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 「こんなとこ連れ込んで悪かったな。俺も初めて降りる駅だからどこに何があるのかわかんなくてさ。お前が寝れそうなとこ、ここくらいしか目に入らなかった」  「ねぇ、出るって…あんた家どこ?」  眞崎が口にしたのは、ここから電車で一時間近くかかる駅名だった。八田の最寄駅とは逆だと言っていたのだ、そこからさらに反対方向に進んだから、だいぶ離れてしまっている。  「どうやって帰るの?」  「帰んねぇよ。タクシー捕まんなかったし。ネカフェとか探して適当に時間潰す」  「だって明日仕事でしょ?」  「一日くらい別に。多少はどっかしらで寝れるだろうし」  思わず八田は眞崎の服の裾を掴んだ。  「わ、私が出るよ、眞崎がここ泊まって」  八田が必死の形相で言うと、眞崎は蔑むような冷たい目を向けてくる。  「お前……ふざけんなよ。俺の苦労を水の泡にする気か?」  何日も張って終電まで待ってようやく不審者を追い払ったのに、真夜中の街に女一人放り出す間抜けがどこにいる。  「じゃ、じゃあ一緒にここで。ベッド広いから大丈夫だよ」  「アホか。やれもしない女と同じベッドで寝ろって?俺がそんな修行僧みたいなメンタル持ってるように見えるか?お前が横で寝てりゃどれだけベッドが広くても普通に手ぇ出すわ」  「や。そ、それは…。だ…だって…だって…」  八田はほとほと困り果てた様子で、顔を赤くして眞崎の服を掴んだまま(うつむ)く。  助けてもらって、帰れなくさせて、寝床まで用意してもらって、行く当てもないまま追い出すなど。あまりに申し訳なくて立つ瀬がない。そのくらいならいっそ──。  「その…行かないで…欲しくて」  「だから手ぇ出すっつってんだろ」  「…それは…」  しどろもどろになる八田を眞崎はしばらく眺めていたが、疲れたように深い溜息を吐いて八田の前に座り直し、顔を覗き込む。近付いた距離に、八田の心臓がどきんと跳ねた。  「──い──痛い痛い痛い!」  両手でおもいきり頬を左右に引っ張られ、八田は悲鳴をあげた。  「──それだからお前は、駄目な男にばっか引っ掛かんだ」  「あ…あたしは悪くないってさっき言ったじゃん!」  「今回の事じゃねぇよ、今までの男の事だよ」  八田は黙った。簡単に何かあってもいい、などと言ってしまいそうになる貞操観念の緩さに、気付かれて、蔑まれたのだろうか。解放された頬を両手でさすりながら、気まずそうに目を泳がせる。  「ちょっと親切にされたくらいで(ほだ)されてんなよ。ちゃんと惚れて惚れられるまでは死んでもやんねぇぞって、勿体(もったい)ぶってろ。こういう時は、ありがとうさっさと帰ってね、でいいんだよ。この程度の義理で身体(からだ)差し出さなきゃなんねぇほど、お前の価値は低くない」  眞崎の鋭い目が、まっすぐに八田を見ている。そこにひとつの嘘もないことが嫌というほど伝わってきて、八田はまたぼたぼたと涙をこぼした。  「また泣く…」  「…ごめん。もうだめだ今日は……どっか壊れた…」   ほとんど放心状態で、八田は流れるままに涙を落とした。しばらくの間、眞崎は黙って、次々に染みを作る床を見ていた。  「……わかったよ。俺がいてお前の気が済むなら、いる。ベッドはお前使え。俺はソファで寝るから」  「だめだよ、これちっちゃいじゃん。私がこっちで寝る…」  「うるせぇな、ちょっとは言う事聞けよ。俺がどんだけ譲歩してやってると思ってんだ。今日だけだぞこんなの。風呂溜めてきてやるからそれ食って待ってろ。そんで風呂入って速やかに寝ろ」  ついでに俺もシャワー浴びてくる、と言って、眞崎は備え付けのタオルとガウンを持ってさっさと風呂場に行ってしまった。  八田はまだじわりじわりと涙を滲ませながら、チョコレートの箱を開けて口に詰め込んだ。少し溶けたやわらかい塊が、舌の上で溶けていく。味なんて今はわからないけど、多分それはすごく甘い。  顔がいいのを笠に着て、口が悪くて遠慮がなくて、いつも人を揶揄(からか)って、口を開けば馬鹿だのアホだの失礼な事ばかり。甘やかすような言葉のひとつも掛けてくれないのに。どうしてだろう。抱き締めて頭を撫でられるよりずっと、優しくされている気がした。  「眞崎のくせに」  ぽつりと呟くと、また涙が出てきた。口の中に入り込んできた涙が舌に残るチョコレートと混ざって、甘くてしょっぱい、おかしな味になった。
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