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八田は恋人が欲しかった。
人生で四回、相手のいる恋愛をしたが、四回とも惨敗。楽しい思い出よりも徒労感が残った。
恋人がいなくとも友達は多いし、趣味もそれなりにある。暇を持て余しているわけではない。化粧品メーカーの営業という仕事も、大変だけれどやり甲斐を感じるし、自分に向いていると思った。格別孤独や寂しさを感じている訳ではないし、日々はそれなりに充実している。それでも、恋愛に対する欲求はやまなかった。
始まったばかりの恋の、あの独特の浮遊感。頭の中が相手の事で一杯になり、それを燃料に心は熱気球のように現実から浮き立つ。そこには互いの存在以外は何もなくて、目に映る景色はひたすら真新しく、輝かしく映る。
今までのそれは敢えなく撃沈してしまったけれど、恋人との関係が始まったばかりの頃の、その感覚だけは忘れられない。何度でも味わいたいし、願わくば、たった一人の人といつまでもその景色を見続けたいと、そう思う。
「八田は案外乙女だよねぇ。少女趣味」
「うん。母親に少女漫画食って育った山猿って言われてる。三歳くらいまでホントに破って食べてたらしいんだよね、母親の集めてた少女漫画。今じゃ絶版で手に入らないものもあったのにって未だに恨みごと言われる」
「八田さんは顎と歯と胃腸が丈夫なんですね。海老の尻尾も難なく飲み込んでましたもんね」
さすがです、と有希が感心したように言う。
会社の近くのカフェバーで、八田は松下と有希と夕食がてら酒を飲んでいた。いつものメンバー、いつもの集まり。そう、これだけでも人生十分楽しくはある。
「私あんまりそういう経験ないな。試しに付き合っても、まぁぼちぼちって感じだった」
「松下はそっち系ほんと淡白だよねぇ」
松下は恋愛方面においてはとにかくドライだ。人の話は面白そうに突っ込んで聞く割に、自分の話はほとんどしない。ここ数年恋人もいないらしいが、八田のように欲しがる様子もない。
八田は隣にいた有希に目を向ける。現在進行形で恋人に熱を上げている彼女であれば、きっと理解してくれる筈だ。
「有希ちゃんはわかってくれる?」
「んー。浮かれる気持ちはわかります。でも、私はどっちかというと逆かなぁ。ふわふわ浮いてるところを引っ張られて、生まれて初めて地に足が着いたような気がしました」
「おぉ。なるほど」
現在の恋が初恋で、それまでは好きな人どころか友達もロクにいなかったと公言する有希には、どこか浮世離れしたところがある。一方、彼女の恋人は落ち着いた安定感のある人だから、ぴったりな比喩なのかもしれない。
「まぁとにかくそんな訳でね、今後もガツガツそういう相手を探していこうと思うのよ。ねぇ有希ちゃん、宇堂さんの知り合いでいい人いたら紹介してって頼んでみてくれない?」
八田の頼みに、有希は「あ」と何か思い出したようにぽんと手を叩いた。
「そうそう、今日言おうと思ってたんでした。再来週の金曜日、宇堂さんの会社の飲み会があるんです。それに八田さんや松下さんも一緒に参加しないかって言われて」
「会社の飲み会?なんで?部外者が行っていいもんなの?」
「はい。宇堂さんの会社って男の人が凄く多いんですよ。八田さんみたいに恋人探ししてる方が沢山いるらしくて。うちの会社は逆で、ほとんど女性でしょう?需要と供給…親睦を深めたいから間を繋いで欲しいって、前から頼まれてたらしいんです。私がそういう賑やかな場が苦手なの知ってるから今まで断ってくれてたんですけど、あんまりしつこく頼まれるから一回くらいどうかなって聞かれて。女の人は会費も安くするし、他にも仲いい子いたらいっぱい連れて来ていいって言ってました」
「行く!」
八田は即答した。
「ありがとう有希ちゃん。他の女の子にも声掛けてみるね!この合コン、絶対に成功させよう!」
「んん?いえあの、合コンではないと思うんですけど…」
「同じようなもんよ。ねぇ、松下も…」
言い掛けたその時、八田の携帯が鳴った。
液晶に表示された名前を見て、八田はげんなりと肩を落とし、松下と有希に画面を見るよう指で示す。二人は覗き込んで、顔を見合わせた。
液晶画面には『原田』の二文字が浮かんでいる。
「連絡先教えてないんじゃなかったの?」
電話には出ず消音モードに切り替えてやり過ごそうとする八田に、松下が眉を寄せて尋ねる。
「教えてないよ。でもあの場にいた誰かから聞いたみたいで、こないだ突然掛かってきたんだよね。知らない番号だったからなんだろうって、うっかり出ちゃってさ。こないだは失礼した、謝りたいから二人で食事でもって言われたんだけど、適当に断った」
「断ったのにまた掛けてきたの?しぶといな。ブロックしとけば?」
「あ、そっか。そうしよ」
ようやく鳴り止んだ電話を手に取って、八田が早速操作を始める。
有希は思いの外真剣に心配そうな顔をして、八田の手元を見詰めていた。
「あの…八田さん、気をつけてくださいね。何するかわからない人って、いるから。あんまりしつこいようなら宇堂さんに相談して対処してもらってもいいし…」
有希の恋人である宇堂が勤める会社は、業界内では名の知れた警備会社である。一般的なビルの警備から要人警護やストーカー対策のような個人客、機密性の高い施設内、文化財など価値の高い物品の警備まで、幅広く取り扱っているらしい。有希と彼の出会いも、とある事件に巻き込まれた彼女が仕事の依頼をしたのがきっかけだったと聞いていた。危機管理についてはプロフェッショナルなのだ。
「や。そんな大袈裟な。二回電話あっただけだし、無視してたら大丈夫だよ。でもありがとね」
八田はひらひら手を振って笑った。
「再来週かー、何着てこっかな。ね、次何飲む?」
機嫌良くドリンクメニューを開いた八田に少し不安げな顔を向けながら、有希は半分残ったグラスの中の酒を少しずつ飲んだ。
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