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 月曜日の夜、眞崎の部屋で八田はごろごろとベッドの上を転がっていた。  「帰りたくないよー」  先週末、金曜の夜から泊まり込んでいた八田だが、月曜日、仕事を終えてからもまた、眞崎の部屋を訪ねていた。  一緒に食事をするだけ、さすがに今日は帰る。  そう言っていたのに、数時間後には、ぐずる子供のように布団にくるまってゴロゴロと寝返りを打っていた。  裸に布団を巻き付けただけ。ともすればみっともない姿だが、悪い気はしない。駄々を()ねたくなるほど離れ(がた)いのは、眞崎も同じだった。  「今日も泊まってきゃいいじゃん」  着替えはある程度置いてあるし、洗濯もしてある。困る事もないだろう。  まだ下着姿のままでベッドの縁に腰掛けた眞崎が、手の甲で頬を撫でて誘いかける。  「そうしたいけど…明日の商談で使う資料、家に置いてきちゃってるんだよね。ないと仕事になんない」  八田は唇を尖らせて、情けない顔をする。  「…大体、眞崎が!帰る前にしようとか、誘惑してくるから!帰りたくなくなってしまうんだよ!」  「お前だってやる気満々だったじゃねぇかよ」  「私に眞崎の誘いが断れると思うか⁈」  「いつも断ってんじゃん。風呂だのなんだの」  「あれは断ってるんじゃないもん。万全の体勢を整えてるだけだもん」  八田は枕に顎を乗せて、()ねたような顔をする。  「…眞崎と一緒に寝たい。朝起きた時とか夜中に目を覚ました時、ぎゅーってされたり撫でてもらうのが好きなの」  眞崎は八田の隣に寝そべって、布団ごと八田をぎゅっと抱き締めた。  「こう?」  「そう!」  八田は嬉々として眞崎の背中に腕を回して、胸に顔を(うず)めた。希望通り、頭も撫でてやる。  旅行を終えてからというもの、八田の頭の中は完全に眞崎一色だった。  付き合ってから今まで、愛情表現に関しては受身というか、比較的さっぱりしていたので、その変化は眞崎にもしっかり伝わっていた。  「なんかお前、最近甘ったれになったよな」  「うっ…やっぱわかる?鬱陶しい?めんどくさい?」  「いや、んな事はねぇけど」  それを鬱陶しいと言ってしまえば、眞崎にとっては巨大ブーメランになってしまう。そんな風に思えるはずなかった。  「…私さ、多分今までちょっと、セーブしてたんだよね。あんまり好き好きってなり過ぎちゃうと、周り見えなくなっちゃうし。他のこと手につかなくなっちゃうし、重いって思われたら嫌だし。それですぐ駄目になったら、辛いでしょ?」  「何、お前そんなこと考えてたの?」  眞崎は呆れたように目を丸くする。  「ちゃんと考えてた訳じゃないけど、なんとなく…本能的に?でも旅行の時に、なんだよ眞崎も私のこと大好きじゃんって思ったら、なんか安心したっていうか吹っ切れたというか…決壊しちゃったんだよね。あ、別にプレゼントに釣られたとかじゃなくてね?」  「わかってるよ」  八田の蛇足(だそく)に眞崎は苦笑いする。  「…もう、更新の時期とか無視してさっさと一緒に住んじゃえば良かった‼︎」  年内いっぱい待てとか言っていたことなどすっかり忘れ、八田はくそーと悔しがる。  すっかり恋に溺れている様子の八田に、眞崎はようやくか、とむしろ満足気である。  「でもお前今けっこう忙しいじゃん。引越しと重なったら、それはそれで大変だったろ」  「うーん…まぁそうだけど…」  夏の新商品の発売が近付いている八田の会社は今、繁忙期を迎えている。今日はたまたま早く帰れたが、この時間まだ会社にいる事もザラだった。  「一緒に寝たいんなら、俺が今からお前ん()行ってもいいけど」  「えっ。でももう十時だよ」  「いいよ、どうせ送ってくつもりだったから。明日俺がお前んとこから出勤すればいいだけだろ。準備してくるわ」  そう言ってさっさと服を着て、立ち上がる。八田も慌ててベッドを抜け出て、服を着た。  「お待たせ。ほら、行くぞ」  八田の分の荷物まで手に持って、早々に家を出た。 □□□□□    眞崎との夜のドライブが、八田は好きだ。  深夜零時まで営業しているカフェのドライブスルーで買った、たっぷりとクリームの乗ったカフェラテを飲み、お気に入りの音楽を掛けて(まばゆ)い都市の夜景を楽しむ。  「そういえばねー、今日から新人さんが来る予定だったんだけど。体調崩しちゃったとかで初日からお休みで」  「あぁ。お前んとこの…営業部のアシスタントって言ってた奴?」  「そう、営業事務の子。初日から欠勤って気まずいだろうし、もう来ないかなって、みんな気にしてて」  「でも連絡はあったんだろ?なら回復したら来るんじゃねぇの?」  「そうと思いたい…。今立て込んでるからさぁ」  「そいつが入れば楽になんの?」  「うん、早めに仕事覚えてくれたら。先月営業事務の人が家族の体調不良と産休でいっぺんに二人抜けて、足りてなくて。今まで事務の人にお願いしてた事務作業も外出の後、自分でやってるから長引いちゃって」  なるほどな、と眞崎はハンドルを握りながら頷く。八田の会社は数年前に新設された会社だ。まだ社員数もそこまで多くないので、急に複数人員が抜けた穴を埋めるのはなかなか大変だろうと、想像がついた。  「新商品の発売ももうすぐだし。引越までには落ち着くといいなぁ」  「だな。まぁ引越準備の方は、俺も荷造りくらいは手伝うけどさ」  「ありがとー」  「がっつり断捨離するぞ」  「あっ…それは嫌…」  やたらと無駄なものを溜め込む八田の習性は、眞崎に理解されないらしい。買ったものの使い心地がいまいちで一年以上放置していた化粧品やどこで手に入れたのかも覚えていないぬいぐるみなど、ごっそり処分させられた。  「やっと一緒に住めるんだもん。引越しの後は、早く帰ってゆっくり過ごしたいよ」  「そうだな」  眞崎は薄く柔らかく笑って、小さく頷いた。 □□□□□  翌日の朝。始業時間を二十分ほど過ぎた頃、見慣れぬ顔がひょっこりと営業部に顔を出した。  「あ、おはようございますー」  ふわっとした声に、室内のほぼ全員が一斉に顔を上げた。  「あのー、今日から入る中島ですー」  小柄な体躯と薄い色の長い髪。少し舌足らずな声からイメージされる通りの可愛らしい女子が、そこに立っていた。  「あぁ、新人さん?」  入口付近に席がある営業事務の細井が、さっと立ち上がって対応する。三十代半ばの細井は、保育園に通う子供を持つワーキングマザーで、会社設立当初から在籍する。今は営業事務職のリーダー的な存在だ。  「体調はもう大丈夫?」  快活な笑顔を向ける細井に、中島は一歩引いてふんわりと笑った。  「あ、はいー。ちょっとした生理痛なんで、大したことないです」  その言葉に、室内の数人がふと首を傾げる。  女性同士なので、生理痛の辛さはわかる。  生理は病気ではないなどと言われても、病気を上回るレベルの腹痛に見舞われることも、貧血で立ち上がることすら困難な日があることもわかる。  だからそれを理由に欠勤することをどうこう言う者は、この会社には(ほとん)どいない。  しかし、言い方というものがあろう。  大したことないちょっとした生理痛で、勤務初日に欠勤するか?  そう、その場にいた数人が思った。  だが細井は心を動かす素振りも見せず「そっか。なら良かった」と言うに留めた。大人の対応である。  「今朝は社長に挨拶行ってたの?」  「え?何でですか?出勤したら(ちょく)でここに来るように言われてたんですけど…」  きょとんと首を傾げる中島に、細井もつられて首を傾ける。  「そうなんだ。私もそう聞いてたけど、出勤時間になっても来ないから、先に社長のところに挨拶でも行ってたのかなと思ってて」  「あー。今日は初めてだから、来る途中ちょっと迷っちゃって」  えへへと照れたように笑う中島に、大半の者が内心で引いた。  この会社は駅から徒歩五分、しかも道のりは大通りを真っ直ぐなので、面接などで一度でも来社すればそうそう迷うことはない。迷ったとしても、出勤時間を過ぎるようなら電話連絡をしてもいいのではないか。そういえば昨日の欠勤の連絡が来たのも、昼前だった。  「…出勤時間は九時だから。今度から遅れる時は、連絡して」  「はぁい」  努めて穏やかに声を抑える細井に、八田は心の中で立派なものだと拍手を送った。 □□□□□  「こう言っちゃなんだけどさ。滅茶苦茶面倒な匂いするんだけど」  昼休憩の社員食堂で、八田と差し向かいに座った細井が顔を寄せて小声で言った。  細井は普段弁当を持参して自分のデスクでランチを摂ることが多かったが、今日は細井からの誘いだった。  「八田ちゃん…。ちょっと愚痴に付き合って」  昼前に耳打ちされた八田は、無言でぐっと親指を立てた。八田の席は細井の斜め向かいである。二人の噛み合わない遣り取りは、目の当たりにしていた。  本当は、新人が来るから交流の意味も兼ねてどこかでランチを摂ろうと、敢えて弁当を持たずに来たらしい。  だが、午前中付きっきりで指導した細井はどうも疲れた様子で、ランチタイムは他に二人いる営業事務担当者に中島を預けた。今頃近くのカフェにでも行っている筈だ。  「いや…わかります。新人さん相手になんだけど、ちょっとあれはキツい」  「わかる?わかってくれる?」  悲壮な顔で細井は頭を抱える。  「電話取らせたら第一声が『あ、どうもー』だよ⁈その前に十回はシミュレーションしたのに!緊張しちゃって、って言うけど、それはわかるけどもさぁ…」  「前職テレオペって言ってませんでした?」  「言ってた。だから電話対応は得意だと思ってたの。タイピングも問題ないって話だったのに、何故か片手使いでさ。聞いたら数字…テンキーしか使わなかったから両手は慣れないって。いつの世代だよ」  「今回入社テストなかったらしいですもんね」  「社長面接もなかったからね…」  今までは入社試験も社長面接もあったが、今回は急いでいたため、どちらも飛ばして各部署の長の面接のみである。出来ると本人が言えばそれを信じるのみだ。  「出来ないのはしょうがないよ。でも必要とされてるスキルにやる気もないのは正直困る。教えようとしてもこの方が慣れてるんでこれでいきますーってさ」  「でも細井さん流石ですよ。大人の対応してるもん。私だったらガツンと言っちゃうかも」  「娘と同い年だと思って()えてる」  「五歳児か…。子育て経験者の忍耐力凄いな…」  八田が感心してうんうん頷くと、細井は口惜しげに眉を寄せる。  「私が時短じゃなくて残業出来れば増員しなくてももうちょっと回るんだけど。ごめんね」  「いやいや何言ってるんですか。定時で帰るなんて普通でしょ?お迎えの時間もだし、帰ったら家事も育児もあるのに、残業なんてしてられないでしょ?それに勤務時間中の稼働力、半端ないし。時短でも人一倍働いてますよ」  八田が本心からそう言うと、細井は目を潤ませて、皿の上のクリームコロッケを八田の皿に移す。  「ありがとう八田ちゃん。嬉しいこと言ってくれたお礼にこれあげるね」  「やった!でもこれ細井さん嫌いなやつでしょ」  あははと笑って、だが好物なので喜んで口に入れる。  細井は愚痴ってだいぶメンタルの回復を遂げたようで、からりと笑顔を見せた。  「まぁ入社初日の子にああだこうだ言ってもしょうがないよね。じっくり育てていくしかないかぁ」  「そうですね。営業事務の御三方は特に大変だと思いますけど、私達営業でも教えられることはあるし。誰かが付きっきりじゃなくて、皆でお世話して分散する感じで。気楽にいきましょう?」  「しばらく営業さん達の負担はむしろ増えちゃうかもだけど。ごめんね」  「そこは細井さんが気にするとこじゃないですよ。責任感じて仕事持って帰ったりプライベートに影響出ないようにして下さいね」  教える業務に時間を取られて自分達の仕事が後手に回る筈だ。その分を八田達営業担当者がフォローする必要もあるだろう。  「あー、でも愚痴ったらすっきりした!午後も頑張ろ」  明るい表情で伸びをした細井に、八田は少しホッとする。  細井は八田のように身軽に働ける立場ではない。ただでさえ八田の想像が及ばないような苦労があるだろうから、こうして笑顔を見せてくれると安心する。  昼休憩も終わり際になって食堂を出ると、ちょうどこちらへ向かっている眞崎の姿が目に入った。  八田が大きく手を振ると、眞崎もこちらに気付いて軽く手を上げ、近付いてくる。  「これから休憩?ちょっと遅いね」  「来客あって長引いてたんだよ。お前この後外出?」  「うん、もう少ししたら出るよ」  「夕方雨降るってよ。折り畳み貸そうか?」  「あ、ほんと?私も置き傘あるから大丈夫。持ってくね」  「帰りひどく降ったら送ってくから。連絡しろよ」  「うん。ありがと」  えへ、と笑う八田を見て、眞崎も小さく笑った。ぽんと八田の頭を叩いて、食堂に入って行った。  二人の遣り取りを見ていた細井は、にやにや笑っている。  「付き合って半年くらいだっけ?ラブいよねぇ。いいなぁ、優しいイケメン彼氏…」  「細井さんの旦那さんもイケメンじゃないですか」  「いや全然。眞崎君と比べたらじゃがいもだよ。俄然(がぜん)及ばないわ。それに眞崎君は、八田ちゃんにしか優しくないところがいいんだよね…。うちの旦那は見境なく愛想振りまくからさ」  「妬いちゃう?」  「そんな可愛い感情はもう失ってますわ。その分こっちに寄越(よこ)せとは思うね」  あはは、と笑いながらエレベーターに向かうと、外ランチから戻ってきた営業事務の他メンバー二人と中島もちょうど乗り込もうとするところだった。  「おかえりー」  八田と細井が声を揃えると、二人はにこやかに応えたが、中島は何やら真面目な顔をして八田をじっと見ている。  「ん?どしたの?」  「あの、さっきの。話してた男の人…。違う会社の人ですよね?めっちゃかっこよくないですか?仲いいんですか?知り合いなら紹介とか出来ます?」  真顔のままで質問を繰り出す中島に、その場の誰もが焦った。  「あの人は八田の彼氏!」  「吐くほど仲良くて入り込む隙はないから!」  「しかももうすぐ同棲するんだよね⁈」  身構えた八田が口を開く前に、矢継(やつ)ぎ早に他の三人が情報を繰り出して牽制する。  「…そうなんですか?」  鋭い視線を八田に向ける中島に、八田は「そうだよ」と困ったように眉を寄せて笑った。  「…素敵な彼氏がいて羨ましいー。私もあんな彼氏欲しいですー」  中島は一転して表情を和らげると、ふわっと可愛らしく小首を傾げた。  (うわ)  絵に描いたように女子らしい愛嬌のある仕草だったが、八田はじりっと毛先を焦がされたような気持ちになった。  仕草がどんなに可愛らしくとも、目が笑っていない。どことなく邪気さえ感じるその空気に、八田の肌は少しひりついた。  
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