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「……よっし! 順調順調!」  梅雨入りしそうなじめっとした夜のこと。帰宅途中に寄ったATMで、記帳していたら真新しい通帳に切り替わったのを受け取り、我ながら気持ちの悪い笑みを俺は浮かべた。そういえば久しぶりに口角を上げた気がするし、まだほんのりと空が明るい時間に帰ることができたのもこれまた久しぶりだ。 (うちの部署に来るのは、ほんっとロクな上司いないんだもんなあ……)  新しい上司がうちの部署にやって来た詳細な経緯は分からないが、原因はもう分かる。今時めずらしいパワハラ野郎だから。パワハラ上司も過去に何度か経験してきた俺には今さら感が強いが、ようやく馴染み始めていた派遣社員が、ヤツが来てたった一週間で会社に来なくなったのは絶許だ。  そんなストレスだらけの職場に数年もいれば、良くも悪くも心が麻痺してしまうらしい。怖いとも嫌だとも思わない代わりに、楽しいとか嬉しいとも思うことが大分少なくなった。万年人数不足で残業が多いから、限界まで稼げることだけはありがたい。そして、今日は賞与支給後の給料日だ。新しい通帳に記載された総貯蓄額に、ホクホクとしてしまう。次のお楽しみは、冬。まだ入社して間もない頃に貯金をしていることを同期たちに話したら、たっぷりとドン引きされてしまったが、これが俺の生きがいなのだから仕方がない。必要な時にケチったつもりはないし、せいぜい自分の衣食住にかかる費用を極力浮かせることくらいしか考えていない。  銀行のATMコーナーから出ると、賑やかな笑い声が耳に飛び込んできた。駅前にあるライブハウスには、俺より幾分若い男女が溢れかえっている。たった数年前までは、俺自身もああいう場所に出入りしていたのに、それがまるで前世だったんじゃないかっていうくらい遠い日々に感じる。一人だけ地元から遠く離れて、仕事を頑張ったと認めてくれるのは――通帳に刻まれていく残高だけだ。 (このまま消えたら、どうなるのかな)  今日も、本当は代休の予定だったのだが、体調を崩した同僚の代わりにカードを通さず出勤した。疲れているはずなのに、そういうことにも最近は麻痺してきた気はする。『消えたい』だなんて言っても、実際には家に帰って寝ることくらいしか、俺にはできない。たまにはコンビニでアイス買うくらいの贅沢はいいかな。そう思って踵を返した俺の視界に、ぽとりと何かが空から落ちてきた。 「……鳥?」  スズメより一回り大きいくらいの小さな鳥だ。全身丸みがかっていて青色の、とても愛らしい姿をしている。周囲があまりにもうるさくて、びっくりしてねぐらから落ちてしまったのだろうか。そんなことを考えていると、鳥は俺をじっと見上げてきた。それから「ピ!」と可愛らしい声で鳴くと、ピョンピョンと跳ね始める。 「もしかして飛べないのか? 雛鳥……?」  しかし、雛鳥の近くには親鳥がいるものだから、可哀想に思っても手を出してはいけないって何かで読んだぞ。飛ぼうとはしないものの、鳥は何度も俺を見ながら元気よく進み始めた。昔から鳥が大好きな俺には、これを放ってさっさと帰るなんて選択肢はない。  飛べない小鳥のことが心配で後を追いかけているうちに、普段は通らない道を辿り始める。そろそろ行き止まりそう、というところで鳥は「ピ!」と一声をあげると思い切りよく飛び去って行った。 「なんだ、飛べるじゃないか……」  心配して損した、と苦笑して踵を返す――と、今度は小さな子どもが立っていた。驚きのあまり、無言で飛び上がった俺を見て、ニコニコと笑っている。 (ヤバい……もしかして俺、残業しすぎておかしくなっちゃったのかな)  だって、目の前に現れた子どもには――できれば飾り物であって欲しいのだが、さっきまでぴょんぴょんしていた小鳥のものに似た青い色の翼が生えているのだ。 「あ、ハロウィンか!」  六月だけど。 「こんばんは」  外国人の子どもかな。整って色素の薄そうな可愛らしい顔をしている。――流暢な日本語を喋っているけれど。 「……こんばんは。もしかして迷子かな。パパかママは近くにいる?」 「父も母もいません。兄が一人います」  僕は、――と言います。子どもは自己紹介してくれたようだが、名前が上手く聞き取れない。「俺は佐々木(ひろ)です」と慌てて名乗りながらも、この状況に俺は困惑した。  両親がいなくて兄が一人? もしかして放置子、という奴だろうか。さすがに心配になってきた。屈んで子どもと視線を合わせると、何故か迷子に頭を撫でられた。  「お兄さんは今、幸せですか?」 「……え?」  新手の新興宗教か? 子どもを使った勧誘だなんて、たちが悪い。近くに誰か大人がいるのだろうと立ち上がろうとしたところでスーツの上着を思いっきり引っ張られて、俺はその場に尻もちをついた。 「危ないだろう⁈」 「ごめんなさい! でも、話を最後まで聞いて欲しくて」 「幸せかどうかなんて、そんなの――」  ボーナスが出て、コツコツ続けてきた貯金が増えた。俺の幸せは――俺の幸せとは、なんだ。目の前にいる青い鳥少年の投げかけた、たった一言のせいで。今まで懸命に緩まないよう気を付けてきた緊張の糸が、ぶちりと切れてしまったような、そんな無力感に襲われた。 「あ、あの、大丈夫ですか?」 「……大丈夫だよ」  迷子が心配そうに、まだ尻もちついたままの俺を覗き込んでくる。「泣いているので」と続けてきた。青い翼を持った子供の方が今にも泣いてしまいそうで、俺は頑張って笑おうとしたのに、上手く笑えているか自信がない。そういえば、誰かと話して笑うだなんて、相当久しぶりな気がする。職場では、陰で泣いている奴はいても、笑える雰囲気じゃないし。 「そっちこそ泣くなよ。俺が泣かせたみたいじゃないか」 「泣いてません! ……あの、僕が見えるということは結構……その、お兄さんは限界ではないかと」  限界だと言われれば、そうだったのかもしれない。 「やっぱり、消えたくなってきた……」 「あのあのっ! 消えるのでしたら、たとえば別な世界に行けるとしたら……どうですか?」  新興宗教勧誘っぽい迷子にも心配されてしまうとは。 「突然変なこと言っちゃってごめん。でも、そうだな。別な世界にサクッと行けたらいいな。そんなの無理だけど。……ほら、そろそろ帰らないとお兄さんが心配しているんじゃないか? 帰り道が分からないなら、お兄さんに迎えに来てもらうとか……連絡先は分かる?」  フォローのつもりで返事をした俺の周囲に、ふわりと青い光の波紋が広がった。 「もう、僕は兄のところに帰れないので――お兄さんはどうか、幸せになって」  満面の笑みを浮かべた有翼少年が囁く声と共に、俺は気づけば知らない場所で一人、行き倒れていた。  ――ここからどう、幸せになれと?
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