた。「し、失礼しました」と震える声での返しがあり、複数の足音が遠ざかっていく。 「……痛い」  目を覚まして、今度こそは現実に――そう思った俺の視界に、白に青を含んだような色の髪に薄氷色の瞳というとってもファンタジー色溢れる、大きな両翼を持った男が映った。  一瞬、彫像かな、と思うくらいに冷たく整った容貌に視線がくぎ付けになる。きっちりと折りたたまれていた両翼が、男がこちらを向くのと同時に僅かに広がった。男の髪と同じく、白に青みがかった、美しいけれど力強そうな翼。俺に攻撃してきた連中が小鳥に見えるくらいに男の迫力は凄い。顔が整っていると、男が長い髪をハーフアップにしていても全然気にならないし、むしろ更に格好よく見えるという謎の発見までしてしまった。 「目が覚めたか。体調は」  むしろ、ここ最近じゃないくらいぐっすり寝た気がする。連中にやられた背中はまだ痛いが、あの厄介な眩暈は消えていた。男は足音を立てることなく俺が寝かされていた寝台に近づくと、その冷え切った表情のままで俺を見下ろしてきた。この彫像が、声を出して喋っていることに驚愕して固まっていると、彫像男の眉根が寄った。 「念のため傷薬は多めに使ったが、しばらくは不調が残るかもしれない。辛いところがあればすぐ言え」 「ええと……大丈夫、たぶん」  俺が頑張って答えても、男は「そうか」とも「分かった」とも言わず俺を一瞥して、部屋から出て行ってしまった。男がいなくなると、途端に空気も和らいだものになる。まだ背中はズキズキとするが、何とか上体を起こしてみる。サッパリとした、清潔感のある部屋に俺は寝かされていた。飾り机や寝台は西欧風な感じがするのに、男やあの有翼人連中が着ていた服や装飾品、窓にかかっているカーテンに至るまでギリシャ神話か何かに出てきそうな感じ。かくいう俺も布を巻き付けただけっぽい服に着替えさせられていて、通帳との再会は絶望的となった。試しに自分の両頬を思いっきり叩いてみたが、残念ながらとんでもなく痛いだけだ。 (あの子の冗談かと思ったのに……本当に異世界に来ちゃったわけか? しかも、有翼人たちの国に……?)  通帳も財布も携帯もすべて失った状態で、異世界に放り出されたというのか。俺は寝台からのそのそと這い出ると、大きな出窓に近寄ってみた。 「……まさか、俺一人にどっきり仕掛けるために、こんな大がかりなことするわけないだろうし」  通帳のことは心配だが、思ったよりも元の世界への未練がなくて、そんな自分に戸惑う。窓からは橙色をしたレンガ造りの家々が広がる街を見下ろすことができ、その先は海が広がっているところまで見えた。俺がいる部屋はなかなか見晴らしが良い。 「うーん……本当に異世界ということは、もしかして俺にも翼が生えてきて、空を飛べるとかは……なさそうだな」  有翼人らしき飛ぶ大きな影があちこちに見える。思いっきり高く飛ぶ者もいれば家ぎりぎりの高さを暢気に飛ぶ者もいて、彼らなりの飛行ルールやマナーがあるのかもしれない。出窓を開けてみると、涼しい風が吹き込んできた。陽射しは強そうだが風はあるし、空気は乾いているから気候も悪くない。もう少しと思って窓から身を乗り出したところで、唐突に後ろ襟あたりをぐっと掴まれる感じがして窓辺から引き離されてしまった。部屋から出ていったはずの男が、俺を見下ろしている。無言のまま俺から手を離すと、窓を閉じた。 「……へ?」  俺の背と膝裏に男の手が差し込まれて、自分の身体が宙に浮く。男に抱き上げられたのだ。確かに、上背は男の方が高いし体躯もしっかりしているが、同性にそんなことをされたことのない俺は、されるがままになることしかできない。そうして半ば強制的に俺を寝台に戻した男は、食べ物を運んできてくれた。野菜がたっぷりと入ったスープと果物中心の食事で、見た途端お腹がぎゅうううと情けない音を出した。
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