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「ちょっと。それ取ってよ」
テーブルにずらりと並んだ大皿料理の中、大きなボウルにこんもりと盛り付けられたサラダを指差して、その男は言った。確か原田と名乗っていた。初対面の男だった。
そのサラダは八田の座る位置から少し離れたところにある。立ち上がって隣に座る人の前を遮り、腕を伸ばさないと届かない。対して八田の斜め前の席に座る原田は、サラダボウルの目の前に座している。
何故、自分で取らない。
そう問い質したくなったが、この場が合コンであるという点を考慮し、八田は穏やかに丁重に断った。
「えぇと。ここからだと取りにくいんで、そちらから取ってもらえますか?」
我ながら理性的な対応だと思ったが、原田は不快そうに眉を跳ね上げる。不承不承という顔付きでそのボウルを取ると、腕を伸ばして八田の目の前に突き付けた。
「……?どうも?」
取りにくいと八田が言ったので、取ってくれたのだろうか。彼の行動がいまいち理解出来なかったものの、そう考えてボウルを受け取った。サラダより先に唐揚げ食べたかったんだけど、と思いながら自分の皿に取り分けて、原田の方へ戻す。
「ありがとうございました」
義務的に、一応の礼も添えた。
だが、原田はそのボウルを受け取らない。
「違うだろ。取り分けるだろ普通。女が」
「………は?」
原田の忌々しげな表情と言葉で、取り分けをさせる為に渡したのだと、ようやく八田は理解した。
「───ごめん八田さん!俺がやるから!」
八田のこめかみに青筋が立ったのを見て、原田の隣に座っていた菅という幹事の男がボウルを奪うように引き取った。原田が、今度は菅を睨みつける。
「なんでお前が。こういうのは女の仕事だろ」
「俺、取り分け滅茶苦茶得意なんです居酒屋でバイトしてたことあるんで!ちょっと見ててもらえます?それはもう素晴らしくバランス良く、見映え良く!」
菅は原田の後輩らしく、穏便に場を収めようとしているのが明らかだった。若干キレかけた八田だったが、菅の努力をぶち壊す訳にもいかない。
「馬鹿が。女にやらせときゃいいんだよ」
ぼそりと呟く原田の声は、菅に免じて聞こえない振りをした。
□□□□□
「…ってことがあってさぁ」
翌日、昼休憩で賑わう社員食堂で、八田は同僚の松下沙耶と成海有希を相手に、件の合コンの戦果報告をしていた。
「その後も口の聞き方がどうだの酒のペースが早過ぎるだの、いちいち腹立つこと言ってきてさ。その度に菅ちゃんが必死で仲裁に入るから、だんだん申し訳なくなって他の子に席替わって貰ったわ」
「正解。つうか菅ちゃんいい奴じゃん。連絡先交換しなかったの?」
ショートボブの真っ直ぐな黒髪を揺らしながら、松下がからりと笑った。
「しなかった。そういういい人は誰から見てもいいんだよ…。人気集中してた。その中の一人といい感じになって二人で二軒目行ってたよ」
「あら残念。で、あんたはどうだったの?他にもいたんでしょ?」
「どうもこうもないよ。原田のせいで全男子から腫れ物扱いになって、当たり障りない話して終了」
「災難でしたねぇ」
あはっ、と有希がかわいらしく笑った。有希は三人の中で一番年下で、二十代半ばにしてなお、未だどことなくあどけなさを残す。神様が丹精込めて作りました、と言わんばかりに整った綺麗な顔。背景に清流を背負っていそうな透明感。清楚というのはこういう子の為にある言葉だと、八田は常々思っていた。
有希は鞄の中からチョコレートの小箱を取り出して、八田に手渡す。
「傷心の八田さんにプレゼントです」
「おっ。ありがと」
貰ったそれを早速開けて、八田が卓上に広げた。三人でつまみながら、八田は話を続ける。
「それでさ、その原田のやろうが、そんなに突っかかってきた癖に、帰り際になって連絡先聞いてきて」
「何でまた」
「教えたんですか?」
松下と有希の声が重なる。
「勿論教えなかった。何で?って私も思ったし、もう会いたくないもん。不愉快だから」
「だよねぇ」
松下は腕を組んでうんうんと頷き、有希もほっとしたような顔でチョコをつまんだ。
「もうすぐ夏だしさー、彼氏作って花火大会とか海とかお祭りとか、夢膨らませてたのに。このままじゃ今年も一人で猛暑に文句言って終わりだよ」
「でかい声で侘しい生活喧伝してんなよ」
伸びをしながら愚痴っていると、頭の上から偉そうな男の声が降ってきた。
出た、と八田はさっと戦闘体勢を整える。空席は他にもあるのに断りもなく八田の隣の席に座ったこの男も、八田にとって災難に近い存在だったからだ。
「眞崎…」
社員食堂のパイプ椅子では窮屈であろう長身を、持て余すように脚を組む。ひょいと腕を伸ばしてチョコを摘み上げると、ぽいっと口に入れた。
「あっ!私のチョコ!」
元々は有希のものだが、プレゼントと言っていたのでもう八田のものである。
「食べたいんなら一言断ってからにしてよ」
頬を膨らませた八田の抗議を無視して二個目を摘むと、口の中に放り込んだ。
「ちょっとー!」
「あっ、宇堂さん!」
八田の怒りの声を、有希の華やいだ声が打ち消す。眞崎の後から現れたのは、有希の恋人である宇堂という男だった。眞崎と同じくらい背が高くて精悍な体つきをしているが、纏っている空気が穏やかで威圧感がない。八田の向かいに座る有希の隣の椅子を引いて「お邪魔します」と三人に向けて挨拶した。
この恋人達は端からみても大変仲睦まじく、互いの社内でもよく知られる仲だ。特に有希の方がベタ惚れの様子で、顔を合わせる度に全身から花を撒き散らかし仔犬のように駆け寄っていくほどだった。
都内某所に建つこの十階建てのオフィスビルには、五つの会社が入っている。八田達三人が勤める会社はその三階部分にあり、眞崎と宇堂が勤める会社は七階から十階までのフロアを使用していた。各社共有部分である一階のほぼ半分を占める広い社員食堂は、この建物内の社員であれば誰でも利用出来るため、違う会社に勤めていてもこうして顔を合わせることが度々ある。
有希と宇堂は食堂で偶々会うと、状況が許す限り当たり前のように隣席を選んで一緒に昼休みの時間を過ごす。有希とランチタイムを共にする事が多い八田や松下も、自然と彼と打ち解けていった。
宇堂はさほど口数は多くないが、理知的で人当たりのいい男だ。八田も同席するのは全く苦ではない。
だが問題は、高確率で一緒にいる彼の後輩のこの男、眞崎である。
視覚的な観点に限って言えば、眞崎は抜群にいい男だった。悠に百八十はある長身に、ぱっと見細いががっしりと鍛えられた無駄のない体つき。雑誌の表紙を飾ったとしても何も違和感がない、整った顔立ちをしていた。
しかし一旦口を開くと、そんな淡い乙女心も音を立てて崩れ落ちる。口が悪いし態度も悪い。八田の発言には駄目出しの連続、反論してもああ言えばこう言う。口撃が行き詰まると頭を鷲掴みにして凄んでくる。ほとんどいじめっ子の中学生のようなノリであった。おまけにその見目の良さに物を言わせて、決まった彼女を作らずに複数の女性と遊び歩いているともっぱらの噂である。
「男漁りに余念がない割に、男日照りに改善が見られねえな」
揶揄するように言いながら割箸を割る眞崎を、八田が横目で睨んだ。
「慎重に相手を選んでるだけですー。あんたみたいなスケコマシに引っ掛かりたくないもんね」
「苦労するよな。お前、駄目屑ホイホイだもんな」
ぐっと八田は言葉に詰まった。眞崎が誘引剤扱いするように、さほど数多くもない八田の恋愛遍歴は悲惨と言っても過言ではなかった。
初めて付き合った学生時代の彼氏には三股をされ。
次に付き合った男は束縛がひどく、携帯のチェックから始まり、最終的には女友達とのランチでさえも禁止され。
次に付き合った男は、付き合って半年ほど経ったと思った頃に、付き合うと言った記憶はないと言われた。
最後に付き合った男は、交際一か月後には「労働に向いてない」という理由で無職になって、食事代やデート代などをたかられた上に、贈ったプレゼントを換金している事も判明して、別れた。
「今度はモラハラ野郎か?新種がリスト入りして良かったじゃねぇの」
どこから話を聞いていたのか、意地悪そうに口の片端を吊り上げて眞崎は笑う。
怒りのバロメーターを一気に振りきった八田は、眞崎が食べているミックスフライ定食から、一本しかない海老フライを素手で奪ってぱくっと口に押し込む。眞崎があっと声を上げた。
「アホか。小学生かお前は」
ニ、三回噛んで無理矢理ごくんと飲み下す。仕上げにグラスの水で一気に流し込むと、八田はべーっと舌を出した。
「チョコのお返し!ちょっと顔がいいからって調子に乗ってんじゃないわよ、バーカ!」
八田はがたんと椅子を鳴らして席を立ち、肩をいからせて食堂から出て行った。
「二十六歳の行動とは思えないわ」
「八田さん、尻尾まで丸飲みしてたけど大丈夫ですかね」
呆れた顔をする松下と心配そうな顔をした有希が、八田の背中を見送る。
「あのやろう」
忌々しげに呟く眞崎の向かいで、宇堂は箸を動かしながら薄い笑みを湛えた。
「小学生はお前だよ、眞崎」
眞崎は鼻の頭に皺を寄せて、小さく舌打ちした。
□□□□□
八田は恋人が欲しかった。
人生で四回、相手のいる恋愛をしたが、四回とも惨敗。楽しい思い出よりも徒労感が残った。
恋人がいなくとも友達は多いし、趣味もそれなりにある。暇を持て余す事はなかった。化粧品メーカーの営業という仕事も、大変だけれどやり甲斐を感じるし、自分に向いていると思った。
格別孤独や寂しさを感じている訳ではないし、日々はそれなりに充実している。それでも、恋愛に対する欲求はやまなかった。
始まったばかりの恋の、あの独特の浮遊感。頭の中が相手の事で一杯になり、それを燃料に心は熱気球のように現実から浮き立つ。そこには互いの存在以外は何もなくて、目に映る景色はひたすら真新しく、輝かしく映る。
今までのそれは敢えなく撃沈してしまったけれど、恋人との関係が始まったばかりの頃の、その感覚だけは忘れられない。何度でも味わいたいし、願わくば、たった一人の人といつまでもその景色を見続けたいと、そう思う。
「八田は案外乙女だよねぇ。少女趣味」
「うん。母親に少女漫画食って育った山猿って言われてる。三歳くらいまでホントに破って食べてたらしいんだよね、母親の集めてた少女漫画。今じゃ手に入らないものもあったのにって未だに恨みごと言われる」
「八田さんは顎と歯と胃腸が丈夫なんですね。海老の尻尾も難なく飲み込んでましたもんね」
さすがです、と有希が感心したように言う。
会社の近くのカフェバーで、八田は松下と有希と夕食がてら酒を飲んでいた。
「私あんまりそういう経験ないな。試しに付き合っても、まぁぼちぼちって感じだった」
「松下はそっち系ほんと淡白だよねぇ」
松下は恋愛方面においてはとにかくドライだ。人の話は面白そうに突っ込んで聞く割に、自分の話はほとんどしない。ここ数年恋人もいないらしいが、八田のように欲しがる様子もない。
八田は隣にいた有希に目を向ける。現在進行形で恋人に熱を上げている彼女であれば、きっと理解してくれる筈だ。
「有希ちゃんはわかってくれる?」
「んー。浮かれる気持ちはわかります。でも、私はどっちかというと逆かなぁ。ふわふわ浮いてるところを引っ張られて、生まれて初めて地に足が着いたような気がしました」
「おぉ。なるほど」
現在の恋が初恋で、それまでは好きな人どころか友達もまともにいなかったと公言する有希には、どこか浮世離れしたところがある。一方、彼女の恋人は落ち着いた安定感のある人だから、ぴったりな比喩なのかもしれない。
「まぁそんな訳でね、今後もガツガツそういう相手を探していこうと思うのよ。ねぇ有希ちゃん、宇堂さんの知り合いでいい人いたら紹介してって言ってみて」
八田の頼みに、有希は「あ」と何か思い出したようにぽんと手を叩いた。
「そうそう、今日言おうと思ってたんでした。再来週の金曜日、宇堂さんの会社の飲み会があるんです。それに八田さんや松下さんも一緒に参加しないかって言われてて」
「会社の飲み会?なんで?行っていいもんなの?」
「はい。宇堂さんの会社って男の人が凄く多いんですよ。八田さんみたいに恋人探ししてる方が沢山いるらしくて。うちの会社は逆で、ほとんど女性でしょう?親睦を深めたいから間を繋いで欲しいって、前から頼まれてたらしいんです。私がそういう賑やかな場が苦手なの知ってるから今まで断ってくれてたんですけど、あんまりしつこく頼まれるから一回くらいどうかなって聞かれて。女の人は会費も安くするし、他にも仲いい子いたらいっぱい連れて来ていいって言ってました」
「行く!」
八田は即答した。
「ありがとう有希ちゃん。他の女の子にも声掛けてみるね!この合コン、絶対に成功させよう!」
「んん?いえあの、合コンではないと思うんですけど…」
「同じようなもんよ。ねぇ、松下も…」
言い掛けたその時、八田の携帯が鳴った。液晶に表示された名前を見て、八田はげんなりと肩を落とし、松下と有希に画面を見るよう指で示す。二人は覗き込んで、顔を見合わせた。
液晶画面には『原田』の二文字が浮かんでいる。
「連絡先教えてないんじゃなかったの?」
電話には出ず消音モードに切り替えてやり過ごそうとする八田に、松下が眉を寄せて尋ねる。
「教えてないよ。でもあの場にいた誰かから聞いたみたいで、こないだ突然掛かってきたんだよね。知らない番号だったからうっかり出ちゃってさ。こないだは失礼した、謝りたいから二人で食事でもって言われたんだけど、適当に断った」
「断ったのにまた掛けてきたの?しぶといな。ブロックしとけば?」
「あ、そっか。そうしよ」
ようやく鳴り止んだ電話を手に取って、八田が早速操作を始める。有希は心配そうな顔をして、八田の手元を見詰めた。
「あの…八田さん、気をつけてくださいね。何するかわからない人って、いるから。あんまりしつこいようなら宇堂さんに相談して対処してもらってもいいし…」
有希の恋人である宇堂が勤める会社は、業界内では名の知れた警備会社である。一般的なビルの警備から要人警護やストーカー対策のような個人客、機密性の高い施設内、文化財など価値の高い物品の警備まで、幅広く取り扱っているらしい。有希と彼の出会いも、とある事件に巻き込まれた彼女が仕事の依頼をしたのがきっかけだったと聞いていた。危機管理についてはプロフェッショナルなのだ。
「や。そんな大袈裟な。二回電話あっただけだし、無視してたら大丈夫だよ。でもありがとね」
八田はひらひら手を振って笑った。
「再来週かー、何着てこっかな。ね、次何飲む?」
機嫌良くドリンクメニューを開いた八田に少し不安げな顔を向けながら、有希は半分残ったグラスの中の酒を少しずつ飲んだ。
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