狼男の憂鬱(裏)

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狼男の憂鬱(裏)

「はぁ」 はい、これで11回目。 左横から度々聞こえてくる重い溜息に、怒鳴りつけてやりたくなる衝動を辛うじて抑える。 タバコのケースの入った段ボール箱を開けながら、先ほどから作業の手が止まっている男の横顔をこれ見よがしにジロリと睨みつける。しかし相手はそれすら気が付いていないようだった。 ぼうっとした面持ちで、正面を向いたまま固まっている。 一体今、この男の目には何が映っているのだろうか。恐らく呆けていて、何も見えてはいないのだろう。 俺は高校生男児だ。至って普通の、とは言えない。 訳あって昼間はうかうか学校にも行けず、友人と呼べる相手も特にいない。 別にそういった相手が欲しい訳でもないが。 俺は昼間が苦手だ。主に夜行性だから、夜の方が気分が良い。コンビニで都合が良い深夜バイトをしている。それに深夜なら人も少なく、俺には一石二鳥だ。そして正に今、そのバイト中というわけだが。 「はぁ」 おいおい、これでもう12回目だ。 いい加減にしろよ、と脳内ではこの男を既に12回はぶん殴っているが、いよいよ現実に口出しせずにはいられなくなった。 堪忍袋の尾が切れた、というやつだ。 「そんなでっかい溜息つかないでくださいよ。こっちまで気分下がるんで」 出来る限りの嫌味を込めて男に言う。男はこちらに気が付いたのか、やっと俺の顔を見た。 ダサい眼鏡が本来あるべき位置からズレ落ち、更にダサい。そして若干俯き加減で「すまない。つい」と謝った。 自然と舌打ちが出てくる。 こちらのその様子に、男はまた謝る。壊れたおもちゃのように謝り続けるこの男に心底嫌気が差した。 男はバイト先の先輩だった。俺の学年の一つ上、学校は違うが見た目からして真面目なガリ勉野郎だ。 そして、些細なことで自分を卑下する小心者だ。俺みたいな人間と気が合う訳もない。 こんな男など毛頭どうでもいいのだが、仕事を上がるまでの間絶え間なくこの溜息を聞き続けるのは真平御免だった。 「で、ため息の原因は?」 最大限の譲歩をし、理由を聞いてやることにした。どうせくだらないことでウジ虫のようにうじうじと悩んでいるに違いない。 理由を聞いた後、どんな酷い言葉で罵ってやろうか。 そう考えていると、男の顔が少しばかり明るくなり、「いや、大したことではないんだ」とはにかんだ。そして男は“大したことではない”ことを話し始めた。 「最近、うまく出来ないんだ」 そう言って話し出した男は徐々に饒舌になっていった。要約すると、どうやら男は自分の世界と他人の世界のギャップに苛まれているようだった。 「こんな日がいつか来ることは、頭では分かっていた。けれど、本当に意識してしまったら最後、元には戻れない。もう何も考えなくても気楽に過ごせていたあの頃の自分には、二度と戻れる気がしないんだ」 男のその言葉を俺は静かに聞いていた。男の話は終始抽象的な表現で、話の核心は全く見えなかった。そしてやはり、グダグダ悩んでいるこの女々しい男に不快感を抱かざるを得なかった。 だが、不覚にも俺は男の気持ちに寄り添えてしまった。 何故なら男のその感情は、自分が感じたことのあるそれと似ていたからだ。 「すまない」 男がまた謝った。 鬱陶しくなった俺は「謝るの禁止だから」と敢えて冷酷な声色で告げる。 男はまた謝りそうになるのを堪えているようで、その様子がどこか可笑しい。 俺は生まれてこの方、ずっと独りだった。 そして何を隠そう、俺は吸血鬼(ヴァンパイア)だ。冗談でも無く、腹が減ると人の肌に自然と目がいく。目の前で誰かが蚊に刺されただけでも、思わず俺もその腕に噛みつきたくなるのだ。 吸血鬼はよく日に当たると死ぬと言われているが、俺は死なない。死なないが、あまり太陽に当たるのは好きでは無い。頭がクラクラして気分が悪くなるから。 生い立ちはというと、正直あまりよく分からない。記憶はないが、幼い頃に両親に捨てられたらしい。施設で育ったが、昔は訳も分からずよく人に噛み付いて叱られ、軽蔑され、避けられる日々だった。大人も子供も、皆気味悪がって俺に近づこうとはしなかった。 俺は徐々に自分が普通では無いことを知った。だから、普通の人間を装うことにした。 しかし、人に噛み付くことはいけない事だと分かっていても、血への欲求は膨らむばかりだった。世間に溶け込もうと自分なりに努め、もがけばもがく程、望めば望む程、俺は自分自身が何者か分からなくなっていった。 そうしてある日、ついに溜まりに溜まった欲求が爆発した。やっとの思いで手に入れた友人達を、俺は“餌”にしようとしたのだ。 ふと気が付いた時には、俺は血まみれで気絶している友人達を両腕に抱えていた。幸い彼らは生きていたが、翌日から学校中には様々な噂が流れた。 “赤谷(あかや)君ってヤク中らしいよ” “男数人を一人でボコボコにしたらしい” “あいつに近づくな、殺されるぞ” 根も葉もない噂もついでに流れたが、俺にはどうでも良かった。 それを切欠に、俺は“普通”でいることをあっさりと諦めた。 諦めるしか無かった。 無意識のうちにまた舌打ちが出る。 「俺もありますよ、そういうの」 男がこちらをキョトンとした顔で見た。喋り出した自分自身にも驚く。 俺はこの男に何を伝えようとしているのだろう。 俺の機嫌を損ねたとでも思ったのか、男は慌てて「続けてくれ」と言った。誰が続けてやるかと突っぱねる事も出来たが、俺は話し続けた。自分のことを話しながら、何故だか心が焦る。 この男に何か期待でもしているのだろうか。 「あんたは普通になりたいんすか?」 苦し紛れにそう尋ねると男は意外にも「そういう訳でも無い」と答えた。それは実に清々しい程に素早い回答だった。 なんだ、悩んで無いじゃん。 「ただのスランプじゃん」と言うと、男は納得していないようだった。しょうもない悩みに俺を付き合わせやがって。今度はそのことに苛立ちが膨れるが、同時にどこか愉快でもあった。 自分の話を他人にしたのは、初めてのことだった。 「俺はとっくの昔に“普通”に生きることは諦めてるし、別にそれで良いと思ってるし。俺が俺らしく生きる事にもう何の後ろめたさも無いっすよ」 それは、この男のための言葉では無かった。俺自身のための言葉だ。 俺は、俺だ。他の何者でも無い。 ずっと心の内側に秘めていた想いが、湧きでる泉のように流れ、溢れ出す。 誰も俺という人間の存在を否定出来ない。 俺はずっと独りだった。 これからも独りだって、自分らしく堂々と生きていける自信がある。 なのに。 「誰にも理解されないっていうのは、いつまで経っても慣れないところもありますけどね」 なのに、俺はまだ、孤独に怯えているのか。 はっと我に返り、しまったという思いで男を見る。情けない姿を他人に見せた自分自身に動揺するが、一方で男の目はキラキラと輝いていた。先程までの暗い面持ちが嘘のようだった。 「そう。そうなんだ。誰も私のことを本当の意味できっと理解なんて出来ない。それが何よりも悲しくて、苦しいんだ」 男は共感を求めているようだった。 「でも意外とあんたの個性をわかってくれる人がいたりするもんじゃ無いんですか」 不本意だが俺は前向きな言葉を返した。 悩みの大きさは異なれど、自分と同じ痛みを知っているこの男に、少し情が沸いてしまったからだ。 「私もそれを望んでいいのだろうか」 男が恐る恐る俺に尋ねる。 それは自分に対して向けられた言葉では無いことは分かっていたが、どこか急に気恥ずかしくなり、「知らね」と突き放すように答える。 そう言えば、俺はこの男の名前すら知らない。 なんと言ったっけ、確か。 男の名前を思い出そうとしている時だった。 「痛っ」と声が上がる。その声に反射的に男の方を見てしまったことを、俺はとても後悔した。 男の指には紅いものが付いていた。血だ。 急速に嗅覚が鋭くなるのが分かる。神秘的な愉悦の香りがする。気がつけば、男がすぐ目の前にいた。 あ、これ、駄目だ。 頭の端で悟る。自分の欲望が沸き立つ。怪我をした男の左手首を、自分の手が勝手に掴む。 どうしても抑えられない衝動がすぐそこまで足音を立てて迫ってくる。 何度も何度も後悔したのに、こうして俺はまたいとも簡単に失うのだ。 どうしてだろう。全部俺が悪いの? 別に普通の人間になりたい訳じゃない。それが孤独な理由の本質では無いからだ。 “誰も私のことを本当の意味できっと理解なんて出来ない” 男の言った言葉が、そのまま自分の心臓に真っ直ぐ突き刺さるようだ。 誰も俺のことを本当の意味できっと理解なんて出来ない。 だって理解してくれる暇を、俺が相手に与えられないから。物理的に。 掴んだ男の手首を口元へ持ち上げる。叫び出したくなる衝動に俺はまた蓋をする。 でも本当はいつだって思っているんだ。 誰か、俺を止めてくれって。 文字通り、目と鼻の先にいる男の瞳が、ぎこちなく顔を上げ俺の瞳を捉えた。一体、この男の目には今何が映っているのだろうか。 その瞬間、俺は腹部に強烈な衝撃を感じ、そのまま気がつけば床に積んだタバコケースの山中に倒れていた。 脳が情報処理に追いつかない時、人は本当に口がぱかっと空いてしまうのだということをしみじみ理解する。腹部がジンジンと痛むが、問題はない。 何を隠そう俺は生まれてこの方吸血鬼だ。身体は普通の人間よりも多少丈夫に出来ている。 それよりも。 「赤谷君!」 声のする方を見る。 こいつ、俺の名前ちゃんと知ってたのか。 その時の俺はまるでスローモーションの世界にトリップしてしまったかのようだった。 駆け寄ってくる男に、耳が生えている。ついでに尻尾も。 目を薄ら細めてもう一度見る。 やはり、生えている。 「すまない」と平謝りする男の顔が近づくと、なんと頬に髭も生えているではないか。 目は吊り上がり、まるで狼のようだった。 口元から覗く歯も、自分のものと同じくらい鋭い。 いや、俺の方が凄いし、カッコいいけど。 ぽたりと胸内に何かが一滴、滴り落ちた感覚だった。 砂漠のように乾いた心に、たった一滴だが雫が落ちた。 その水滴がじわじわと根幹に届くような、不思議な感覚で満たされていく。 こいつの名前、なんだっけ。 俺は今まで感じたことの無い感情に浸りながら、謝り続ける男に「謝るの、マジで禁止だから」と改めて釘を刺した。 だが不思議と、幾度も謝るこの男にもう不快感は訪れなかった。
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