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 五月の空は青く澄み渡り、先月までしぶとく繰り返していた花冷えもすっかり姿をひそめた。木々は待ちかねていたかのようにすくすくと枝葉を伸ばして、瑞々しい緑をたっぷりと蓄えている。  絵に描いたような新緑の季節だった。  「ねぇねぇ眞崎、何か音楽のサブスク入れてたよね?後で何入ってるか見てもいい?」  助手席の八田はカーナビのオーディオと自分のスマホを接続する操作をしている。  「いいよ。真ん中辺りの青いアイコンのやつ」  眞崎はスマホのロックを解除して無造作に八田に渡す。  自分の設定が終わった八田は、接続の確認をする為に先に自分のプレイリストを流した。  「この曲、俺のにも入ってる」  「だと思った!眞崎、このバンドのよく聴いてるもんね。私この曲が一番好き」  「俺この曲入ってるアルバムの七曲目」  「あー、それもいいねぇ。その前の曲もいいんだよねぇ」  眞崎のライブラリを眺めながら、八田はその曲を一緒に口ずさむ。  運転席から眺める八田は、どこから見ても上機嫌だった。  その事に、眞崎は心中胸を撫で下ろす。  五月も半ばを過ぎた頃、土日の休みで旅行に行こう、と誘ったのは眞崎だった。  引越しに先駆けて買ったばかりの車で、少し遠出をしたい。  来月には引越しがあるから、バタつく前にゆっくりしたい。  梅雨入りの前に行楽を楽しみたい。  言い出したのは自分だから、費用は持つ。  最後にそう言ったのが気に食わなかったらしい。  引越し前の()り用な時期だからと拒否した八田と一悶着あったが、なんだかんだ決行することになった。    今の八田は、心から、始まったばかりのこの旅行を楽しみにしているように見えた。  眞崎が内心に抱いていた小さなわだかまりも、柔らかくほどけて消えるほど。  「麻帆」  信号待ちで止まった隙に、眞崎はサイドブレーキを引き上げて八田の頬に手を伸ばす。  名前を呼ぶ声と触れる手の感触で、眞崎の求めることはわかる。  八田は目を細めて微笑み、運転席に身を寄せた。少し身を乗り出して、顔を近付ける眞崎と、そっと唇を合わせた。 □□□□□  宿泊先には夕方にチェックインする予定だったので、日中は水族館に行った。  渋滞のせいで少し到着が遅れてしまって、八田が楽しみにしていた(しゃち)のショーの時間に、ギリギリ間に合うかどうか、という時間だった。  「あっ、もう始まっちゃう!眞崎、前の方の席空いてるよ!」  階段状になっている観覧席の通路ど真ん中を、八田が駆け降りる。  「いや、でもお前その辺は──」  眞崎が引き留めようとしたが、間に合わなかった。鯱が大きな体をくるりと空中回転させて、水に飛び込む。  ばっしゃん、と盛大に水が飛び散った。バケツをひっくり返した勢いで、頭から水を浴びた八田は、足を止めてぽかんとしている。  水中に戻った鯱が優雅に泳いでいる隙に、眞崎が観覧席の上の方へ八田を引っ張って行った。  「早まったな」  タオルやハンカチなど気の効いたものを持ち歩いていない眞崎は、自分の着ていた薄手のパーカーを脱いで八田の頭に掛け、わしわしと拭いた。  びしょ濡れになった八田は、ゆるゆると頬を緩めた後、あはっと笑い出す。  「すっごいね⁈」  「昔家族で来た時、弟が同じ目に合ってた」  「晴れてて良かったぁ」  「寒かったらそれ着とけ。ちょっと濡れたけど無いよりマシだろ」  「ありがとうお兄ちゃん」  バーカ、と言って眞崎も笑う。  観覧席の上段端に空席を見つけ、並んで座った。  高く上った()の光と心地良く吹く風のおかげで、八田の濡れた髪と湿った眞崎のパーカーは、すぐにからりと乾いた。  □□□□□  旅行の件で八田との(いさか)いが本格化したのは、ほんの三日前のことだ。  特別な予定はないと言っていた癖に、八田は眞崎が提案したこの旅行に、(がん)として首を縦に振らなかった。  眞崎もそう気が長い方ではない。予定していた日程が近付くにつれ目星を付けていた旅館の空室が次々と埋まっていくのを見て、もういいや、と勝手に予約を入れてしまった。  それを告げると、旅行の話が出てからずっと、どことなく不機嫌だった八田は、とうとう爆発した。  「何で勝手に決めちゃうの⁈そんなに行きたかったら一人で行けばいいでしょ!眞崎のばーか‼︎」  捨て台詞(ぜりふ)を吐いて鞄を引っ掴むと、八田は部屋を飛び出した。  眞崎は眞崎で苛立っていたので、すぐに追いかけもせず、椅子に座ったまま不貞腐(ふてくさ)れていた。  しばらくそうした後、八田を迎えに行こうと重い腰を動かして、ふと気付く。  ここは八田の部屋だ。どこへ行ったか知らないが、迎えに出ようにも鍵がないので戸締まりが出来ない。  八田のアパートは特別なセキュリティなど何も無い、ごく一般的な木造アパートだ。女一人で住む家を、施錠もせず空けたままには出来ない。  とりあえず追うのを諦め、電話を掛ける。呼び出し音がしばらく鳴った後、留守電のアナウンスに切り替わる。何度か試したが出なかった。案の定だ。  仕方なくメッセージを送る。迎えに行こうと思ったが鍵がないので出られない、帰って来い、と。  メッセージは程なく既読になったが、返信はなかった。ニ時間ほど経って、電話が鳴る。八田かと思ったがそうではなかった。  液晶の表示は、八田ではなく宇堂だ。十一時近かったがまだ仕事中なのだろうか。仕事の話をする気分でもなかったが、無視する訳にもいかない。不承不承電話を取る。  「あのさ。今、八田さんうちに来てるんだけど」  挨拶もそこそこにさらりと告げられ、眞崎は絶句する。  宇堂と有希は、数ヶ月前から同棲を始めていた。元々半同棲状態でいつも一緒にいる印象だった。別々に住んでいるのが面倒になったのだろうか、宇堂が所有している家に有希が移り住んだのだ。  八田が有希の一人暮らしの部屋をしょっちゅう訪ねているのは知っていたが、まさか同棲先まで押し掛けるとは思わなかった。  「部屋の鍵なくて出られないって?八田さん今日うちに泊まるって言ってるからさ。ないと、明日困るだろ?届けに行こうと思って、今向かってるところ。あと十五分くらいで着くから」  「…すんません」  電話を切った眞崎は頭を抱えた。  「あの馬鹿」  思わず声に出して電話をソファに投げ付ける。顔を合わせたくないからと言って人の上司を配達業者扱いするとはどういう了見だ。  冷蔵庫から缶ビールを取り出して一気に飲み干す。空いた缶を流しに向かって思いきり投げ付けると、がちんと勘に触る音がして、さらに苛立ちが募る。  しばらくするとインターホンが鳴った。  「お疲れさん。はいこれ。預かったやつ」  いつもと変わらぬ飄々(ひょうひょう)とした様子で、宇堂は鍵を差し出した。  「…すんません。こんな時間に」  「いや全然。別に八田さんに頼まれて来た訳じゃなくてさ、俺が申し出たの。うちの子と二人で飲んで盛り上がってるから、俺はこっち来ようかなと思って。八田さんに了承貰ったんで、上がるな」  言うなり靴を脱ぐ宇堂に、眞崎は少なからず戸惑った。  「お前ももう帰るの面倒だろ?こっちから出勤したら?八田さんもそれでいいって言ってたよ。これ買ってきたからさ」  宇堂は缶ビールがごっそり入ったコンビニの袋を差し出して、穏やかに笑った。  「少し話そうか」   □□□□□  初めて入る(あるじ)のいない他人の部屋で、宇堂は何の頓着(とんちゃく)もなくローテーブルの前に胡座(あぐら)をかいた。  袋からノンアルコールのビールを出してプルタブを引いている。  「…あいつ何か言ってました?」  向かいにどさっと腰を下ろして、眞崎も缶を開ける。狭い1Kの部屋に大柄な男が二人向かい合うのは、窮屈だった。  「このままじゃ眞崎が破産するって。大泣きで」  「アホか。この程度でするかよ。思い込み激しい上に大袈裟なんですよ。大した額でもねぇのに」  「八田さんにとっては大した額なんだよ。世間的に見たって車と引越費用が重なれば大きな額だと思うけどね。大した額じゃないって言えるのは、お前がそれだけ持ってるからだろ。その辺は、話し合ってないんだ?」  宇堂に聞かれて、眞崎は黙り込む。  察するに、宇堂の家を訪れた時の八田の様子が、よほど目に余る状態だったのだろう。  八田は喜怒哀楽の振れ幅が大きい。相当荒れていたのかもしれない。そうでもなければ、他人のいざこざに口を出すような男ではなかった。  「何で?相対比で言えば大した額じゃないって説明をすれば、八田さんも少しは安心するだろ。言ったら当てにされると思った?そんな子じゃないってお前が一番わかってるんじゃないの?」  ともすれば皮肉のようにも聞こえる言葉だったが、けろりとしている宇堂の様子を見れば単純に疑問に思っているだけというのがわかった。  「…いや。そうじゃなくて。…俺の方が」  眞崎は眉を寄せたまま口ごもって居心地悪そうに何度か足を組み直した。  「………顔で釣った後に金で釣る、みたいになるのが嫌で」  「顔で釣った?金で…?何だそれ。どういう意味?」  ()せない顔で宇堂は首を傾げる。  苦虫を噛み潰したような顔で、眞崎は次の缶のプルタブに手を掛けた。  「──付き合う前、あいつ俺に全然興味なかったじゃないですか」  「ん?…うん。まぁ実際のところはわかんないけど、そう見えたな」  宇堂は以前の記憶を掘り返すように遠くを見つめながら、いつになくとっ散らかった後輩の話し振りに、とりあえず相槌を打つしかなかった。  眞崎は三缶目に手を伸ばす。元々よく飲む方だが、それにしてもペースが早い気がする。宇堂は少し不安になった。  「なかったんですよ、実際、大して。それとなく口説いても反応薄くて。乗ってくるどころか、気のせいだろ、みたいなしれっとした顔してるんです、いつも。俺は気長に待てるタイプじゃないから、段々痺れ切らしてきて。あいつ俺の顔だけは好きだって言ってたから、それを武器に無理矢理迫って口八丁で丸め込んで押し切って落としたんです」  八田が自分に向ける好意が、まだ芽生えたばかりの、自分が(いだ)くそれよりずっとささやかなものであると、わかっていた。それを(えぐ)るように掘り出して突き付けて、目の前に餌をぶら下げるようなやり方を、した。  「そうなの?いや、二人の細かい馴れ初めは俺は知らないけどさ。でも八田さんってその辺は切り離して考えそうというか…顔がどんなに良くても嫌な奴は嫌な奴だな、って思いそうな気がするけど」 「まぁさすがにその辺のラインは時間掛けて何とか乗り越えてから」  ふぅん?と宇堂は首を捻るが、眞崎は構わず話を続ける。  「でもそういう感じで始めちまったから、いざ付き合い始めて、金のないあいつに向かって俺はこんだけあるってチラつかせるのが…何つうかこう…常にあいつの弱いとこ突いて懐柔しようとしてるみたいで、すげぇ嫌で」  「……ごめん、言ってる事が全然わからない」  宇堂はぽかんとして、つまみのナッツを口に入れようとしたまま動きを止めた。  「そうですよね。俺も他人がこんな事言ってたら意味わかんねぇって言うと思います。ただ、実際俺ん中に、顔や金に物言わせてあいつを囲い込んでおけるならそうしちまおうって気持ちもあるんです。それが後ろめたいだけに余計言い(にく)くて」  「んん…?いや、大袈裟に言うけどそれはあれだろ。これプレゼントしたら喜ぶだろうとかにこにこ食べてる姿が可愛いから美味い店連れてってやりたいとかそういうことじゃないの?そんなの俺だって思うよ。別に悪い事じゃないだろ」  「いや、俺のはもうちょっと…」  言葉を濁して溜息を吐くと、更にもう一缶開けて一気に(あお)った。  空いた缶を、ガンと乱暴にテーブルに置くと、据わった目付きと低い声で独り言のように吐きだす。  「……そもそもあいつが普通に金持ってて俺と対等に出せるんなら、こんな事で()めなかったんですよ。俺も別にそんな非常識な金遣いしてる訳じゃないですからね。付き合い始めて初めてわかったんですけどあいつホント金の遣い方下手で、家庭の事情とか借金とか何もなく普通に給料貰ってんのに、すっからかんなんですよ。俺からしたら信じらんねぇ。いや、無いのはいいんですよ別に。金借りるでもなく米と水道水で凌いだり、身の丈に合った暮らししてますしね。けどそれを理由に俺との交際費削るってどういうことだよ。削るんなら他削れやって思うけどそんなちっさいこと言いたくねぇし。だから無いなら無いで俺が出すって言ってんだから素直に頼って可愛く甘えてりゃいいのに、いちいち貯まるまで待てとか分割で返すとかめんどくせぇ事ばっか言いやがって。あいつの金が貯まるの待ってたら来世になりますよ。それまで遊びに行くのも買い物も何でも我慢か?ふざけんな、俺があいつを落とすのに何ヶ月かけたと思ってんだ。この後に及んで何で更なるお預け食わされなきゃなんねんだ。大体男が自分の女に金遣って何か問題あります?欲しいって言うならバーキンだろうがハリーウィンストンだろうがくれてやるよ。あんなんマーキングみたいなもんじゃねぇか、俺のやった物で全身飾ってせいぜい他の男牽制しとけよ。札束渡して尻尾振って喜ぶんならやりますよ、いっそ楽でいいわ。でもそんなことしたって喜ぶどころか金があるからって調子乗んなとか言ってくるんですよ絶対。顔がいいからって調子乗んなってのも何回言われたかわかんねぇもん」  (せき)を切ったように愚痴と本音が混ざったものを吐露する眞崎に、宇堂は引いた。  「えーと…」  困ったようにこめかみを揉んで、言葉を絞り出す。  「……とりあえずさ。お前、相手が八田さんで良かったね」   相手が悪ければ格好のカモになっているところだ。八田も本能的にこの男のこういう部分をうっすら感じ取っていて、金を遣わせることを敏感に避けているのではないだろうか。  そう、宇堂は察した。  「…お前の複雑な心境はよくわかんないけどさ。八田さんは単純に、お前に負担かけてるんじゃないかって心配してただけだよ。お前には言い(にく)いんだろうけど、八田さん、前に付き合ってた男が無職で無心してくるような奴だったから、自分が眞崎に同じような事するの嫌なんだって」  「……あぁ」  八田の昔の男達のことは、まだ付き合う前に何度か聞いたことがあった。顔も知らない過去の相手の事など考えたくもなかったから、頭から追いやっていた話だったが。  「…別に、あいつはあいつなりに自分で生計たててるし、俺はやりたくてやってる事だから、話が違うとは思うけど…」  「八田さんからしたらそうは思えないんだろうよ。でもさ、同じ千円のランチ奢って貰うんでも、財布に千二百円しか入ってない奴なら心苦しくて断るだろうけど、百万入ってる奴にたまには奢るよって言われたら甘えやすいだろ?八田さんは自分が千円しか持ってないから、お前のこともせいぜい二千円くらいしか持ってないと思ってんじゃないの?だからお前とは危機感が全然違うんだよ。そういう単純な話だと思うけどね」  「いや、二千円て。んな訳ないじゃないすか」  「そこは話さなきゃわからない。実際八田さんは、比喩でも何でもなく千円しか財布に入ってない時がよくあるって言ってた。給料日前とか」  「………」  気の毒そうに首を振る宇堂に、眞崎は返す言葉を失う。  知っていた。八田の(わび)しい財布事情は知っていたが、こうして第三者から改めて聞くと、哀れを通り越して心が痛む。  「とにかくさ。彼女は彼女でお前を大事に思ってるから、不安になるし意地も張るんだよ。そこはわかってやんなよ」  「いや…うん。それはまぁ」  「それにこれから一緒に住むんなら、お互いの経済状況とか現実的なことはさ、もうちょっと話し合っといた方がいいと思うよ」  同棲を始めた後も喧嘩一つする様子なく、仲睦まじく穏やかに過ごしている先輩の助言に、眞崎は返す言葉もなく押し黙った。  「お前が悪いって言ってる訳じゃないよ。よくあるただのすれ違いだとは思うけどさ」  宇堂は口の片端を上げて微笑う。  慰撫するようなその表情と声音に、眞崎は毒気を抜かれて、力無く肩を落とした。  「…すんません、宇堂さんとこにも世話かけて」  「いや、それは別に。八田さんの荒れっぷりちょっと面白かったし。うちの子はどっちかって言うと水面下で(たぎ)らせるタイプだから、新鮮だった」  「宇堂さんとこは、一緒住んでても喧嘩なんて無さそうに見えますけど」  「この先ずっとって事はないだろうけど、今のところないな」  「成海さん、心酔してるもんな。こんなつまんねぇ(いさか)い起こさないか」  自分にも彼のような余裕や包容力があれば、こんな問題も起きないのだろうか。自虐的にそう思った。  「いや、そんなことないよ。際どい時はあるけどさ。雲行き怪しいなって感じたら俺ごまかしちゃうから」  「どうやって」  「まぁ(ねや)でだよね。ひたすら丁寧に言葉を尽くして可愛がれば、大体機嫌直るかな」  「………参考にならねぇ」  「そう?お前が言ってた、顔を武器に押し切ったってのと同じ類のもんだよ。まぁお互い気持ちがあるって前提の話で、なければ余計(こじ)れるだけかもしんないけど」  「あぁ…」  眞崎は深い溜息を吐き、背にしたベッドの上に両肘を乗せて天井を仰いだ。  「そこが俺の一番自信ないとこです」  「何で?八田さんお前の事大好きじゃん」  「どうかな。そうだとしても、あいつの大好きは、いくつもあるから」  「卑屈だなぁ」  宇堂は苦笑いする。  「傍から見たら八田さんだって相当……まぁこういうのは他所(よそ)から何言われても、駄目か」  それにしても、と宇堂は笑う。  「お前が女の子にこんな振り回されるの、珍しいよな」  「人生初ですよ」  「わかるよ。俺もそうだからさ。でも案外楽しいんだよな。振り回されるのも手がかかるのも」  手がかかるのは見ていてわかるが、彼が振り回されている様子はまるでない。完全に掌上でコントロールしているように見える。  「俺はまだ楽しめる境地に至ってないです」  「八田さんもやんちゃだしなぁ」  「………あいつ、他にも何か言ってました?」  「いや、要点だけならそんなもん。けど、それに費やす言葉の弾数(たまかず)と付随する情報量が凄い。や、八田さんに限った事じゃないんだよ。最近時々うちでするじゃん、女子会。俺も食事の時なんかは同席するけど、凄いよな、女の人って。あんな何時間もぶっ通しで喋れるもんなんだな。ぽんぽん話飛ぶし、飛んだと思ったら実は繋がってて急に戻ったり。聖域ないし意外とエグいし。男同士よりよっぽど赤裸々なのな。俺もう居た(たま)れなくてすぐ自分の部屋引っ込むけど、迂闊(うかつ)に睦言とか交わせないなって。最近口に出す前に考えちゃうんだよな」  「怖え…」  「お前も人に聞かれたくない事はしっかり口止めしといた方がいいよ」  「そうします…」  翌日も仕事だからと、小一時間程で宇堂は帰っていった。    一人になると、狭い部屋には空虚な静寂が満ちる。いつもと同じ照明なのに、それすら薄暗く感じた。  それもそうだ。眞崎がこの部屋に来る時は、いつだって八田が、笑って傍にいたのだから。   □□□□□  からん、と乾いた音が聞こえて、目を覚ました。  薄く瞼を開ける。  カーテンを閉め切った部屋は薄暗かったが、淡く白みがかった色合いで朝だとわかった。  (おぼろ)げな光を背負う人影が、目に映る。  「…麻帆」  零れ出る掠れた声に、彼女は振り向く。  「…起こしちゃった?ベッドで寝れば良かったのに。体痛めるよ」  潜めた声でそう言うと、ベッドの縁に(もた)れて座ったまま寝入っていた眞崎の頬に手を当てた。  思わず力加減も考えずにその手を掴むと、八田は痛、と声を上げた。眞崎はどきりとしてすぐに手を離す。  「ごめん…」  「ん、大丈夫。ねぇ、それよりこんな飲んで具合悪くなってない?何か飲む?」  テーブルの上にずらりと並んだ空き缶を片付けていたらしい。八田はゴミ袋に入れた大量の缶をちらりと見てそう聞いた。  眞崎は返事をしなかったが、八田は冷蔵庫からペットボトルを取り出して、グラスに水を注ぎ手渡す。受け取った眞崎はゆっくりと飲んで、空いたグラスを持ったまま、ぼんやりと八田を見つめた。  八田は小さく息を吐いて微笑(わら)い、空のグラスを引き取ってテーブルに置いた。  「麻帆」  眞崎がそっと腕を引いて、抱き寄せる。  八田が拒む素振りを見せずにすんなりと身を委ねてきたことに、自分でも驚くほど深い安堵を覚えた。  「…いつ帰ってきたの」  「さっきだよ。…宇堂さんから眞崎はうちに泊まるって聞いてたから。まだいるかなって思って、帰ってきた。何か結構飲んでたって言ってたし、ちょっと心配で」  「今何時?」  「六時くらい」  「…迎えに行こうと思ってた」  「ありがと。でも朝だもん。一人で帰れるよ」  八田の口元がほんの少しだけほころぶ。  笑ったその形を確かめるように、眞崎が指で唇をなぞった。  八田がためらいがちに目を閉じたのを合図に、唇を重ねる。  「…麻帆」  「なぁに」  「好きだよ」  「──うん。私も」  八田は眉を寄せて少し気まずそうに笑うと、もう一度、今度は自分から軽く触れるだけのキスをした。その後頭部を捉えて、眞崎はもっと深く、キスを返す。  何度も、何度も。  呼吸が乱れて眩暈を感じても、眞崎は逃してくれない。  八田が眞崎の服の中に掌を差し入れて、背中を撫でた。その手の冷たさに眞崎が一瞬身を固くすると、「ごめんね」と呟いて手を引き抜いた。  眞崎の服の裾を引っ張って、たまりかねたように、ささやく。  「…ねぇ眞崎。脱いで」  口にした途端にきつく抱き締められて、八田は一瞬呼吸を止める。眞崎は(すが)るように八田を抱き竦めた後、服を脱ぎ捨て、八田の着衣も(ほど)いた。  そのまま床に押し倒される。  眞崎の掌と唇が、余す事なく跡を残そうとするように、体中を辿る。  その手は優しいのにどこか獰猛で、触れられる度、八田の体の芯は熱を帯びて潤んだ。  眞崎の愛撫はいつも丁寧だったけれど、今は執拗といってもいいほどで、欲情の波に飲み込まれそうな八田にはそれがもどかしかった。  ()れたように眞崎の下腹部に手を伸ばして、乞う。  「眞崎…。お願い、早く…乱暴にしてもいいから」  「…やだよ」  せっかく腕の中に戻ってきたのに。いつもよりもっとずっと、優しく、大切に扱いたいのに。  そう頭で思うのとは裏腹に、体はどうしようもなく(はや)った。  もう他に行き場もなくて、ひと息に、彼女の中に入っていった。 □□□□□  一緒に出勤したその日の朝、眞崎は「お前が嫌なら旅行はキャンセルする」と伝えた。  だが八田は首を振って「行く」とだけ答えた。  それから旅行の予定日までの数日、八田とは会えなかった。こんな時に限って会社でも顔を合わせない。  会えなくてもメッセージを送ればいつも通り返ってくるし、電話をしても声音は普段と変わらない。だけど顔を見るまで不安は消えなかった。旅行を受け入れたのは、単にキャンセル料が発生するのを気にしての事かもしれない。不本意な気持ちは残っているのかもしれない、と。  だからその日の朝、迎えに行った八田がいつもと変わらぬ明るい笑顔で顔を出した時、眞崎は心底ほっとしたのだった。 □□□□□  車で三時間少々の、隣県の海沿いの観光地。リゾートホテルも老舗旅館もあったが、眞崎が選んだのは客室に貸切露天風呂が付いている落ち着いた雰囲気の旅館だった。  部屋に案内されて荷物を置くと、八田は早速、露天風呂を見に行った。部屋の奥にあるガラス戸を開けると、数段の階段を降りたところに掛け流しの岩風呂があった。  「すごい、いいところだー。下心見え見えだけど」  「俺に下心なんてねぇよ。全部前面に出してる」  確かに、と八田はけらけら笑った。スカートの裾をたくし上げて用意されているサンダルを履き、外に出る。  「近くに川があるのかな?音がするね」  露天風呂の周囲は林になっていて、どこか近くに小川が流れているようだ。さぁさぁと流水音が聞こえてくる。  後から来た眞崎が、八田の肩越しに辺りを見回す。  「風呂でビール飲みたいな」  「のぼせない?」  「そこまで量飲まねぇよ」  「猿とかカワウソとか来ないかな。酌み交わしたい」  「お前が猿役すればいいだろ」  「やだ。眞崎がやって」  「そういうのを役不足って言うんだ。なぁ、夕飯七時って言ってたっけ」  「うん。部屋まで運んでくれるって」  「まだ時間あるな」  「うん」  「麻帆」  「うん?」  「先、風呂入る?」  「……うん」  眞崎は背後から八田の腰を抱く。  大きな掌がするりと服の中に入ってきて、脇腹から胸を甘く撫で上げた。  顎を引かれて振り向くと、唇は塞がれる。  日没を迎える直前の、まだうっすらと明るい空が、深い藍色と紅の色鮮やかなグラデーションを描いていた。  「麻帆…」   愛しげに名を呼ぶ眞崎の声と辺りに満ちる湯気の熱気で、八田の体にはあっという間に熱が回っていった。 □□□□□  次々と卓に並べられる懐石料理に、八田は目を輝かせた。  「すっごーい!美味しそう。この小鍋なんて見ただけで美味しい」  「旅館って感じするよな」  子供のようにはしゃぐ八田に、仲居さんも親しげに微笑みかけて「ごゆっくり」と席を外した。  「眞崎、ビールでいい?日本酒とか飲む?頼めばカクテルとかも色々あるよー」  「俺ビールがいい」  八田はドリンクメニューを置いて部屋の中の冷蔵庫を開け、ビールの瓶を取り出す。  「はーい。お酌しまーす」  ふざけて小首を傾げて擦り寄ると、雑な手付きでグラスに注ぐ。勢い良く、泡がグラスから溢れでた。  「うわっ、ごめん!料理にかからなくて良かった…」  八田は慌てて手元にあったお手拭きで拭う。  「慣れねぇことするから」  「だって浴衣だからさー。浴衣でお酌、よくない?ぐっとこない?」  「いやわかんねぇ。脱がせる時くらいじゃねぇの」  「情緒ないなー」  「服なんて二人の時は着てないのが一番だろ」  「身も蓋もないな」  結局お手拭きでは間に合わず、眞崎が洗面所から小ぶりのタオルを持ってくる。八田の粗相に文句を言いながらも、どことなく機嫌が良さそうだった。  ようやく食卓について、向かい合って食事を始める。  「お刺身美味しい!」  「鯵の刺身食う?俺、生の青魚ダメなんだよ」  「食べる!」  「お前ほんと好き嫌いないのな」  「そだね。あんまり好きじゃないくらいのは多少あるけど、基本的には大体美味しい」  「人生楽しいな」  「まぁいつでもって訳じゃないけど、大きく言えば楽しいが勝つね」  「今も?」  「何言ってんの。めちゃくちゃ楽しいよ。決まってるじゃん」  満面の笑みで答える八田を見て、真崎はふと気を緩めるように微笑う。テーブルに肘を突いてだらんと寛いで、そっか、と独り言のように呟いた。  「なら良かったよ。お前、本当は行きたくないんだろうなって思ってたから」  少しトーンを落とした眞崎の声に、八田は心なしかしゅんとして「ごめんね」と謝る。急にしおらしくなった八田に、余計な事を言ったかと、眞崎は内心慌ててとりなす。  「いや、別にお前が謝んなくてもいいけどさ」  「…ううん。ちゃんと謝らなきゃって思ってた。私、意地張っちゃってたんだよ。眞崎は、けっこう私にお金遣ってくれるでしょ?車のことも引越しのこともそうだし、ちょこちょこ奢ってくれたりもするじゃん。それがね、嫌…とは違うな。なんかすごい後ろめたくて」  「そんな風に思われる程遣ってねぇよ。割り勘で済ませる事のが多いだろ。車だって引越だって別にお前の為じゃない」  「うん。こないだ宇堂さんがそう言ってた。眞崎がそうしたいからそうしてるだけだって。自分の趣味の為にお金遣ってるのと同じだから私が気にすることじゃない、素直に喜んで甘えてればいいって」  平日の夜に突然訪れた恋人の友達を煙たがりもせず受け入れて、さらに後輩のフォローにも訪れる上司に対して、感謝の念と居た堪れない気持ちがせめぎ合う。  「それと眞崎は資産運用のガチ勢で、もうリタイアしてもいいレベルでがっつり貯め込んでるから、その程度は全然心配ないって。お金もちゃんと遣い方わかってて、使うとこに使って削るとこは削ってるから、あんまり遠慮とか心配ばっかりしてるとプライド傷付けるって」  「………」  「親子してFPの資格持っててお父さんもマネー講座とか持ってるくらい有名な元銀行員なんでしょ?そういうの詳しいんだってね?宇堂さんも色々教えて貰ってるんだって言ってた。そうでなくても、眞崎の方が私よりずっとしっかりしてるもん。余計な心配だったよね。一緒に楽しもうって考えてくれたのに、水差しちゃってごめんね」  宇堂が与えた情報量が、思いの(ほか)多かった。話そうと思っていた事ではあるが、どう言おうかというのも纏まっていなかった。手間が省けたと言えばそうなのだが、拍子抜けする。  「……もういいよ。俺も勝手だったし、言葉が足りなかった」  腕を伸ばしてテーブル越しに頭を撫でると、八田はへにゃっと笑った。  「今日ね、すごく楽しいよ。来れて良かった。ありがとね」  八田がそう言うと、眞崎は不貞腐れたような顔で視線を逸らした。照れている時の彼の癖だ。  八田はあはっと笑って、食事を再開する。眞崎も箸を取って食べ始めるが、いつもより動きが鈍い。  「……まだ、付き合う前に」  眞崎はぽつりと言って、躊躇うように言葉を切った。うん?と八田が箸を咥えたまま首を傾げると、眞崎はなぜか苦虫を噛み潰したような顔をする。  「…お前が言ったんだ。彼氏出来たら誕生日は一緒に旅行行って温泉入っていちゃつきながら過ごしたい、とか何とか」  「……誕生日?」  八田は怪訝そうに眉を寄せた後、はっとして「あぁ!」と大きな声を上げた。  「──私の誕生日、来週か…!」  「え、何。本気で忘れてた?お前人一倍騒ぎそうなのに何も言ってこないから、また何かつまんねぇ遠慮してんのかと思ってた」  そう思っていたから、余計に苛立って無理矢理に事を進めていた。もう三日前なのに、まさか本当に忘れていたとは思わなかった。  「…いや、自分でもびっくり。誕生日忘れてたなんて生まれて初めてだよ。毎年一か月前から楽しみにしてたのに」  はー、と八田は心底驚いた様子でゆっくり溜息を吐き、吐き切ると笑った。  「そっかぁ、それで眞崎、あんなに頑固に行く行く言ってたんだ。眞崎にしてはえらいしつこいなって思ってたんだよねぇ」  「しつこくて悪かったな」  「いやこっちこそ。一人で行けとか言っちゃってごめん。一人じゃ全然意味なかったね?」  からりと笑った八田に、眞崎は呆れたように肩を落とした。  不貞腐れた顔のまま少し考え込んだ後、不意に立ち上がる。部屋の隅に置いていた鞄を漁って何か小さな紙袋を取り出すと、八田の頭にぽこんと乗せた。  「何ー?」  「それもお前が言ってたやつだよ」  頭の上で受け取った紙袋を下ろすと、憧れだったジュエリーショップのブランドロゴがプリントされていた。  「…うそー…」  八田は真っ赤になって、紙袋で顔を隠す。  「あんなのただの妄想じゃん…」  「素直に喜べって言われたんじゃねぇの」  ぶすっとした眞崎が、八田の正面に胡座をかく。  紙袋を奪って中の箱を取り出し、八田の掌に乗せた。  だが八田は開けようとせず、請うような潤んだ目で上目遣いに眞崎をじっと見る。  眞崎ははぁ、と小さく息を吐いて、無造作にラッピングを解いて蓋を開ける。ふかふかのベッドに眠るように箱に収まっていた華奢な指輪を取り出して「ほら」と手招きした。  八田が差し出した左手に嵌めると、それは測ったようにびったりと薬指に収まった。  八田はしばらく唇を噛み締めて自分の手を眺めていたが、唐突に、がばっと眞崎の首っ玉に抱きついた。うお、と眞崎がバランスを崩して床に両掌を突く。  「痛ぇ。いきなり来んなよ」  「まさきー、ありがとう。嬉しいよー」  感無量の様子で八田がぐずくずと礼を言う。  「こんなに色々してくれようとしてたのに、家出なんかしてごめんねぇ。もう私馬鹿すぎてやだー…」  「だからもういいっつってんだろ。泣くんじゃねぇよ。笑わせたくてやってんだ。俺は、お前が」  笑ってるのを見るのが、好きなんだ。  零れ落ちるように漏れ出た眞崎の飾り気のない言葉に、八田は堪えきれずに、声を上げて泣いた。  「もー、ごはんどころじゃなくなっちゃった。すっごい美味しいのに〜」  「俺もだよ、馬鹿」  「眞崎ー。大好き」  「…俺もだよ」  ぐりぐりと顔を擦り付けて、遠慮なく眞崎の浴衣で涙を拭く。濡れた襟元が温かった。背中に腕を回して、あやすように優しく叩いた。  「当日じゃなくて悪いな。仕事の都合付かなくてさ」  「そんなのいいよぅ。私今日で幸運使い果たして、誕生日当日大事故に遭ったりするかも。記憶喪失になったりするかも」  「よくよく気を付けて過ごせよ」  ぽんぽんと頭を叩いて、とりあえず飯食おう、と八田の体を離す。八田も素直に席に戻って、食事を再開する。  「でもさ、よく覚えてたね?私が彼氏出来たら誕生日ああしたいこうしたいなんて話したの、付き合うずっと前だったでしょ?まだ仲良くもなかったじゃん」  八田もこう見えて記憶力はいいので、なんとなく覚えている。確か有希の誕生日の後だったから一年以上前だ。  いつものように社員食堂で、どう過ごしたかの話を聞いていて、その流れで八田が自分の理想の誕生日の話をし始めた。そこに眞崎も同席していたのだ。  その時は陳腐だと馬鹿にしていた。まさか覚えていて、さらに実行してくれるなど夢にも思わなかった。  「俺の記憶力舐めんな」  「もしかしてその頃から、私のこと好きだった?」  「………ベタ過ぎて覚えてただけだよ」  「照れてる」  「うるせぇ」  八田は笑って、まぁ飲め飲めと眞崎のグラスに酒を注ぐ。零れないようにと気を遣った挙句(あげく)、グラスの半分も注がない。おまけにほとんど泡で液体が一センチもない。ぐっとくる筈の浴衣での酌はますます雑になっている。酌に限ったことではない。八田は本当に、色々と雑だった。  だがどうしてか、そんな彼女が他の誰よりも大切だった。  「私ほんとに、誕生日忘れてたのなんて初めてだったよ。でも考えたら当たり前かも。眞崎といると、特別楽しいこといっぱい起こるもん。一緒に住むのも凄い楽しみだもん。それ以上に特別な事なんて、思いつかないわ。想像追いつかない」  「…お前なんで飯の途中にそういうこと言うの」  「ん?なんか駄目だった?」  「駄目。今すぐもっかいしたくなる」  「いや、むしろ今は私の方がしたい。一刻も早くしたい。今回ばかりは負けない」  「まじか。先にやっとくか」  「いや、我慢する。ごはんは食べる、美味しい内に!」  「あぁそう…」  つまらなそうに箸を噛む眞崎に、八田は晴れやかな笑顔で笑ってみせた。 □□□□□  朝少し早めに出社すると、宇堂は既に自分のデスクで仕事に掛かっていた。  「土産です」  そう言って紙袋を差し出すと、宇堂は小さく笑って「ご丁寧にどうも」と受け取った。  「楽しかった?」  「おかげさまで」  そう言ったのは社交辞令ではなかった。彼のフォローがなければ、未だに関係を拗らせたままだったかもしれない。  「うちの子も八田さんからメッセージ貰って安心してたよ」  「なんて?」  「楽しかったって。帰りたくないって、このまま眞崎ん家の子になりたいって言ってたってよ」  「アホだ」  だが実際八田は帰りたがらず、昨夜も眞崎の家に泊まっていった。いつどれだけ泊まろうが眞崎は別に困らないし、帰るのやだ、とごねる姿は、正直可愛かった。  「喧嘩中はあんな荒んでたのに、かわいいもんだな」  「……まぁ。そうすね」  「素直」  ふはっと宇堂が笑う。  「でももうすぐ本当にお前ん家の子になるんだもんな。引越は再来月の頭だっけ?」  「そうです。土日で移動して、月曜有休貰って片付けようかなと」  「業者使わないんなら、移動は俺手伝うよ」  「マジすか。助かります。俺の方は大した量ないんで一人でも余裕なんですけど、麻帆の方が結構多くて」  「あぁ、八田さん荷物多そう」  「部屋見てるとこれ要るのかってもんばっかですよ。高校の制服とか要ります?思い出がどうのこうの言うけど、せめて実家に置いとけよ」  「はは。着て貰えば」  「そんな趣味ねぇですよ」  「あんまり荷物多いようならトラック借りる?支社長に言えば四トンくらいなら融通してくれるよ」  「あぁ、いや。これを機にちょっと断捨離させます。すんません色々」  「いや全然。うちの子の引越しの時、お前も八田さんも手伝ってくれたろ」  そうだった。有希が宇堂の家に越す際は、松下を加え三人で出向いて荷運びや荷解きを手伝ったのだった。肉体労働を好む八田は、やめろと止めても重たい荷物を運びたがって、翌日筋肉痛になっていた。  「楽しくなるな」  PCに向き直って再び仕事に取り掛かった宇堂がぽつりと呟く。  だといいけどな、と少し弱気な気持ちが湧いたが、それは口にせず、黙って頷いた。  
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