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朝起きて一番に目に入るのがこの顔だというのは、人生最大の僥倖かもしれない。
隣で眠る眞崎の顔を穴があくほど眺めながら、八田は自分の強運に感謝していた。今まで碌な男と出会わなかった運の無さは、今この時に相殺する為だったのだろうか。天の采配に感謝しながら、眠る眞崎の顔面を拝む。
少し体を起こして時計を確認すると、もう昼前だった。起きようかと腰を浮かしかけたところで、眞崎の腕に捕まってベッドに引き戻される。
「…何時?」
目を瞑ったまま眉をしかめて、眞崎が尋ねる。付き合い始めてから知ったが、眞崎は結構寝起きが悪い。
「十一時前。まだ寝る?」
「…起きる」
そう言ったくせに、八田を巻き込んでごろんと寝返りを打つ。裸の胸に顔を埋め、腰に回した手が物欲しげに肌を撫でる。
「こら」
「だってお前きのう先に寝やがった…一晩中とか言ってたくせに…」
先に寝たのは事実だが、少なくとも三時を過ぎたあたりまでは記憶がある。眞崎より体力が劣る八田にしては充分頑張ったと思うのだが、眞崎は不満そうだった。
八田はごめんごめんと軽く謝って眞崎の腕から体を引き抜くと、ベッドサイドのテーブルからペットボトルの水を取って飲む。
「俺にも頂戴」
手を伸ばした眞崎に、飲みかけのボトルを渡した。一気に飲み干して空のペットボトルをぺこんと握り潰すと、はぁ、と気怠るそうに溜息をついている。
「まだ寝てていいよ?休みなんだし、ゆっくり寝なよ」
「いや。ちょっと目ぇ覚めた」
ベッドの端にいた八田の体を乗り越えて、潰れたペットボトルをサイドテーブルに置く。ついでに、八田の唇に軽くキスをした。ひんやりと湿った唇が心地いい。
眞崎は結局また仰向けに寝転がってしまった。眠いなら寝てればいいのに、睡魔に抗う様子がきかん気の子供のようで微笑ましい。
八田も倣って寝転んで、眞崎の腕に頭を乗せる。眞崎は欠伸をしながら、八田の肩に腕を回して引き寄せて、髪を撫でた。
怠惰に緩やかに、時間が過ぎる休日。紛れもなく幸福だった。
「今日どうする?」
「どうしよっか。雨降りそうだねぇ。家で映画でも観てのんびりする?」
「そうだな。でもうち食うもんない」
「じゃあ後でスーパーだけ行こ。私、何か作るよ」
「まじか…」
「まじかって何。どんな感情?」
「何でもない」
眞崎は手を伸ばしてぎゅうと八田の身体を抱き締めると、飽きもせずにまた愛で始めた。
背中を撫で、耳を噛み、首筋に唇を這わせる。
八田は拒まずにされるがまま、温いお湯に浸るような穏やかな心地よさに身を委ねていた。真崎の唇が胸に辿り着いたところで、むむ、と唸って身を捩る。
「…そんなに足りなかった?昨日の…」
「全然足りねぇよ」
むうと膨れた八田の鼻を、眞崎が摘む。反射的に口を開けると、鼻は解放されて、代わりに唇の隙間から舌が滑り込んでくる。もっと、と強請るように絡みつかれ、体をまさぐられて、八田は耐えかねて切ない声を漏らした。
長い長い口付けが終わり、顔を離した眞崎は、八田の肩に額を押し当てる。
「…俺、今駄目なんだ。何回抱いても足りない…」
そう呟いた眞崎は、やっぱりどこか少し、辛そうだった。八田は眞崎の背中に腕を回す。
こんなに大きくて逞しい身体をして、怖いものなんて何もなさそうなのに。
なんでだろう。不安に震えているようにさえ見える。
「いいよ、いっぱいしよ。私もしたい」
八田が項を撫でると、眞崎は今度こそ本当に身を震わせた。
窓の向こうから、雨が降り始める音が聴こえてくる。
締め切ったカーテンからうっすらと差し込む鈍い光の中で、大きな身体をした子供のような男の背中を、宥めるように撫でた。
□□□□□
「あれ。眞崎、車買うの?」
出来上がった料理をダイニングテーブルに運ぶ八田が、眞崎がタブレットで眺めている車の情報サイトを背後から覗き込む。
「うん。あったら便利だろ」
「バイクあるから不便ないって言ってたじゃん」
「まぁ俺一人ならそうだけど、お前の…」
「えっ、もしかして私の送迎の為に買おうとか思ってる?そこまでしてくれなくていいよ⁈」
焦ったように話を遮ると、眞崎は嫌な顔をした。
「…別に送迎の為だけじゃねぇよ。出掛ける時とか便利だろって話だよ」
「ドライブデートか…。正直魅力的だわ」
だろ?と眞崎は心なしかほっとしたような顔をする。
「でもこのアパート駐車場なくない?」
「そうなんだよな。近くに月極の駐車場がいくつかあるから、そういうとこ借りるしかないな」
「お金かかっちゃうよね。保険とか税金もかかるでしょ?」
「かかるけど、まぁそのくらいは。ここ家賃安いから普通にいける」
ここは学生の頃から借りていると言っていたから、車の維持費が上乗せされたとしても、しっかり稼いでいる今の眞崎にとっては充分払える金額なのだろう。だが、まともに給料を貰っているのに何故か毎月カツカツの暮らしをしている八田にとっては、随分な出費に思える。それにほとんど八田の為みたいな買いものなのに、経済的な負担を眞崎にばかり掛けるのは忍びない。
そんなことを考えていて、ふと閃いた。
「じゃあさ、駐車場付きの物件探して、引っ越そうよ。一緒に住も!家賃折半すれば、車買っても負担は減るはずだよ」
意気揚々と提案する八田に、眞崎は唖然とした顔をする。
「…お前……。ほんとにアホだな」
「何で?むしろ賢くない?経済的にも助かるし部屋も広めのとこ探せるし一緒にいる時間も増えるんだよ?ちゃんと帰ったかとか心配もなくなるし、いい事尽くめじゃん」
「そんな気安い話じゃねぇだろ」
「えー。だって毎日一緒にいられるよ?絶対楽しいよ」
「………」
「そう思わない?私はそうしたいなぁ」
黙り込んだ眞崎に箸を手渡して、向かいの席に着く。いただきまーすと手を合わせて、八田は率先して食べ始めた。眞崎は無言で茶碗をじっと見つめていたが、いただきますと小さく呟いて、握りしめていた箸を持ち直した。
その後も眞崎は明らかに上の空で、八田がどんな話を振っても生返事しかしなった。いつも打てば響くように返事を返してくる眞崎にしては珍しい。普段なら八田も「聞いてるの?」と機嫌を損ねそうなところだが、今は理由がはっきりしているので、大人しく様子を見ている。
しばらくして、眞崎がぽつりと聞いた。
「…お前ん家、更新いつ?」
「更新?うちのアパートの?えっと、いつだっけな、今年の…六月だ。あれ、結構近いね。更新料のこと忘れてた…」
あと四か月もない。家賃一か月分の馬鹿にならない金額を、コツコツ貯めもせずに忘れていた自分に愕然とする。
「じゃあその辺の時期な。管理会社から確認の書面きたら、出るって連絡しとけよ」
「おっ、その気になった?やったぁ」
待ってましたと八田はガッツポーズをする。
「お前言い出したらしつこいからな」
「はは。自分だって結構いいなって思っちゃった癖に」
「うるせぇ」
「でもごめん眞崎、その時期は駄目だ。もう少し待って」
「何で」
「私お金なかった。さっき気付いた。初期費用の半分くらいは出したいから、貯まるまで待って?」
「待つってどのくらい」
「うーん…。年内…とか」
「…お前な」
眞崎は深い溜息を吐いた。
「先のことはわからない。けど一つだけ確実なのは──お前に金が貯まる日は、永遠に来ない」
「えっ。ひどっ。ひどくない⁈」
自分でもうっすら不安に思っていた事を断定されて、八田は取り乱す。
「お前に金がない事なんか生まれる前から知ってるわ。貯まるの待ってたら寿命が来る」
「そっ、そんなことないもん!学生の時は月の三分の一は米と納豆だけで過ごしてたけど、今は給料日前の何日かだけだもん!」
「学生時代に比べていくら収入増えてると思ってんだ。収支のバランス考えればむしろ後退してるじゃねぇか」
「とっ…とにかく頑張って貯めるから待っててよぅ。お願い!」
情けない顔で八田は手を合わせる。特別節約している気配もないのに、眞崎はこれっぽっちもお金に困っている様子がない。むしろそこそこの額をぽんと出して平然としている。働いている期間の差は二年分しかないのに、何故こんなにも経済格差があるのだろう。収入差は勿論あるだろうが、それだけではないように思う。
「金はいいよ。初期費用は俺が出す。その後もお前は無理のない範囲で出せばいい。半端に更新料払う方が勿体ないからそのタイミングで出ろよ」
「そ、そういうわけにはいかない!」
やたらと好条件な眞崎の申し出に、八田は焦って首を振る。
「何でお前はそう無い袖を振りたがるんだ。俺がいいって言ってんだから素直に甘えりゃいいだろ」
「だってそれだと眞崎の負担が余計増えちゃうじゃん。それじゃ意味ないもん」
「あるよ」
きっぱりとした強い物言いに、八田は黙った。
「金なんかどうでもいいくらい意味がある。俺にとってはな」
真顔でそう断言されると、八田もそれ以上抵抗できない。
「…ありがと」
八田は少しばつが悪そうに俯いて、小さな声で言った。
やっとわかったか、と眞崎は八田が作った大きな唐揚げを一口で口に放り込む。
「ねぇ、美味しい?」
眞崎が通常運転になったので、待ちかねていた味の感想を問う。眞崎に手料理を振る舞うのは初めてだから、早く聞きたくて焦れていたのだ。
「美味いよ。意外なほど美味い」
「やった!料理は実はちょっと自信あるんだよね。実家にいる頃からやってたんだ。たまにお弁当とかも作るし、いつもお金ないから節約料理も得意だよ。一緒に住んだら、毎日は無理かもだけど、なるべくごはん作るね」
「無理のない範囲でな。俺もやるよ」
「眞崎、料理するんだっけ?」
「しない。けどやればその内出来るようになるだろ」
「さっすが」
努力の男だーと八田が揶揄うのを、眞崎は黙殺する。
八田はコロコロと笑って上機嫌だ。
この先、生活を共にするのであれば、笑っていられる時ばかりではないだろう。それに怖気づく気持ちがないとは言えない。それでも。
捕まえておこうと思った。こうして笑っている内に。一緒にいたらきっと楽しいと、希望に満ちている内に。
その後は、泣こうが怒り喚こうが、身動き取れないほど抱き締めて、逃げられないようにすればいい。もう一度笑顔に戻るまで、離さずに探せばいい。彼女がまた笑う方法を。何度でも、どれだけ時間がかかっても。
「お前もなかなかしつこいけど、俺はそれ以上に執念深いからな」
「何の話?料理?」
「そう」
「そんな本気の料理作るの?」
八田は首を傾げるが、眞崎は黙って笑っている。その笑顔は昨日よりずっと穏やかに凪いでいて、八田もつられて、ほっと胸が温かくなるのを感じた。
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