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 「そういえば昨日、お前んとこに新しく入った奴に話しかけられた」  数日経って金曜の夜、カウンター席で隣に座った眞崎にそう報告されて、八田は咀嚼(そしゃく)中のラーメンを噴き出しそうになった。  「え、中島さん?」  「名前は忘れたけど。なんかこうゆるっとした感じで喋る、髪の長い女」  間違いなく中島である。八田はあの時の、鋭い中島の目を思い出して、少し恐々とした。  「な…なんて?」  「八田さんの彼氏さんですかって聞かれて、自己紹介された。今週入ったばっかりって言ってたからお前が話してた新人だろうなって」  「それだけ?」  「うん。エレベーター乗り合わせただけだからな」  それを聞いてほっとした。八田達の会社は三階なので、待ち時間を含めてもニ分も掛からない。会社が下層階にあって良かったと、初めて思った。  「でもあれだな。お前が毎日こんな時間まで働いてるって事は、即戦力ではなかったんだろ」  食事を既に済ませていた眞崎は、軽いつまみと瓶ビールを頼んで手酌で飲んでいる。  八田から仕事が終わったと連絡が来たのは二十三時過ぎだ。  明日は休みだから駅の近くで飲もうと八田が誘ったが、時間も時間だ。ラストオーダー間近の店も多いので、結局朝まで営業しているラーメン屋のチェーン店に入った。  空腹の限界を迎えていた八田は早速ボリュームたっぷりのラーメンを頼み、一心不乱に食べていた。  「うん…まぁね。ごめんね、今週全然会えなくて」  仕事の後に眞崎と会うのも月曜日以来だった。  「生存確認は出来てるし、いいけど。お前疲れてんな」  「…正直、ちょっと」  八田は眉を下げて苦笑いする。  「営業事務の三人が、新人教育にかなり手を取られちゃってて、むしろ前より忙しくなっちゃって。新商品の発売も迫ってるから今頑張んないと売上も取れないし…。私ら独身組はまだいいんだけど、今日ついに細井さん残業させちゃって」  「ちっさい子供預けて働いてるって人だっけ?」  「そうそう。旦那さんにお迎え代わってもらうから大丈夫って言ってたけど。旦那さんは毎日残業って人で、いつも細井さんがお迎え担当なの。仕事後のごはん会とかも行きたいなぁって言ってるんだけどなかなか来れなくて。せっかくお迎え代わって貰える機会があるんなら、残業なんかじゃなくてもっと楽しい事に時間使って欲しかった…」  「お前らしい発想だな」  眞崎は口の端で笑いながら、八田のグラスにビールを注ぐ。  「そんな何人も手ぇ取られる程出来が悪いの?その新人」  「いや…うん、まぁ」  ありのままを話すとどうしても陰口のようになるので、八田は言い(よど)んだ。  出来ないだけならまだ良い。人の話を聞かず適当な仕事をするから、ミスが多くて修正に時間を取られているのだ。過去二年分を間違えたデータで上書きしたり、既存のフォーマットを勝手に変更したり、伝言の伝え忘れも多くて取引先からのクレームが来たりもする。  仕方がないのでここ二、三日は営業事務の者がほぼ付きっきりで指導をしているのだが、そうするとどうしても時間がかかる。じわりじわりと溜まった仕事の皺寄せが、八田たち営業にのしかかってきていた。  「…その子だけの問題じゃなくて、私達が新人教育に慣れてないっていうのもあるのかなって、こないだ細井さん達とちょっと話してたの。うち、設立間もない会社でしょ?今いる人はほとんど転職組だから、ある程度素地(そじ)が出来てたんだよね。今年入った新卒の子も何人かはいるけど、偶々その子達が優秀だっただけで、まっさらな子に教える体制が整ってないのかもって」  「その新人も中途だろ?」  「って言ってもまだ二十三だから。学校出て一年ちょいフリーターだったらしいけど、一日三時間で週に二日三日くらいしか働いてなかったから、ちゃんと就職するのは初めてなんだって」  「もっと状況に合った人間()れよ…」  「採ったのが産休に入った営業部長なんだよね…。妊娠初期の体調良くなくて、予定よりずっと早く、急に休まなきゃって状況になってて。切羽詰まってたんだと思う。中島さんが一番最初に面接来たらしいから」  「今の営業部長は?」  「表向き総務部長が兼任してるけど、営業部の実務はさっぱりわかんないんだよね。実質不在状態。細井さんが指揮とって、判断できない事は社長に相談してる」  「細井さんって事務方じゃねぇの?」  「今はね。去年までバリバリのトップ営業だったんだよ。今いるメンバーなら一番出来る人だから、皆つい頼っちゃって。その時は保育園のお迎えとか食事とかを同居のお母さんがフォローしてくれてたからあんまり時間も気にせず働けてたんだけど、今年の初めに足腰痛めて任せられなくなっちゃったらしくて。定時一時間早めた時短勤務できっちり帰らなきゃいけなくなって、本人の希望で職種変えたの」  「なるほどな…」  産休に家族の介護に家事育児による職種転向。女性ならではの(まま)ならない事情ばかりである。  頑強な男が多い眞崎の会社ではあまり発生しない問題だが、その裏ではこうして誰かの伴侶が苦心しているのかもしれない。今まではそんなところにまで、考えは及ばなかったけれど。  「社長は何て言ってんの?」  「急いで即戦力になりそうな人探すって、今面接ラッシュ。営業部長の件も色々検討中みたい。だからこんな状態も、一時的なものだとは思うけど…」  最後の麺をつるんと口の中に滑り込ませて、八田は深い溜息とともに思いきり弱音を吐いた。  「………疲れた‼︎週末はぐっだぐだに休む‼︎」  「休日出勤はねぇの」  「するつもりだったんだけど、売上多少落としてもいいからそこは休めって社長が全部屋の鍵持って帰っちゃった」  「潔いな」  「でも実は皆こっそり仕事持って帰ってるんだよね。私も、明日か明後日ちょっと仕事するね。せっかく一緒にいるのにごめんだけど」  「いいけど無理すんなよ」  「うん。売上落とさない程度に最低限。今の会社気に入ってるから、潰れたら嫌だしね。まぁ私がちょっと余計に働いたところで、そんな変わんないかもしれないけど」  からっと笑う八田は、だいぶ元気を取り戻しているようだった。  「お前は飯食うと元気になるな」  「皆そうじゃないの?」  「多分そうでもない奴の方が多いな」  「そうなの?でも私だって食べ物だけで元気になる訳じゃないもんね。今は、お腹いっぱいになってこれから浴びるように飲めて眞崎が横にいてこれから二日間存分にべったべたに甘やかして貰える見込みがあるから、元気になれるですよ」  なぜかドヤ顔で八田は胸を張る。眞崎はふっと笑って、八田の髪を指に絡めた。  「じゃあもう帰る?べったべたに甘やかして欲しいんだろ?」  「うん。もうちょっと飲んでから!」  「あぁそう…」  あっけらかんと笑う八田に、眞崎はつまらなそうな顔をして追加のビールを頼んだ。  「あ、そうだ。俺来週、久々に個人警護の現場仕事入るんだ。前からの馴染みの客の指名でさ。その日は夜勤になるから、一晩連絡取り辛いかもしんねぇ」  「そうなの?危ない事ない?」  「ゼロとは言えねぇけど、そこまで危険はないよ」  「そっか。気をつけてね」  個人警護の仕事内容は、コンプライアンスの問題であまり口外出来ないらしいから、八田も多くは聞かない。心配するなと言うのなら、大人しく待つしかない。  「…気をつけてね」  少し心許(こころもと)ない気持ちになって、眞崎の袖を掴んで繰り返す。  「何、心配してんの?かわいいとこあるじゃん」  眞崎は親指でぐりぐりと八田の眉間を押した。  「もう。からかわないでよ」  「揶揄ってねぇよ。ほら、早く飲みな」  少し膨れた八田の頬を指先で揉みほぐしながら、眞崎はグラスにビールを注いだ。 □□□□□  「今朝、見たよ〜。彼氏くんと一緒に通勤してたでしょ?」  デスクの前で昼食のサンドイッチを齧る八田に、同じようにコンビニのおにぎりを食べていた斜め向かいの席の同僚が声を掛けた。あからさまに揶揄(からか)い口調である。  「うん。週末あいつん()に泊まってたからね。送って貰っちゃった。眞崎、車通勤になったからさ。楽させてもらってるー」  八田は照れもせずにからっと笑った。  「これっぽっちも恥じらいないな。つまんなーい」  「いやだってあなた、もうすぐ一緒に住むってのにお泊まりに恥じらいも何もないじゃん」  新商品の先行発売が週末に迫り、営業部の忙しさも大詰めだ。社員食堂でゆっくりランチを摂る時間も惜しんで、こうして部署で仕事しながら適当に済ませる者が増えている。せめて人の恋愛話で潤いを摂取したいのだろう。  「ご希望でしたら全力で惚気(のろけ)て差し上げますけど」  「聞きたいっ…けど!ラブ成分なしでこの山を乗り切ろうとしてる私には、素面(シラフ)だとキツい…‼︎」  八田が冗談めかして言うと、同僚は歯軋りして悔しがる。  「えー、でもぉ。あんなモテそうな人と付き合うの、心配じゃないですかぁ?」  不意に同僚の背後に現れた中島が、口を挟んだ。昼食に行ったのかと思ったが、トイレだったらしい。ポーチだけ手に持ってにっこりと笑っている。同僚は思わずうぇっと小さく(うめ)いたが、八田は苦笑いするに留めた。  「あいつは心配させるような事しないからね。大丈夫だよ」  「えー、すごーい。信用してるんだぁ。でも油断してるとー。隠すの上手い人もいるじゃないですかー?」  「ちょっと、何が言いたいの?」  八田よりも先に、同僚の方が眉を吊り上げる。だが中島は意に介さず、ふふっと笑って自席に戻り、バッグを手にする。  「何でもないでーす。お昼行ってきまーす」  歌うように言って、するりと部署を出て行く。  「あのやろう。仕事は山ほど溜まってるのに、自分だけきっちり休憩しやがって」  「こらこら。言葉遣いが荒れていますわよ」  食べ終わったゴミをビニール袋に纏めながら、八田が宥める。  「忙しさの原因の一端を(にな)っちゃってるってのに、ご機嫌でいってきまーすはないわな」  一部始終聞いていた八田の後ろの席の先輩が、くるんと椅子を回して会話に参加する。八田の肩に腕をかけてのしかかり、頬をつつく。  「気にすんなよ、八田」  「全然気にしてませんよ。眞崎(あいつ)を知らない相手に何言われてもね」  「おぉ、正妻の余裕」  「正妻って。なんで一夫多妻制…」  「そうだった。ごめんごめーん」  そんな同僚との軽口で気晴らしをして、八田達は仕事に戻った。   □□□□□    そのイタリアンレストランは会社から少し歩くし、値段も高い。  だが中島は会社近くの飲食店を避けて、その店を選んだ。ランチタイムのピーク時に、手頃な店など選ぶべきではない。仕事に戻るのが遅れても高い金を払ってでも、客数にゆとりがあって丁重な対応をする店を選ぶ。忙しさを理由に雑に扱われ、不愉快な思いをするのは御免だ。  不愉快と言えば、あいつ。八田。  あの女、初めて会った時から嫌いだった。  「慣れるまで大変だと思うけど、みんないい人達だから何でも聞いて。楽しくやろうね」  当たり前のように、何十人もの人間を十把一絡(じっぱひとから)げに『いい人達』と纏める。そんなことがある訳ないのに。  こういう女は、どこにでもいる。  特別美人でも賢くもないのにいつも人に囲まれていて、何がそんなに楽しいのか、いつ見てもけらけら笑っていて。よく食べて、バタバタ走り回って、ズケズケ物を言って誰かと衝突する割に、次に見るとその相手と、また一緒に笑い合っている。  日の当たる場所にいて当然みたいな、傲慢な態度。  遠くから見ているだけで、腹が立つ。  昔から、可愛い可愛いと言われて育った。  小柄で色白、ふわりと波打つ髪、いかにも女の子然とした丸みのある輪郭。  一人っ子で初孫で、近所に歳の近い子供もいない。アイドルみたいに持て(はや)されていた。周りの大人たちは、望むものは何でも与えてくれた。  可愛いものに人は無意識に惹き寄せられるのか。幼い頃は友達も勝手に寄ってきて、クラスの中心にいた。  誰かと喋るのは好きだった。  新しく買ってもらった玩具や洋服の話。好きなアニメの話。唯一口うるさい母親への文句。地味で冴えないクラスメイトの失敗談で笑ったり。  でも人の話を聞くのは嫌い。  だってどうでもいい。興味がない。他人が何をして何を思って過ごしているかなんて。  それより聞いて。聞いて、私の話を。  最優先にされて当たり前。だって私は可愛いんだって。  だがそうしている内に、少しずつ周りの様子は変わってきた。話を聞く時の顔はいかにも面倒臭そうで、休み時間の度に彼女の机の周りを囲んでいた友人の数は、一人、また一人と減っていった。  「あの子、他の子のこと馬鹿にしてるよね。性格悪い」  「わかる。ちょっと可愛いからって、調子乗ってるよ」  誰かがそう言い合うひそひそ声が、遠くから聞こえる。  その頃にはもう、中島と話すクラスの女子はニ、三人しか残っていなかった。それもずっと蔑んでいた、地味で冴えない部類の子たち。  つまらなかった。  何年も何年も教室の隅で、気の利かない相槌しか打てない、退屈な相手と友達ぶらなきゃいけなくて。  こんな状況は、自分に相応しくない。  つまらないつまらないつまらない。  そんな日々を変える方法に気付いたのは、高校に入学してすぐだ。  三年生の先輩に、一目惚れをした。  背が高くてスポーツが得意で、男性アイドルグループに所属していてもおかしくないくらいの、甘く整った顔立ち。  当然のように凄く目立ったから、情報は勝手に流れてくる。サッカー部の副部長、勉強は苦手だけど、性格は明るく友達も多くて、ちょっと軽い。そして付き合って半年ほどになる彼女がいる──。  それは中島にとって、久々の『どうしても欲しいもの』だった。  小さい頃親に買って貰った、好きなアニメのプリンセスが着ているドレスのような。  無駄に華やかで着る機会もないのに、どうしてもそれを纏って自分を飾りたい。そうすれば自分を満たすことが出来る。  彼は、そういう類のものだ。  そしてそれは、思ったよりもずっと簡単に手に入った。  タイミングを見計らって、人気(ひとけ)のない場所で二人きりになって。目を潤ませて何度も好きだと言って、手を握って。その手を自分の下着の中に誘導する。  たったそれだけで、彼は彼女を捨てて自分に溺れた。  友達なんて要らない。下らない。  ただ自分を華やかに飾り、相応なステージに引き上げてくれる相手がいればいい。より良い相手が現れたら乗り換える。深い愛情だの信頼だのも、要らない。どうせそんなものは存在しないのだから。    なのに、あの女。  信頼しきった顔で大丈夫だなんて緩いことを(のたま)う、馬鹿な女。  どうせあの顔に惚れ込んで、押して押して何とか彼女にして貰ったとか、そんなところだろうに。  あんな見るからに遊んでそうな男、簡単に奪える。八田よりもっと若くて可愛い女から誘惑されたら。最初は心を残していても、とりあえず関係さえ持ってしまえば、後は──。  人と人との信頼なんて、薄弱なものだ。(こと)に男女の関係においては。  あぁついでに、他の仕掛けもしておこう。大きな取引が大詰めだと言ってたっけ。  水の中の魚のように溌剌(はつらつ)と仕事に向かう様が、癇に触ると思っていた。  いっぺんに失えばいい。  居場所を失くして、途方に暮れる様を見たい。  ランチに頼んだパスタをくるくるとフォークに巻き付けながら、中島は一人、微笑んだ。  
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