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 八田の会社には車がないので、基本的に営業回りは電車と徒歩になる。  夏は日焼けに悩まされるが、歩くのが好きな八田にとって、移動時間はPCとにらめっこのデスクワークよりずっと気楽で、息抜き出来る時間だった。  日も傾き始めた夕方に、その日のスケジュールを全てこなして会社に戻る時間は、特にいい。今日は少し長引いて、定時も過ぎてしまったけれど。  駅に着いて会社に向かう途中、少し先を歩く見知った顔を見付けて、八田は叫ぶ。  「おーい!眞崎ー!」  名を呼ばれた眞崎は、驚いた顔で振り向いて足を止める。  八田は大きく手を振って駆け寄り、すぐに追いついた。  「眞崎も外仕事だった?私も今から会社戻るとこなんだ」  「あぁ…うん」  「スーツ珍しいね。いつもシャツだけか、ワークブルゾンみたいの着てるもんね。会社のやつ」  「…あぁ、まぁ」  「あれ、なんかタイミング悪かった?びっくりしてない?」  普段は顔を合わせるなり矢継(やつ)(ばや)に悪態を繰り出してくるのに、歯切れが悪い。  「いや、タイミングは別に…。でかい声出すから、ちょっと引いてた」  ふいと顔を()らして、眞崎はゆっくり歩き出す。  引く程でかい声で話しかけてすみませんね、と八田はむくれて、横に並んで歩き出す。  「そういえば来週の飲み会さ、眞崎も行くの?」  「飲み会?」  「そっちの会社で飲み会あるんでしょ?有希ちゃん伝手(づて)に宇堂さんから誘われてさ、私達も参加するんだ」  「………マジか」  「他の女の子も誘っていいって言われてたから声掛けてるんだけど、行きたいって子結構いてさ。眞崎が来るなら行くって子も───うおっ」  話の途中で、八田が突然、前方につんのめった。横にいた眞崎が咄嗟(とっさ)に腕を掴んで支える。  「び、びっくりしたぁ」  「俺もだよ。何でこんな何もないとこで(つまず)けるんだよ」  「ヒールが()まった…」  舗装された道路のひび割れの隙間に、ピンヒールが見事に食い込んでいた。  八田は足をぐいぐい持ち上げて引き抜こうとするが、なかなか取れない。  脱いで、両手で引き抜こう。  そう思って靴から足を引き抜いた矢先、八田の腕を掴んだままの眞崎が、すっと(かが)んで靴を取り上げた。  「ほら」  軽く汚れを払って、すぐに履ける場所にこつんと置いてくれる。思いがけず丁寧なその仕草に、八田は驚いた。  「あ…ありがとう」  凶器みてぇな靴だな、と立ち上がった眞崎は肩を(すく)めた。  その顔を、八田がじっと見つめる。  「なんだよ」  「初めて親切にされて戸惑ってる」  八田の正直な感想に、眞崎は一瞬面食らったような顔をする。  だが、すぐにいつもの嫌味っぽい笑みを浮かべた。  「こんなんで戸惑うなんて、お前はかわいそうな人生を送ってきたんだな」  「いやっ、親切を受けたことがない訳じゃないよ⁈眞崎から親切にされたっていうのがびっくりだっただけ!」  再び歩き出した眞崎に慌ててついて行きながら、八田は大きな声で言う。  失礼な事を言っているのに、眞崎はいつものように言い返してくることもなく、真顔で呟いた。  「…さっき、俺もびっくりした」  「え、何?さっきっていつ?」  「お前に声掛けられた時。外で会って、こっちが気付いてもないのに近寄ってくるって思わなかった」  「え、だって…。凄い知ってる人なのに気付かない振りするの、気持ち悪いじゃん」  例え顔を合わせる度に(いさか)うような仲でも、全くの他人という訳ではない。八田には普通のことだったが、眞崎にとっては驚くほどの事なのだろうか。  「『凄い』知ってる人?」  眞崎は可笑(おか)しそうに口元だけで笑う。  その横顔を見て、やっぱり顔だけはいいな、と八田は改めて思った。  ふと、その時。  眞崎の肩越しに見えるカフェに入っていった人物の後ろ姿に、八田の意識が引っ掛かった。会社の三軒手前の、八田もよく利用するチェーン店だ。  「何、どした」  急に足を止めた八田に、眞崎が問う。  「ううん。ちょっと知ってる人かと思ったんだけど…。気のせいだと思う」  一瞬、原田かと思った。  だが、ドアが閉まる寸前にほんの少し目の端に映っただけだ。そんなに特徴のある風貌ではなかったし、似たような人は沢山いる。そもそも合コンで一度顔を合わせただけだ。記憶だって怪しい。  気のせいだろう。そう思って、八田は視線を戻した。  「ごめん。行こ」  眞崎は少し怪訝(けげん)そうな顔で八田を見下ろす。  社のビルに入ると、エレベーターはちょうど一階に停まっていた。  「そうそう、それで飲み会は?」  「あ?あぁ…うん、行くよ」  「そっか。ならまた人数増えるな。じゃあまたその時ね!」  三階でドアが開くと、八田は手を振って足早に去って行った。  一気に静かになったエレベーターの壁にもたれて、眞崎は小さく嘆息した。 □□□□□□  翌週の飲み会は、何かのパーティーかと思うほどの大盛況となった。  八田が数人に声を掛けると、あれよあれよと言う間に話が拡がり、自ら参加を希望する者も出てきて、結局八田達三人を含めて二十人近い人が集まった。親睦を深めたがっているのはこちらの社員も同じだったらしい。  さすがに多過ぎて迷惑だろうかと宇堂に尋ねたが、全然問題ない、多ければ多いほど歓迎されると、逆に礼を言われた。  女性の数が増えるのに比例して、男性の参加者も増えたらしい。幹事の男性は慌てて貸切に出来る店を探したそうだ。  テーブルがいくつも並び、カウンター席もある。ビュッフェ形式の料理と飲み放題の酒の種類の多さに、八田の心が浮き立った。  席を確保し、有希や松下と連れ立って料理を皿に取ったところで、少し遅れていた宇堂と眞崎が店に入ってくる。  「あ、宇堂さん!」  目敏(めざと)く見つけた有希が声を掛けると、二人は真っ直ぐこちらへ向かってくる。  「遅れてすみません」  「ううん、私達も来たばっかりです。宇堂さんの席も取ってありますよ」  宇堂は有希が持つ皿を引き取って持ってやり、席に案内されていく。有希が宇堂しか目に入っていないのはいつものことだ。  残された眞崎が空席を探すように視線を動かしているのを見て、八田が声を掛ける。  「眞崎の分の椅子も取ってあるよ。四人掛けのテーブルだからちょっと狭いけど、いいよね?大人数席埋まっちゃってたんだよね」  眞崎は軽く目を見開いて、八田を見下ろした。  「取っといたって、なんで?」  「幹事の人が、眞崎も宇堂さんと一緒に来るって言ってたから」  「いや、じゃなくて。四人席なら宇堂さんの分だけでいいだろ」  「いやそっちこそ何で?二人で来るのわかってて一人分しか用意しないの変じゃん」  「あぁそう…」  眞崎は鈍い返事をして、小さく息を吐いた。  「あ、もしかして余計だった?他の女の子と話したければ違う席行っていいよ?話したい子いたら紹介するし」  眞崎の反応を落胆だと受け止めた八田が気を利かせて言うと、眞崎は眉を吊り上げて、ガッと八田の頭を鷲掴みにした。  「ちょっ…やめ!料理が!こぼれる!」  八田は慌てるが、眞崎は皿を奪うように取り上げて、()わった目で八田を睨んだ。  「お前に世話焼いて貰うほど困ってねぇんだよ。生意気いうな」  「わかったわかった!」  眞崎は八田の頭を離すと、皿を持ったまま宇堂と有希が座る席に向かった。  「もう。何であんな怒りっぽいんだろ。あいつの怒りスイッチ全然わかんない」  皿を奪われて空いた手で、乱れた髪を整えながらぶつぶつ言う。  その一部始終を見守っていた松下は、ふふんと面白そうに笑った。  「いや、いっそもう可愛いじゃん」  「誰が?もしかして眞崎が⁈松下、あんたどういう感性してんの」  「あ、好意とかではないから勘違いしないでね」  「しないけど。かわいくはない!」  「はいはい」  松下にいなされた八田は、不満そうに頬を膨らませた。  …だからぁ、そんな大袈裟な事じゃないんだよー。  トイレに行こうとした眞崎の耳に、何やら軽く揉めているような女の声が聞こえてきた。  死角になっている壁の陰で、足を止める。  ちらりと目に入った、こちらに背を向けている後ろ姿は、八田のものだった。  「あたし泥酔した振りするから。八田は眞崎君に介抱手伝ってって言って?そんでタイミング見て消えてもらって」  「その後どうすんの?」  「えーと、帰れない状況作って、お持ち帰りして、ホテルになだれ込む。後は色仕掛けで」  「ほら。だから嫌だって言ったの。そんなの私もグルで騙してるみたいなもんじゃん。二人で話したいならそう伝えるから、それでいいでしょ?」  「そうじゃなくてー、人のいないところで、ね?」  「人のいないとこで二人で話したがってるって伝えるよ」  「そんなの露骨じゃん!」  「露骨の何がいけないの。姑息よりマシでしょ」  「姑息って。キツい言い方しないでよ、もう。八田は大袈裟だよ」  相手の女は()れたように、少し八田を責めるような口調になる。  「ていうかね、そもそもお話したい訳じゃないの。ちょっと思い出作りたいだけなの。そんなの何て言えばいいかわかんないもん」  「そのまま言えばいいじゃん。最後だから、一回でいいからお願いしますって」  八田がきっぱりと言うと、相手の女は「えぇー?」と、裏返った声を上げる。  「そんなの言える訳ないじゃん!」  「もっちゃん自身が言えないような事には、私も協力出来ないよ。そんなの眞崎だっていい気分しないでしょ?善意で介抱手伝って、嘘で連れ込まれて、とかさ。友達…とは言わないけど、私だってあいつと知らない仲じゃないんだから、()めるような真似できないよ」  きっぱりと拒否する八田に、もっちゃんと呼ばれる女は、声に少し苛立ちを含み始める。  「だって眞崎くんってそういう人なんでしょ?色んな女の人と遊び歩いてるって。手当たり次第って聞いたもん。あたしがその相手の一人になったって、別に何も問題ないじゃん」  「問題ないかどうかは、私らじゃなくて眞崎が決めることでしょ…」  八田は少し疲れたように、はぁと溜息を吐いた。  「眞崎がどういう人でも関係ないよ。私がそういうのに加担したくないの。協力出来なくてごめん」  率直に謝ると、相手はぐっと黙った。   その隙をついて、八田が言い募る。  「…それに、そういうやり方が上手くいくとも思えないんだよね。私もそんなあいつのことよく知ってる訳じゃないから、本当のところはわかんないけど…。あいつ勘がいいから、そんな小細工すぐ見抜いちゃうと思うんだよね。それに地雷だらけですぐ怒るし。悪口のボキャブラリー滅茶苦茶多いし。騙そうなんてしたら、介抱とか誘いに乗るどころか、泣くほどボロクソに罵られて終わるんじゃないかなって。人間以下の扱い受けて、下手したら踏まれるか蹴られるくらいの事も起こるんじゃないかなって。そんな事になったら最悪じゃん。私はもっちゃんの身も心配してるんだよ」  「そ、そうなの…?」  「でもちゃんと言えば、そこまで酷いことにはならないから。上手く口説ければいい思い出作れるし、駄目でも普通に断られるだけだから。そっちの方がいいと思う」  「ん、んー…?そうー…?」  「そう。絶対そう」  その辺りで眞崎はトイレを諦めて、席に戻った。  しばらくすると、八田と長い髪にゆるっとしたパーマを当てた女が、笑い合いながらトイレから出て来た。八田が激励するようにその女の背を叩くと、彼女もへにゃっと笑って小さく頷き、自分の席に戻っていく。  戻ってきた八田は、眞崎の顔を見るなり早速話を切り出した。ちょうど他の三人が料理を取りに席を立っていて、タイミングも良かったのだろう。  「ね、眞崎。ちょっとお願いがあるんだけど、後でさー…」  「もっちゃんからのお願い?」  話を(さえぎ)って眞崎が聞くと、八田は(ひる)んだ様子で固まった。  「話聞くくらいは聞いてやるけど、二分で済ませろって言っといて」  「…え、もしかして聞いてた?どこからどこまで?」  「もっちゃんの計画から、失敗したら罵られて豚扱いされて踏んだり蹴ったりするかもってところまで」  「おおぅ…」  話の九割方だった。八田はテーブルに両肘を突いて頭を抱える。  「何、一回でいいからヤりたいとかそういう話?」  「…まぁ悪い言い方をすればそうなんだけど…。いや、でも違うんだよ。もっちゃんも別にそんな悪女とかビッチな訳じゃなくてね?あの子来月仕事辞めて実家に帰ることになってて。実家が地主だか地方の有力者だかで、お見合いして結婚することになってるらしくてね?その前に一回でいいから、こう、好きな人とめくるめく一夜を楽しんでみたいって、どっちかって言うとロマンスな動機で…」  「何ひとつ違わないじゃねぇかよ」  本当は好きな人、ではなく、自分好みのイケメンと、と言っていたのだが、多少の脚色は許されるだろう。好意がある方がまだマシな気がしてアレンジしたのだが、眞崎にはどちらでも変わらないのかもしれない。ばっさりと切り捨てられた。  「後でもっちゃんに言っとくよ。つまんねぇ小細工より土下座でもされた方がまだやる気出るって」  「いやっ…それはちょっと」  「嘘だよ。ちゃんとやんわり断っとく」  「あ、やっぱり断るんだ…」  「残念そうにしてんじゃねぇぞ」  眞崎に睨まれ、八田は肩を落とした。  「…や、別に残念とは思ってないけど。なんかごめんね」  「何でお前が謝んの」  「いや、まぁその」  一方的で勝手なお膳立てを計画されそうになったなど、決していい気分はしないだろう。  トイレの前だなんて誰に聞かれるかわからない場所で話すことではなかった。トイレの前で話を始めたのも、もっちゃんではあるのだが。  「いいよ、よくある事だし。もっちゃんなんか可愛い方だ。なんなら薬盛ろうとする奴もいるからな」  「…いや、嘘でしょ」  「そんな嘘()いてどうすんだ。世の中お前みたいなストガイばっかじゃねぇんだよ」  「えぇー…」  眞崎は平然としていたが、八田には衝撃だった。薬を盛られるなど、ニュースで見るか、フィクションの中でしか起こらない出来事だと思っていた。  「…なんか…綺麗な顔してたりモテたりすんのも大変なんだね。有希ちゃんも色々嫌な思いしたみたいだし」  「別に普通だろ。お前だってモテなくてもしっかり苦労してんじゃねぇか」  「うるっさい」  いつもの悪態に、せっかく芽生えた(いた)わりの心はあっさり消える。  「…あ、そうだ。あと、踏むかもとか言ってごめんね。ちょっと大袈裟に言って、変な作戦は諦めさせたくて」  「そこ謝るとこか」  「いや、さすがに女の子相手に手…じゃないか、足か。出さないってわかってるけどさ…」  「お前のごめんねポイントはよくわかんねぇな」  「お互いさまでしょ。眞崎だってよくわかんないことで怒ったりびっくりしたりするじゃん」  口を尖らす八田を横目で見て、眞崎はふっと笑う。  その顔が思いがけず穏やかで優しかったので、八田は一瞬どきりとした。そういう柔らかい表情は、あまり見た事がなかったから。  「…なぁ、お前のさ。これ癖毛?パーマ?」  眞崎は突然話を変えて、手を伸ばして八田の髪をくるりと指に絡める。  頭を鷲掴みにされる事は何度もあったが、そんなふうに触れられるのも、初めてだった。  少し目を細めた眞崎の、揶揄する色のない静かな眼差し。  八田の心臓はどくりと脈打った。  「…癖毛…。矯正掛けないと、真っ直ぐになんないの」  肩より上でランダムにカットされた、ゆるく曲線を描く八田の髪は、扱いの難しさが悩みの種だ。  それを眞崎は今、上質な糸を手繰(たぐ)るような繊細な手付きで(もてあそ)んでいる。  「矯正?掛けなくていいよ」  眞崎は真顔で呟いて、鼻先が髪に触れるか触れないかの距離まで顔を近付けた。  「このままがいい」  耳元で小さく呟くと、ゆっくりと髪をほどいて、手を離した。  ちょうどそこに、こちらへ戻って来ようとする他の三人の姿が見えて、妙な雰囲気はぱっと空中分解した。  眞崎は今度こそトイレ、と言って席を立つ。  八田も皆に手を振って、笑顔で取り繕った。  だが、胸の内は荒れていた。  何だあれ、と八田は心の中で呟く。  (なんだあれ……‼︎)  恐ろしかった。あれが、薬を盛りたくなる程の色男の真髄か。八田など猛禽類に睨まれたヒヨコ、もしくはミミズに等しかった。ほんの一瞬、髪の一筋に触れられただけで、全身の毛穴が開いて逆立ち、どばっと冷汗が噴き出す。  膝の上でぎゅうっと拳を握り締めて、跳ね回る心臓を必死で抑え込んだ。  宴も後半に差しかかると、人の移動が目立ち始めた。  大勢が集まり、椅子が足りなくて立ち飲み屋状態になっているテーブルもある。その中心に八田がいた。  しばらくは残る四人で当初のままのテーブルを囲んでいたが、その内松下も他の席に引っ張られていってしまった。  宇堂はテーブルに片肘を突いて、横目で眞崎を見る。  「お前は他の席行かなくていいの」  「ここにいると他の女から声掛けられなくて楽なんです。邪魔してすんません」  先程から入れ替わり立ち替わり男達が顔を出しては、しばらく談笑し、また移動して行った。だが女性は今のところ一人も来ていない。  「そういえばこの席には女の人誰も来ないですね。男の人は結構来るのに」  有希が不思議そうに言うと、眞崎が答えた。  「成海さんが張った結界があるんで」  「結界?」  有希は首を傾げ、宇堂がはは、と笑った。付き合いで来ている有希や松下以外の女性にとっては、限りなく合コンに近い飲み会である。芸能人並の綺麗な顔をした公認の彼女がこの男は自分のものだと言わんばかりにべったり貼り付いているのだ。有希本人に自覚はなくとも威嚇に近い。誰も寄り付かないのも当然だった。  眞崎は平穏な空間のおこぼれに(あずか)ろうと、その陰に隠れている。  「お前がこういう場に来るの珍しいよな」  揶揄(からか)うように宇堂が言うと、眞崎は苦々しい顔をしてそっぽを向いた。  「宇堂さんもでしょ」  「俺はそりゃ繋ぎ役だから責任あるし来るよ。それにこんなとこにうちの子一人で放り込めないからさ。お前もそう思って来たのかと思ってた」  「何ですかそれ。最初はうちの会社の奴らだけって話だったじゃないすか。そん時に行くって言っちまっただけですよ」  「後で八田さんに聞いたろ?キャンセルしようと思えば出来ただろ」  「………」  何故この人らはこうも筒抜けなのか。眞崎は深い溜息を吐いた。  「あ…あの。私、八田さんのことで気になってる事があるんですけど…」  八田の名前が出たのをきっかけに、有希は少し躊躇(ためら)いながら宇堂の袖を引いた。  「八田さんのこと?何かあったんですか?」  穏やかに促され、有希は原田の件で知る限りのことを、訥々(とつとつ)と話した。  「──その時にブロックして、電話やメッセージは届かなくなったらしいんですけど…。何日か前、会社の近くでその人を見たそうなんです。それも一度だけじゃないみたいで。確実じゃないけど先週も似た人を見かけたような気がするって」  「──あぁ。あの時か」  眞崎が呟くと、宇堂が「何?」と聞き咎めた。  「俺多分、その時居合わせてます。外回りからの帰りに八田と会って。会社の近くで、知ってる奴がいたかもって、あいつ言ってた」  「どの辺り?」  「三軒隣のカフェの前です」  「あぁ。窓際の席なら通りが見張れるな」  宇堂が呟くと、有希は不安気な表情を深めた。  「八田さんその日、うちの会社の製品サンプルを皆に配ったらしいんです。使ってみて良かったら買ってねって。それを見たら職場なんて、すぐにわかっちゃう…」  うん、と宇堂は頷いた。  「知り合ったのが先週で、その後少なくとも週一か…。八田さんは何て?」  「八田さん自身はそこまで気にしてないんです。私が、八田さんを探しに来たんじゃないかって言っても、全然気に入られた様子はなかったからそういうんじゃないと思うって。ただ、もしかして偶然職場が近かったりするのかな、そうだったら嫌だなって、言ってて。だけど私はどうしても、心配で」  有希自身が、顔も知らない人間から付き纏い行為を受けたことが何度かある。八田のように楽観的にはなれないのは当然だった。何ひとつ心当たりや落ち度がなくとも標的にされる事があるということは、経験上よくわかっているのだ。  「この話だけで決めつけは出来ないけど、用心した方がいいのは間違いないですね。八田さんに注意喚起して送迎でもした方が楽だけど、普段通り動いてもらってた方が、相手の尻尾は掴みやすいかな」  宇堂は少し考えて、有希に尋ねる。  「八田さんは外回りのある営業ですよね?帰社しないで直帰って結構あります?」  「滅多にない筈です。社に戻って営業先で受けた仕事の確認や不在時の仕事の処理してから帰るので」  「そっか。直帰になる日のスケジュールとか、帰社予定や退勤のタイミングって有希さん把握出来ます?」  「営業さんの外出スケジュールは勤怠管理システムに書き込んであるので、直帰や帰社予定は把握出来ますね。退勤は…私は八田さんと部署が違うので、システムの出退勤時間の管理をマメに確認すれば何とか…。でもずっと注視してるのは無理だから、結構ズレちゃうかも」  ふうん、と軽く相槌を打って、宇堂はまた少し考える様子を見せた。  「わかりました。なら別の手で。八田さんって結構鞄替える人ですか?」  宇堂に問われた有希は、首を傾げて記憶を探る。  「仕事の時はいつも同じものを使ってたと思います」  宇堂は頷いて有希の鞄を手に取り、ストラップのように付いていた小さな機器を取り外す。  「有希さんのGPS、少しの間借ります。これを使いましょう」  「宇堂さん、彼女にGPS付けてんですか?」  眞崎は唖然とするが、二人とも平然としている。  「うん、万一に備えて。普段は使わないよ。彼女も了承してる」  「はい。私も持ってた方が安心なんです」  事件に巻き込まれた経験があるので心配なのはわかるが、それにしても過保護が過ぎる。小学生の子をもつ親のようではないか。  「このGPS、設定した機器から一定距離離れると通知が来る機能があるので。会社を離れるタイミングはこれで把握出来ます」  席に置いたままの八田の鞄に仕込む。鞄の中はちょうどいい具合に書類や商品サンプル、私物で雑然としていた。おそらく普段から頻繁に入れ替えたり整理している訳ではないだろう。  「いや、そんな勝手に」  眞崎は制止しようとしたが、宇堂はまるで意に介さない。  「八田さんに言ったら拒否されるだろ。楽観視してるなら見守らせても貰えないだろうし。まぁ悪用はしないから」  軽々しく言ってのける宇堂に、眞崎は言葉を失う。  「会社で正式に受けた依頼と違って出来ることは限られますが、帰社予定時刻以降、定時を過ぎてから通知が来たら退社したと判断して、追います。しばらくの間、地道に探ってみましょう。けど、俺一人だとちょっと厳しいな」  外出や来客があると都合が付けられない日もある。その隙に何か動きがあっては意味がない。  宇堂は眞崎に視線を合わせた。  「眞崎。お前もGPS繋いどいて」  「何で俺まで」  「嫌なら他の奴に頼もうか?」  宇堂が軽く顎を上げて、八田のいるテーブルを示す。  八田は先程とはまた別のメンバーと、別のテーブルを囲んでいた。  かなり酒が進んでいる様子で、隣に座る男が派手に笑いながら、ノースリーブの肩口から伸びる八田の剥き出しの腕に手を掛ける。  八田は怒った顔を作ってぺちんとその手をはたき、軽くあしらってまた笑顔に戻った。  その男も(わきま)えてそれ以上手を出す様子もなく、場は和やかに弾んだままだった。  「喜んで手を貸す奴が、いくらでもいると思うけど」  眞崎はちっと舌打ちをして、不貞腐(ふてくさ)れたように目を逸らす。  「確定事項じゃないからあんまり話を広げたくない。俺達の間で収めよう」  眞崎は無言で頷いて了承した。  「…全部、私の気にし過ぎだったらごめんなさい。でも、何かあってからじゃ…」  未だ不安の消えない顔で呟く有希の頭を、宇堂は優しく撫でた。  「うん。何もないならないで、その方がいいんです。心配しなくても大丈夫。俺達で出来る事はします」  恋人の頼もしい言葉に、有希は深い信頼を(もっ)て、強張った眉間を柔らかくほどく。  彼女と付き合い始める前、歳の近いこの上司は、こんな風に人目も(はばか)らず恋人を慈しむような男ではなかった。  そもそも恋愛に興味などなさそうな顔をしていたし、穏やかではあるがどこか飄々としていて掴みどころがなかった。決して感情を波立たせずに淡々と物事を進めていく仕事振りは、ストイックと言っても良かった。それは今も変わらない。  だが、彼女に向ける眼差しから滲み出る親愛の情は、この男に確かな充足感と人間味を加味している。  その変化は、何かに付けて冷笑的になりがちな眞崎の目から見ても、良いものであることはわかる。けど。  自分には無理だ。  誰かとこんなふうに、安定した確かな関係を築くことは。  八田の鞄を見るともなく眺めながら、眞崎はそんな事を考えていた。
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