一日目・PM5:05

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一日目・PM5:05

 彼女が勤める研究所の裏庭には、一本の桜の樹が立っていた。  数十年の時を経た、立派な枝ぶりの大木だ。春には満開の花がそれは見事に咲き誇るのだが、十一月も半ばを過ぎた今、葉もだいぶ落ちて、寂しげな姿になっている。  その樹の下で、彼女は、困っていた。  十メートル近くあるその樹の半ばより少し下の位置に、淡いレモンイエローの布地が枝に引っ掛かってひらめいている。  それは彼女の探していたものだった。  昼休憩を屋上で過ごしていた時、着ていたカーディガンを脱いで手近な柵に掛けていたら、急な突風にさらわれた。  慌てて追うが、それはあっという間に宙を舞っていき、この桜の木の途中の枝に引っかかった。  取りに行く術もなく昼休みが終わり、終業時間を迎えた後で地面から見上げれば、昼間と同じ場所で静かに鎮座していた。時折風に揺られ、枝と一緒にはためいている。  警備室から脚立でも借りてこようかとも思ったが、確か植栽の管理は業者に任せていた筈だ。あの高さまで届く本格的な脚立の用意はないかもしれない。  「どうしよう…」  「どうしました?」  背後から、男の声がした。  独り言に対する予期せぬ応答に、彼女はびくりと肩をそびやかして驚く。  おそるおそる振り向くと、見知らぬ男性が背後に立っていた。  「あぁ、すみません。驚かせました?」  どこか飄然(ひょうぜん)とした笑みを浮かべながら、男は彼女を見下ろす。  二十代後半くらいだろうか、背が高く、精悍な顔立ちと体付きをした男だ。  白いブラウスに濃紺のスラックス。スーツの上着を腕に引っ掛け、仕事中という(てい)であるが、ここの職員には見えない。  彼は隣に並ぶと、先程の彼女の視線を追うように、桜の木を仰ぎ見た。  弱々しくはためくカーディガンを見つけると、あぁ、と得心がいったように呟いて、尋ねる。  「あれ、お嬢さんのですか?」  お嬢さん。  その人の口から出た、馴染みのない古風な呼称に、戸惑う。  突然話しかけられて跳ね上がった脈拍もまだ落ち着いていなくて、狼狽(うろた)えながら小さく頷くので精一杯だ。  だが、それで十分だったらしい。  彼は手に持っていた上着と鞄を地面に置くと、木の幹の窪みに足をかける。自分の頭より少し高い位置にある枝を両手で掴んで、ぐいぐいと何度か引っ張った。  はらはらと、枝に残っていた葉が舞い落ちる。  「うん。この木なら、多分いけます。少し待ってて下さい」  言うやいなや、懸垂の要領でひょいと体を持ち上げ、枝の上に乗る。  ぎしっと、大きく枝が軋む音がした。  えっ、と思わず小さな声をあげた彼女を一瞥(いちべつ)すると、彼は口の端をあげて小さく笑った。  彼はまた別の枝に手を掛け足を掛けて、身体を持ち上げて、難なく高みへと登っていく。  「うそ…」  呆気に取られて、彼女はひたすら、彼の動きを目で追った。  木に登る大人のひとなんて、初めて見た。  道具を使ってもとても届かないと思っていた場所に、彼は造作もなく、あっという間に辿(たど)り着くいた。  体に元々備わった機能を当たり前に使っているだけだと言いたげな、(りき)みのない自然な動き。大きな体に見合わぬ軽やかさとしなやかさで、四肢が自由に伸びて流線を描く。  その洗練された動きに、彼女は目を奪われた。  (───綺麗)  人間の、それも男の人を相手に、生まれて初めてそう思った。  強くてしなやかな動物のような。  例えるなら、豹のような、虎のような──  「……野生の、動物みたい…」  考えたことが無意識に口からこぼれ出たのと、戻ってきた彼が地面に降り立ったのは、ほぼ同時だった。  耳に届いた彼女の呟きに、彼はぽかんと目を丸くする。  彼女ははっとして、口元を手で覆った。初対面の、しかも困っているところを助けてくれた人に対して、動物みたい、というのは──ものすごく、失礼だったんじゃないだろうか。  恐る恐る顔色を伺うが、彼は気を悪くする様子もなく、ははっと笑った。  「それ、子供の頃よく言われてました。親からもよく小猿って呼ばれてて」  「……いえっ……あの、猿、とかではなくて…」  しどろもどろに弁明しようとしたが、サル科もネコ科も大差なく、そもそも動物になぞらえる事自体が失礼だろうと思う。  言葉に詰まっていると、彼はカーディガンを丁寧な手付きで軽くはたいて、差し出した。  「どうぞ。破れたりはしてないみたいです」  「……ありがとうございます……」  聞こえるか聞こえないかの小さな声で礼を言った。  「いえ、お気になさらず。それと──成海有希さんですよね?」  「…えっ…?」  初対面の相手に名を呼ばれて、思わず声をあげた。  戸惑う彼女に、男はポケットから名刺入れを出すと、一枚抜き取って差し出す。  「高階(たかしな)さんから聞いてますか?今日から…」  「高階……稜子さん?」  『──あなたのボディガードをお願いしたの。明日から来てくれるから』  その名前を聞いた瞬間に、一昨日の夜、電話で話した稜子の声が脳裏に蘇った。  「──あっ…」  心当たりがありそうな様子に安堵したのか、彼は笑顔を深めて、軽く腰をかがめて礼をした。  「今日からお世話になります。宇堂(うどう)(かおる)と申します」  社名の下に宇堂薫、と名前が印刷されている。名前も社名も、聞いていたものと一致する。だけど。  有希は何度も名刺とその人の顔を見比べた。  だけど、稜子はこうも言っていた。  『住み込みで頼んであるから。状況が落ち着くまで、しっかり守ってもらいなさい』  そう。住み込みで、と。  だが、聞いていた話と違う。何が違うかと言えば。  (お爺ちゃんみたいな人だって、言ってなかった…⁈)  目の前の男性は、とてもそう言われるような年齢には見えない。  お爺ちゃんと聞いて有希が思い浮かべるのは、白髪で小柄で髭を蓄えた、温厚そうな高齢者である。黒髪で大柄で髭もない代わりに清潔感がある彼には、ほぼ当てはまらない。──かろうじて、温厚そうではあるけれど。  (この人と…一緒に住むの?)  くらりと、眩暈(めまい)のような感覚に襲われて、有希は軽くよろめいた。
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