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宇堂が両親から受け継いだこの家は、広さも設備も二人で住むには充分過ぎるほどだったが、築十年以上と少し古い。会社の徒歩圏内に住んでいた有希は通勤も大変になるし、ここは売りに出して職場の近くで良さそうな物件を探そうと持ち掛けたが、当の有希がこの家に住む事を希望した。
「まだまだ綺麗だし、ご両親の遺した大事なおうちじゃないですか。私もここが好きですし、中庭の植物とも離れがたいし、宇堂さんさえ嫌じゃなければ、私、ここに住みたいです」
出勤時間は大体同じだから、朝は車通勤の宇堂が乗せていけばいい。有希がそう言うのであれば、異存はなかった。
数ヶ月後の引越当日、眞崎と八田と松下、三人が手伝いに来てくれた。大型家電は元々あるので、運び込むのは細かい荷物だけ。わざわざ業者を呼ぶほどでもないし自分達で済ませようと思う、と話したら、八田と松下が手伝うよ、と申し出てくれたのだ。この数ヶ月で晴れて八田の恋人となった眞崎も駆り出され、大人数での荷物の運び込みは賑やかに、あっという間に終わった。
三部屋ある二階の一室は元々宇堂が自室として使っていた部屋だ。残る二部屋を、有希の私室と二人の寝室に振り分けた。
何度も訪れてすっかり馴染んでいたこの家に、有希の、自分だけの空間が出来た。どこかくすぐったいような気持ちで、有希はそれを喜んだ。
何年も毎日使うものだからと、宇堂はベッドを新調した。大人二人で寝ても窮屈でない、クイーンサイズのベッド。これまでは宇堂が一人で使っていたセミダブルのベッドで一緒に寝ていた。今までと同じ部屋なのにまるで雰囲気が変わって、少し落ち着かない。けれど決して嫌な感じではなく、真新しくきらきらして見えた。
「これから毎日ここで暮らすなんて、不思議な感じがします」
夜が更けて、寝着に着替えた有希はもそもそとベッドに上がりながらふふっと笑った。
「うん、俺も。ずっと住んでる家なのに、違うとこに引っ越してきた気がする」
実際、有希を迎える為に二階は全体的に整理して、だいぶ様変わりした。そこに有希の荷物が運び込まれると、家全体の空気や気配が、新しいものに入れ替わった気がした。
「こうしてゴロゴロしてるだけで楽しいです」
普段からどことなくふわっとしている有希だが、今日はことさらにふわふわと花を飛ばさんばかりにご機嫌な様子だった。うつ伏せになって枕を抱いてにこにこしている。
だが宇堂がヘッドボードに寄りかかって座ると、有希ははっとした顔をした。
「あっ、そうだ、忘れてた」
むくっと起き上がり、寝室から出て行った。何やら小さな箱を手にして、すぐに戻って来る。
「宇堂さん、今日はこれを試してみませんか」
キラキラと輝く目で差し出された箱を受け取って、宇堂は首を傾げた。
「お灸?」
「はい。煙が出ないタイプなので、寝室でも使えるそうです。私も初めて買ってみたんですけど、ツボの場所は事前に勉強したから完璧な筈です」
忙しい宇堂を癒し、支える。その試みを忘れた訳ではない。ある程度の力が必要なマッサージと違って、これなら事前学習さえすれば自分にも出来ると思った。
有希にとっては満を持しての提案だったが、宇堂はさらに疑問を深めた様子だった。
「何でお灸?」
「今日は力仕事が多かったし、これで宇堂さんの疲れが癒せればと思って」
「あぁ、なるほど」
そう言えば手伝いに来た八田が言っていた。有希が忙しい自分を気にかけて、何か出来る事はないかと色々悩んだり調べたりしていた、と。
「疲労回復のツボだけでもいくつもあるんです。どこが疲れてますか?肩こりなら肩井、足腰でしたら足三里が効果的だそうです。眠りの質を向上させて疲労回復を図るのでしたら…」
「あぁ、それがいいな。快眠効果」
「快眠ですね!それなら手首にある神門というツボに」
ツボの場所を指し示そうと手首を取った有希の腕を掴んで、自分の胸の中に引っ張り込む。有希を抱いたまま、ベッドにごろんと寝そべった。
「気持ちはすごく有り難いんですけど、今日はこっちの方がいいかな」
「こっち?どっちですか?」
「この子。俺の一番の安眠アイテムだから」
「…えぇー…?」
腕の中で鼻の頭を突かれて、有希は疑わしげな目を向ける。宇堂は笑って、有希を仰向けに横たわらせた。キスをして寝着の釦に手を掛けると、有希は「あっ、なるほど」と唐突に呟いた。宇堂もつられて手を止める。
「どうしました?」
「そういえばこないだ読んだ快眠の為の本に書いてあったなぁと思って。オーガズムを感じるとオキシトシンやセロトニンが分泌されて睡眠の質が高まると。宇堂さんが言うのは、そういうことですね?」
「違います」
「私がいつも事後にすぐ寝ちゃうのはそういうメカニズムだったんだなぁって思って読んでたんです。宇堂さんもおんなじだったんですね。そういう事でしたら私いくらでもご協力しますので、どうぞご遠慮なく」
はっきり否定しているのに、有希は全く聞く耳を持たず張り切っている。自ら服を脱ぎ始めようとする有希を、宇堂は一旦制止した。
「そういう目的でする訳じゃないから」
「そうなんですか?でも、さぁ始めようかって雰囲気でしたよね?」
「うん、まぁそうだけど…いや、もういいや。あの、脱がなくていいです。それは俺がやるから。やらせて欲しい」
「少しでも手間が省けるかと思ったんですけど…」
「俺にも多少は情緒ってものがあるんです」
よくわからない、という顔で首を傾げつつも、有希は服を元に戻す。有希の服が整ったのを見て、宇堂はまたごろんと仰向けに寝転がった。有希はその腕に頭を乗せて、ぺたんと張り付き寄り添った。
「何か私に出来る事があったら言ってくださいね。私、宇堂さんの為なら何でもします」
「うん。ありがとうございます」
あらぬ方向に飛び出していって無茶をしようとするのが目に見えているから、そう言われても素直に喜べない。だが気持ちは有り難いし苦言が功を奏すとも思えないので、そう礼を述べるだけに留めた。
「でも出来るだけ、俺の目の届くところにいて下さいね」
「?はい。大丈夫です、私出不精だから」
「…うん…まぁいいや」
どうも今夜は噛み合わないなと思いつつ、宇堂は有希をぎゅっと抱き込んで、目を閉じる。
甘い弾力と温かな体温、花のような清らかな匂い。すぐに気怠さが襲ってきて、ほら、こんな技が出来るのはこの子だけだと、そう思う。
「…おやすみなさい」
淡い靄の中を漂うような眠りの狭間に、柔らかい声が降りてくる。
何もしてくれなくても構わない。
また明日、目を覚ましても、すべては変わらずに、ここにある。
彼にはそれだけで、充分だったから。
── end.
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