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 カタンと椅子を引く音がして、隣の席に座った女がいた。  「ここ空いてますー?」  彼女がそう尋ねたのは、しっかり着席した後だった。  社員食堂は昼休憩のピークタイムで賑わってはいたが、他に空席がない訳でもなかった。眞崎は不審そうに眉を(ひそ)める。  「こないだご挨拶したの、覚えてますー?」  小首を傾げて尋ねられ、ようやくその女が誰だったかを思い出した。  一緒に昼食を摂っていた同僚の篠田が、小声で「誰?」問い掛けてくる。  「麻帆の会社の新人。確か」  眞崎は中島に目も()らずに、篠田に向かって答えた。  「良かったらランチご一緒しませんー?」  「しない。もう食べ終わったよ」  「おい、眞崎…」  素っ気なく答える眞崎を、篠田が焦ったように小声で(たしな)める。  あからさまに突き放す態度の眞崎に、中島は少し面食らったような顔をしたが、すぐに気を取り直してにっこりと笑った。  「えー、せっかくお話し出来ると思ったのにぃ」  「…麻帆は?」  「まほ?」  「八田」  「八田さんですかぁ?まだ仕事してましたよー?」  「そう。ならこれ渡しといて」  眞崎はポケットから未開封のガムを取り出して、中島の前に放った。  「頑張れって伝えて」  「……優しいんですねー。かっこいいー」  少しの沈黙の後、にこっと微笑んだ中島はそれを鞄の中にしまった。  「篠田。俺、先に出るわ」  眞崎は無表情でそう言って席を立った。挨拶も済ませていない初対面の相手を押し付けられた篠田は、少し恨みがましい目つきをしたが、渋々頷く。  「またゆっくりお話しましょうねー」  中島はふんわりと笑って、小さく手を振っている。  目を伏せて返事もせずに、眞崎は空の食器を乗せたトレイを持って立ち去った。 □□□□□  その夜も深夜まで残業していた八田を、眞崎は車で迎えた。  「ごめんねぇ、こんな遅い時間に迎えに来てもらっちゃって…」  八田はへばり気味で助手席の窓に頭を(もた)せ掛けた。  「いいよ。明日夜勤だから半日休みみたいなもんだしな」  八田の仕事が落ち着くのを待っていては、週末以外会える見込みがない。疲れている時ほど甘えたがる八田を迎えてやりたくて、今日は帰宅してもアルコールを入れずに待って、八田の退勤に合わせて迎えに来た。  「眞崎の家の方がちょっと会社近いし、ほんと助かる。ありがと」  ほんの十五分程度の差だったが、それすら今の八田には有り難い。  「飯まだだろ?」  「ううん、今日は仕事しながら食べたの」  「大したもんじゃないんだろ」  「おにぎりとサンドイッチ。お腹は満たされた」  くたっと笑う八田の頭を、手を伸ばして眞崎が撫でる。  「そんなんで満足した?ドライブスルーで何か買うか」  「鬼のようにクリームが乗ったフラッペが飲みたいです」  「はいよ」  そう言い出すだろうと思って、あらかじめ道順も考えてあった。五分ほど行ったところにあるコーヒーチェーンで買った大きなサイズのドリンクを、八田はほくほくと嬉しそうに飲む。  「あっ、そういえばね。新しく入る人決まったんだって。明後日からすぐに入れる派遣さんで、今までのお仕事実績もスキルも保障付きだから、今度は安心みたいだよ」  八田の明るい笑顔に、眞崎の表情も(やわ)らぐ。  「そっか、良かったな。なぁ麻帆」  「んー?」  「ガム持ってる?」  「持ってないなぁ。でも眞崎の買い置き、いつもここに入ってるよね?もうないの?」  八田はそう言ってダッシュボードを開ける。ガムが大量に入ったプラスチックボトルはいつも通り備えてあった。  「いっぱい入ってるよ?これでいい?」  「うん」  眞崎が薄く笑うと、八田は不思議そうに首を傾げ、一粒取り出して眞崎の口に押し込んだ。     □□□□□  この会社は眞崎の会社より、終業時間が三十分早い。  待ち伏せするのは簡単だ。定時に上がって、エントランス付近で待ち続けるだけ。  ビルから出てくる人間からは死角になる位置で、中島は眞崎を待った。  思ったよりも早く、眞崎は姿を現した。定時よりも前の時間だ。いつものラフな仕事着ではなく、スーツを着ている。  すぐに声を掛けずに、少し離れて後を追う。  同じビル内に公認の彼女がいるというのに、その付近で他の女の誘いに乗るほど、馬鹿な男でもないだろう。最寄り駅を離れてから声を掛けた方が得策だ。  地下鉄で二駅進んだ後に乗り換えて、さらに三駅。そこで眞崎は降車した。改札付近で立ち止まり、周囲に視線を配っている。  誰かと待ち合わせているのだろうか。  そう考えた時に、眞崎はさっと歩き出して、一人の女性に声を掛けた。  会釈をする眞崎に笑い掛ける女性。三十そこそこだろうか、眞崎より少し歳上に見える。だが、艶のある美人だった。  (なんだ)  中島は密かに肩を竦めた。  同僚の前では、彼女一筋みたいな態度で自分を虚仮(こけ)にしておいて、既に他の相手がいるんじゃないか。  まぁいい。これはこれで使えるネタだ。  夜の街に歩き出した二人の後を、中島はさらに追って歩いた。 □□□□□  夜勤を終えた眞崎はその日、午後から出社した。  朝方に仕事を終えて帰宅した数時間後の出勤だから、普段より睡眠時間は短い。だが体力はあるし、ほんの数時間の勤務だからさほど辛くはない。  会社の裏の駐車場に車を停めて降りたところで、眞崎は女の声に呼び止められた。  「眞崎さーん」  小走りに駆け寄ってきたのは中島だった。  「休憩終わったとこですかー?私も今ランチから戻るところで。駅の向こうのイタリアン行ってたんですよー。コースが結構よくて。今度行きません?」  「飯終わったんなら、早く仕事戻った方がいいんじゃねぇの」  車の後部座席に乗せた荷物から今日使う資料を選んでいる眞崎に、中島が(まと)わりつく。  「もう、つれないなぁ。せっかくかっこいいのに」  眞崎はそこで初めて、ちらりと中島に目をやった。むらなく染められた栗色の髪。ゆるく巻いたその毛先が、ふわふわと眞崎の腕をくすぐる。  不思議なものだ。同じような毛質なのに、八田のそれが触れた時と全然気分が違う。あの、いつまでも触っていたくなるような柔らかい髪。それが肌に触れると、それだけで抱き寄せたい衝動に駆られて困る。だが今はただただ不快で、腕を引く。  「俺は無駄だぞ。八田がいる」  眞崎は短くそう言った。それで通じるはずだった。だが中島は首を傾けて、無垢な笑みを浮かべるだけだった。  「彼女がいるからって、好きな気持ちは変えられないじゃないですか」  「好きって何が?顔?」  「えー…一目惚れって言ったら、まぁそうですけどぉ」  中島ははにかむように瞼を伏せたが、眞崎はこちらに目もくれない。その不機嫌そうな様子に、中島もまた苛立つ。  「…ていうか、八田さんこそ眞崎さんの顔目当てじゃないですか?いつも会社で、意地悪だけど顔がいいとか自慢話しててぇ。なんかそればっかり、みたいな」  眞崎ははっと皮肉気に笑った。  「そうだな。あいつは前から俺の顔の話ばっかりだよ」  「そういうのひどいと思いません?」  「思うよ。あいつ、俺がもっと不細工だったらもっと早く素直になってもっとすんなり付き合ってたとか言いやがる」  眞崎はひんやりと笑みを浮かべたまま、初めて中島と目を合わせた。  「何を言っても無駄だよ。俺があんたとどうこうなる事はない」  「…そんな事言って。八田さんだけで満足してる訳じゃないんでしょ?」  怪訝そうに眉を顰めた眞崎の目に入るように、中島はスマホの画面をすっと差し出す。  「眞崎さんが女の人と歩いてるの、見ちゃった」  否応なく視界に入った画像に、眞崎は片眉を上げた。綺麗に着飾った歳上らしい女性とスーツ姿の眞崎が、肩を並べて夜の街を歩いている。  「こんな綺麗な格好して、どこ行ってたんですか?」  中島はにっこりと笑って、スマホを持つ手を下ろした。  「あんたに話す義理ある?」  車のドアをばんと閉めると、眞崎は会社に向かって歩き出した。だが中島は、ぐっと眞崎の服の裾を掴んで引き留める。  「待ってくださいよ。これだけじゃないし。本命は八田さんなんですよね?そしたらこっちは見られたくないんじゃないですか?」  そう言って中島が見せたのは、都心にある高級ホテルのエントランスに入って行こうとする、眞崎と先程の女性の写真だった。  「…何。()けたの?」  眞崎は不快感を(あら)わに中島を(にら)んだ。先程の写真は会社の最寄駅近くの風景だったが、このホテルは数駅離れた場所にある。偶然同じルートで行動していたとは考えにくい。  「どこに行くのかなぁって、ちょっと気になって?」  中島はスマホを口元に当てて小首を傾げる。  「気色悪い奴だな」  「ひどーい。彼女さんの後輩ですよ?大事に扱って下さいよ。ていうか、私もこの写真の人みたいなポジションでいいんで、仲良くしましょうよ。今夜お酒でも飲みに行きません?」  「行かねぇ」  「そしたら八田さんにこの写真見せちゃいますけど」  「…別にいいけど、めんどくせぇな」  眞崎は深く溜息を吐いて、ポケットから自分のスマホを取り出した。ロックを解除して電話を掛ける。  「え、何…」  眞崎の唐突な行動に、中島は不審そうな顔をした。  「…あぁ麻帆。仕事中に悪い。うん、夜勤は問題なく終わった。今ちょっと話せる?──うん。あのさ、俺今お前んとこの新人に絡まれてんだけど。なんか俺を脅したいらしくて」  「───‼︎」  眞崎が冷たい目で睨むと、中島はぎくりと身を強張(こわば)らせた。  「いや、会社の駐車場。──あぁ。わかった」  短い会話の後で、眞崎は電話を切った。  「すぐ来るって」  「な…何で呼ぶの⁈」  「いや、状況説明しとこうと思っただけだけど。あいつが来るって言うからまぁいいかと」  眞崎は相変わらず中島をまともに見もしない。ただ掴まれた服の裾をくっと引き抜いて、埃でも付着したかのように軽く払っていた。  「───中島さん‼︎」  八田は本当にすぐ来た。猛烈な勢いで走ってきて、中島の前に仁王立ちになる。  「休憩は一時間だって何回言えばわかるの⁈みんなお昼も食べずに頑張ってるんだから、これ以上手ぇ掛けさせないで!ほら、戻るよ!」  眞崎がちらりと時計を見ると、一時を十分ほど過ぎたところだった。八田の会社は十二時から一時までが通常の休憩時間だった筈だ。  「…そんな事言ってる場合ですか?彼氏さん浮気してますよ?」  「脅しってそれ⁈彼氏が浮気しようが女装しようが仕事はするもんなんだよ!それに眞崎は女装なんかしない!」  「麻帆。そっちじゃねぇ」  「間違えた!浮気なんかしない!」  怒涛の勢いで叱りつける八田に多少退()きながらも、中島は印籠のように自分のスマホを突きつける。  「してるもん!ほら!」  美女と連れ立ってホテルに入ろうとする眞崎の写真を見て、八田はぱちぱちっと瞬きをした。くるっと首を回して、眞崎を見る。  「昨日の仕事?」  「そう」  「お疲れさま。何事もなくて良かった」  八田は中島に向き直り、再び眉を吊り上げる。  「──ほら。仕事だってさ。いいから早く戻る!細井さんめちゃくちゃ怒ってるよ⁈あの人普段は優しいけど、怒ると泣くほど怖いんだからね⁈」  「そ…そんな、女とホテル入る仕事なんてある⁈」  「あるの!眞崎の仕事は!」  「そんなのが仕事で済むんなら、誰と何してたってどうとでも言えるじゃん!中で何してるのかもわかんないのに、あっさり信じて馬鹿じゃないの⁈」  八田につられたのか、意図的に作っていた緩い口調も崩れ、中島は顔を歪めて叫ぶ。  だがその発言は、八田の(かん)(さわ)ったらしい。目に見えて熱くなっていた八田の温度が、一瞬にして氷点下まで下がった。  「…何してるかわかんなくたって、ちゃんと仕事してることくらいはわかる。そんな写真があってもなくても」  低い声で、八田は噛み締めるように言った。  「眞崎はいつだって、真剣に仕事をしてるよ。それを(おとし)めるようなことは言わないで」  普段眞崎と(いさか)う時は、子供のようにぎゃんぎゃん(やかま)しく吠えるばかりの八田の、いつもと違う(たたず)まい。静かに怒りを(たた)えるその姿を、眞崎は誰か別の人間を見るような遠い気持ちで眺める。  綺麗だな、と、そう思った。  「あんたも少しはやる気出してみな?仕事で得られるのは、お金だけじゃないと思うけど」  八田の厳しい眼差しに、中島は怯んだ顔で言葉を飲み込んだ。  「…偉そうにっ──」  「───中島ぁ‼︎」  吐き捨てた中島の言葉を掻き消すように、怒声が響いた。  細井だった。女性にしては大柄な身体から目一杯の怒気を噴出させて、大股で三人に近付いてくる。  「…やってくれたね」  低い声で呟いて中島を睨みつけた後、八田に視線を移す。  「ごめん八田ちゃん、眞崎君。この状況の事は後で詳しく聞くから、先に仕事の話をさせて」  細井は努めて抑えた口調で、ゆっくりと言った。  「八田ちゃん。今日納品予定だったナインスエイムさんの先行発売分、間違えて大阪店に届いてる」  「───え?」  八田の顔からさっと血の気が引いた。  「さっき関東統括の橋田さんから連絡あった。大阪の店舗から予定より早く届いてるけどまだ展開しない方がいいですよねって聞かれたって。すぐに大阪から転送して貰っても、明日の夕方着になる。明日の開店には間に合わない」  「え、そんな(はず)ない…。私何度も確認して…」  「わかってる。大事な商材だから私も一緒に確認したよね。正しい発注データも残ってる。だからなんで送付先変えたのか、工場に聞いたの。そしたら、昨日の出荷間際に送り先変更の連絡を貰ったから急いで変えたって」  細井はぎっと軋むような視線を中島に向けた。  「──中島。あんただってね」  「…何のことですかぁ?」  白けた顔で中島は肩を(すく)める。  「(とぼ)けても駄目。工場の担当さんに、その電話の着信履歴調べてもらった。会社の電話じゃなくて、自分の携帯使ったね?」  まだ中島には、工場と直接やり取りするような仕事は任せていない。他の用件で電話を掛ける必要もないはずだ。  シラを切ることも出来なくなった中島は、開き直って鼻で笑った。  「…別に、ちょっとモノが遅れたくらいで、誰かが死ぬ訳じゃあるまいし」  「───あんたねぇ‼︎」  激昂しかけた細井を止めたのは、八田だった。  「細井さん。それより商材が──」  「…うん。でももうどうしようもない。工場にも無理言って先行分だけ上げて貰ったものだから、他の納品分が上がるのは明後日なの。すぐに橋田さんに謝罪して、発売時間を遅らせて貰うしか───」  「そ…それは駄目!だって予約も何件も入ってる。催事スペースだって一画借りて…。朝から買いに来るお客さんだって、きっといっぱいいるのに───」  それは八田が、自分の精一杯で()った、大口の取引だった。  新参のメーカーである八田達の商品を、都内の旗艦店で、先方の定番を押し退けて、トップで置いて貰えるように。  何度も通って、入念に練った展開法の提案を、それでも何度も作り直して。魅力的な販促方法を考えて、ノベルティも工場に無理言って納得できるものを作った。休みの日にもリサーチを繰り返して、必要なら夜の九時でも十時でも早朝でも遠方の店舗にも、担当者を追いかけて打ち合わせに行って。商談を重ねる内に、担当者との信頼関係も築いた。  今回成功すれば、また年末年始商戦にも繋げることが出来る。全国で広く展開しているショップだから、ここでの実績は他の営業先にもいい売り文句になる。  それを、こんなことで台無しにするのか。  それは駄目だ。  絶対に駄目だ。  「───私、大阪に取りに行く」  八田は両の拳をぎゅっと握って、きっと細井を見つめた。  「今から行けば、商品引き取って夜には戻って来れる。もうお店には入れないけど、展開方法は橋田さんと何度も打ち合わせして、私も把握してます。明日開店前の入館許可さえ貰えれば、二時間もあれば設置できる。店舗スタッフに迷惑はかけません。開店にも充分間に合います」  「いや、時間的にはそうだけど──ノベルティ含めて、段ボール十箱以上あるんだよ。とても持って帰れる量じゃないよ。他に誰か行ければだけど、他の子も週末の通常販売の手配でいっぱいいっぱいだし…。私が…」  私が一緒に行ければ、という言葉を、細井はぐっと飲み込んだ。夫は出張中だし、他に子供を頼める相手などいない。深夜から早朝までかかる仕事を安請け合い出来ない。  「一人で持って帰ります!台車でも何でも持ってって、死ぬ気で運ぶ!」  八田の声は、ほとんど悲鳴に近かった。  「──麻帆。落ち着け」  ずっと黙って二人の遣り取りを聞いていた眞崎が、八田の肩をぐっと抱いて、低い声で言った。  「一時間だけ待ってろ。その間に、入館許可取るなり店に連絡入れるなり、今お前に出来ることを済ませとけ。俺はこれから商談だけど、一時間以内に終わらせる。そしたらすぐ、お前を大阪まで連れてってやるから」  『───え?』  八田と細井、それから中島。  三人の声が重なる。  「大阪なら車飛ばせば五、六時間だ。お前が一人で新幹線だのタクシーだの使ってモタモタ運ぶくらいなら、そっちの方が早い。明日の朝までに都内の店に持ってきゃいいんだろ?余裕だよ」  眞崎は本当に余裕そうに、にっと笑った。  「え…え?や、だって眞崎、自分の仕事が…」  「だから一時間で終わらすって。夜勤明けは本来休みなんだよ。外せない商談あるからそれだけ出るつもりで来たんだ。終わってすぐ帰っても何も問題ない」  「あ、そうなんだ…。…いや、ていうか、眞崎には何も関係ない話じゃん。そんな迷惑かけらんない…」  「関係なくねぇよ。この仕事に泥ついたらお前しばらくアホみてぇにへこむだろ。そっちの方が迷惑だって話だよ」  眞崎はするりと八田の腰に腕を回して、ぽんぽんと軽く叩いた。  「…さっき言ってた会社。お前が去年獲ったでかい取引先だろ。あの頃何度も聞かされたから覚えてるよ。この仕事だって、お前がどれだけ泥臭く頑張ってもぎ取ったものか、俺は知ってる。関係ないなんてつまんねぇこと言うな」  眞崎はばしっと八田の背中を叩いた。  「ほら、さっさと行きな。麻帆───お前は大丈夫だ。もうちょっとだけ、踏ん張れ」  去年獲った、でかい取引先。  確かにその頃、八田は浮かれて何度も話していた。でもその頃はまだ眞崎とはただの友達で、そんな些細な八田の自慢話を、ちゃんと聞いていて、覚えてくれていたなんて思わなかった。  八田の目頭がじんと熱くなる。  でも、泣いている場合じゃない。  「───わかった‼︎ありがとう‼︎」  八田は涙目で礼を言うと、だっと駆け出した。  「──眞崎君!ありがとう!よろしくお願いします!終わったら営業部全員でお礼参りに行くから!」  細井は八田を追って駆け出しながら、振り向きざまに眞崎に向かって叫んだ。  「礼は麻帆にして貰うから()らねぇです」  苦笑いで答えた眞崎の言葉を聞いていたのは、ぽつんと取り残された中島だけだった。  眞崎も商談に向かう為、さっさと歩き出す。  「───ばっっかみたい」  忌々し気に吐き捨てた中島の言葉は、(むな)しくその場に沈むだけだった。  誰からも存在を忘れられた彼女自身と、同じように。        
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