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 八田はその日、同じ部署の同僚達と会社のすぐ近くで飲んでいた。  夕飯がてら軽く一杯という話だったが、思いの(ほか)盛り上がってしまって、結局終電間際の解散となった。  自宅の最寄駅に到着し、雪崩(なだ)れ出る乗客の波に乗ってゆっくり改札に向かっていると、壁に背を預けて立っている見知った顔を見付けた。  知り合いでなくても思わず目を留めてしまうような端正な顔立ちの男が、鋭い目付きでこちらを見ている。八田は反射的に手を振った。  「眞崎ー?何してんの?家、こっち方面だったっけ?」  人波から外れて近付くと、眞崎はぐいっと八田の腕を掴んだ。  「真逆だよ馬鹿」  あからさまに不機嫌な表情で吐き捨てるように言うと、八田の腕を引っ張って改札と違う方向に歩き出す。  「ちょ、ちょっと!そっちは乗り換えの──」  言い掛けた八田を、鋭い目付きで制止する。  「でかい声出すな。黙ってついてこい」  「だって終電…」  「お前、()けられてる」  「───え」  眞崎の低い声に、八田は息を飲んだ。  「こんな時間まで尾け回すような奴に自宅が割れるのはまずい。折り返すのも不自然だから乗り換えて誤魔化す。待ち合わせでもしてたような顔して付いて来い」  端的な説明に、八田は黙って従った。心当たりが全くない訳ではなかったからだ。  急に大人しくなった八田をちらりと見て、眞崎は腕を掴む力を緩めた。足早に乗り換えの改札を通り、ホームに入って来た地下鉄の電車に乗り込む。  最終電車だ。下り方向の車内は鮨詰め状態で、八田はぎゅうと眞崎の胸に押し付けられた。眞崎は好都合とばかりに顔を近付けて、八田に耳打ちする。  「知ってるな?」  窮屈な中でスマホを出して眞崎が見せたのは、原田の顔写真だった。八田は小さく息を飲んで、首を上下に動かす。  「お前目当てだっていう確証が欲しい。ここじゃ人目も多いしな。しばらく乗ったら適当な駅で降りて、誘い込む。そこでひっ捕まえるぞ」  「……私を尾けてどうするの?」  聞こえるか聞こえないかの小さな声で、八田が答える。  「知らねぇ。怪しい商売の話か愛の告白か相手にされねぇ腹いせに手篭(てご)めにでもしたいのか…いずれにしても(ろく)な事じゃないだろ」  小さな声の中にいくばくかの怒気が含まれているのを感じて、八田は身を強張らせた。  「でも…私、そんなの、されるようなこと、何も…」  眞崎が有希から事情を詳しく聞いている事を、八田は知らない。  「わかってる。お前のせいじゃない」  眞崎の声が少し和らいだ。  「…悪い。脅し過ぎた。そんな事にならないために俺がいるんだ。心配すんな」  真っ青になった八田を気の毒に思ったのだろうか。眞崎は耳元でそう言って、それきり黙った。  五駅ほど乗った後で、眞崎に手を引かれて降車した。こっそり背後を窺い見ると、同じ車輌の別の扉から、覚えのある男が降りるのが見えた。ぎゅっと心臓を絞られるような気持ちになる。  駅から離れて少し歩くと住宅街に入り、人気もなくなってきた。数メートル先にコンビニエンスストアの灯りが見える。  八田の手を引いて一歩先を歩いていた眞崎が、歩く速度を少し緩めて八田の横に並ぶ。少し屈んで八田の耳元に顔を近付けると、小さな声で伝えた。  「俺は一旦あのコンビニに入る。お前は外の、なるべく目立たない物陰で俺を待つフリしてろ。あいつが接触してきたらそこで捕まえてシメる」  「え──でも」  「お前には指一本触れさせない。心配ない」  不安気に眞崎を見上げる八田に、眞崎は「いいな」と念を押した。おずおずと頷いた八田の頭をぽんと一回叩いて、眞崎は早足でコンビニに入って行った。  眞崎が指差した建物の陰、店の灯りがあまり届かない場所で、八田は壁にもたれて立った。心細い思いを小石を爪先で(つつ)いて誤魔化していると、すぅと人影が近付いてきた。  「…八田さん」  (かす)れた声に八田は恐る恐る顔を上げる。少し癖のある長い前髪と、仕事帰りらしいスーツ姿。間違いなく原田だった。  「やっと、話す機会が出来た…。俺、何度も連絡したんだよ。会社の近くを探したりもしたし…。今日だってずっと、会おうと思って待ってたんだ。なぁ、あの男誰?付き合ってる奴いないって、あの時…」  半歩離れた場所から語りかける、責めるような声。八田はなけなしの気力を奮い立たせて、声を振り絞る。  「──関係あります?」  「…何だって?」  「たった一回会っただけで親しくもなってないあなたに、こんな風に尾け回される理由も問い質される理由も、私にはわからない」  「尾け回すだって?俺はただ、話を──」  原田が距離を詰め、八田に手を伸ばした瞬間。  二人の間をシュッと何かが横切って、空気を裂いた。ガン、と鈍い音がしてその物体が落下する。未開栓の缶ビールだった。  眞崎がその身で庇護するように、八田の前に立った。八田の視界を大きな背中が遮る。  「触んな」  低い声で言って、眞崎は至近距離に立つ原田を見下ろした。  「──こいつに何の用?」  自分より十センチ以上も大きい男に威圧され、原田は数歩後退(あとずさ)る。  「逃げんなよ。原田修平」  フルネームで名を呼ばれ、原田はびくっと肩をそびやかした。  「岐阜から出てきて都市銀の経理部だってな。手堅いお仕事してんじゃねぇか。それだけの頭があればわかるだろ?自分のやってる事が、バレたらまずい事だって」  「いやっ…!俺はそんなおかしな事するつもりは…。ただ一度話をしたくて…」  「今聞いてやるよ。こいつに何の話?」  「や、それは…」  じりじりと身を退()く原田に合わせて、眞崎が大股で詰め寄る。  「飲み会で一回会っただけだろ?一目惚れでもしたか?相手にされねぇから無理矢理ヤってやろうとでも思った?」  「ち、違う!危害を加えるつもりは…!」  「じゃあなんだよ。何回も会社周りを探してくれたって?終電間近まで出待ちとは随分ご苦労だな?」  ぽん、と原田の肩に軽く手を乗せて、眞崎は尻ポケットからスマホを出した。  「さっきのお前と八田との遣り取り、動画に撮ってるからな。お前の身元もわかってる。会社と実家とネット、どこに流して欲しい?それともこのまま警察直行するか?」  スマホから小さな音量で、先程の原田の声が流れる。  「きっちりカタ付けるまでは帰さねぇぞ」  整った鋭い顔立ちに目一杯の怒気を(たた)えた眞崎は、裏稼業の本職かと思うほどの迫力があった。凄まれた原田は、暗がりでもわかる程顔を真っ白にして、その場にくずおれる。  「……や…八田さんは…昔付き合ってた彼女に似てて…」  辿々(たどたど)しく語り出す原田を、眞崎は冷たい眼差しで見下ろした。  「…その子は、おっとりしてて家庭的で気が利いて…俺は当然結婚して、一緒に家庭を作るもんだと思ってた。なのに急に、他にも付き合ってる男がいるって、その男と結婚するって、別れ話された。俺、納得出来なくて彼女の家まで行ったけど、もう引っ越してて電話も通じなくて。──飲み会で八田さんに会った時、彼女に似てて、びっくりした。運命だと思った。でも言動が違い過ぎて…。思ったのと違うのが不満で、文句言った。でもその後、別人なんだから当たり前だよなって思い直したんだ。謝ってやり直そうと思ったんだけど、連絡取れないから。飲み会にいた他の面子(メンツ)に会社名聞いて、場所調べて、何とか会えないかって毎日探して…」  原田の語尾が弱々しく立ち消えていった。少し待ってから眞崎は深く溜息を吐いて、抑えた声で言った。  「こいつはお前の元カノじゃねぇ。わかってるな?」  「──はい…」  「やり直そうも何も、何一つ始まってもねぇだろ」  「──はい…」  「連絡取れないのは、こいつがお前に会いたくねぇって思ったからだ。そんな相手に尾け回されるのが女にとってどれだけ怖いか、お前にわかるか?」  立て、と眞崎に命じられ、原田は強面の教師に叱られた子供のように慌てて直立した。  「二度とこいつに関わるな。ちょっとでも顔見せてみろ──」  眞崎はさっき投げた缶ビールを拾うと、片手でぐしゃっと握りつぶした。勢いよく飛び散ったビールが原田の顔と服にかかる。  「──お前の手足をこの状態にして埋める。こいつの後ろには常に俺がいるからな。忘れんなよ」  ボタボタと雫を垂らすひしゃげた缶を原田に手渡した。  「───‼︎」  原田は無言で何度も頷いた。  眞崎がもう行けとばかりに手を閃かせると、脱兎のごとく走り去る。  原田の姿が見えなくなると、眞崎は八田に向き直った。始終黙って眞崎に成り行きを委ねていた八田は、まだ壁にもたれて立つのがやっとの状態だった。  「まぁこんなもんで大丈夫だろ。思ったより話が通じてよかったよ」  あれでか。どんな人生送ってきた、と普段なら突っ込んでいるところだろうが、今の八田にはそんな余裕はない。へなへなとその場にへたり込んだ。  「──帰るか」  とは言え深夜の一時過ぎだ。終電を過ぎてだいぶ経つ今、タクシーの姿も見えない。眞崎はスマホを取り出して何軒かのタクシー会社に電話を掛けたが、どこも呼び出し音が虚しく鳴るばかりで繋がらなかった。  「しょうがねぇな…」  眞崎は八田の腕を取り「立てるか」と聞いた。八田が弱々しく頷くと、八田の腕を引いたままゆっくりと歩き出す。  大通りに出て、少し裏手に見える場所に建つラブホテルに、迷いない足取りで入って行った。  「ね、ねぇ。ちょっと──」  さすがに焦る八田を、黙ってろ、と目で脅す。  慣れた様子で部屋を選び、エレベーターに乗って降りて部屋に入ったところで、ようやく眞崎は八田の手を放した。  「お前少し休んでろ。足にきてる」  眞崎の声はいつもより優しかった。よたよたと数歩進んだ後、カーペットの敷かれた床にまたへなへなとへたり込んでしまった八田を見下ろして、眞崎は呆れたようにこめかみに手を当てる。  「何でそんなとこ座るんだよ…」  「や、なんでだろ…」  八田はいつもの覇気をまるで失って、呆けたように答える。眞崎は深く息を吐いて、八田の正面に片膝をついて座った。  「大丈夫だよ。一応話はついたんだ。お前の自宅は割れてないし向こうの身元も押さえてある。嫌だろうけどあいつのブロック解除して登録も残しとけ。電話してきたり見掛けたり、少しでも接触してくる様子があったら、どんな些細な事でも俺に言え。変な遠慮するんじゃねぇぞ」  「う…うぇ…」  ぼろぼろと、八田の眼から涙が溢れた。  「な、なんで…」  ふえぇ、と嗚咽(おえつ)を漏らす八田を、眞崎は少し困ったような顔をして見守った。  「だからお前は悪くねぇよ。強いて言えば男運が悪い。お前が思う以上によくいるんだ。ああいう思い込み激しい勘違い野郎は」  八田はうぅっと唸ってさらに泣いた。  「ちがう。あんた、何であんなとこにいたの?」  「お前を尾けてる奴を尾けてた」  「何であいつのこと知ってたの?あいつが私をつけてるってことも…」  「兆候はあったんだろ?成海さんがお前を心配して、宇堂さんに相談したんだ。あいつの素性は宇堂さんが調べた」  「なんで助けてくれたの?」  「助けたがったのは成海さんで、ずっと動いてたのは宇堂さんだよ。今日は偶々(たまたま)宇堂さんが都合付かなくて、俺が代わっただけだ」  「ずっと…?」  いつからだろう。皆が動いてくれていたのは。本当は引っ掛かっていたのに、何でもないと楽観視して知らんぷりしていた自分の代わりに。  八田は黙り込んだ。聞きたい事はまだまだ山程あるような気がしたけれど、上手く言葉にならなかった。  黙ると、言葉の代わりに押し出されるように、またじわりと涙が滲み出てくる。眞崎はクローゼットからタオルを出してきて、声もなくぽろぽろ涙を落とす八田の頭にばさっと掛けた。  いつもは平然と頭を鷲掴みにしてきたり頬を引っ張って来たりするのに、密室で二人きりになった途端、指一本、掠めるほどにも触れない。労わる言葉は一つもなくとも、それが眞崎の優しさなのだと、今の八田には痛いほどわかった。  「…手、大丈夫?」  「大丈夫じゃない。ビールでベタベタする」  平然と右手を握ったり閉じたりしている眞崎に、八田の肩の力がふっと抜けた。  眞崎はふと立ち上がると、鞄を持って戻ってきた。  「ほら」  鞄の中からペットボトルの水とミルクティーとチョコレートの小箱を取り出して、放り出すように八田の前に並べた。前に有希から貰って眞崎に横取りされたものと、同じ銘柄だった。  「落ち着いたら俺は出るから。お前はここで寝てけよ」  「え」  八田はぽかんと口を開ける。  「こんなとこ連れ込んで悪かったな。俺も初めて降りる駅だからどこに何があるのかわかんなくてさ。お前が寝れそうなとこ、ここくらいしか目に入らなかった」  「ねぇ、出るって…あんた家どこ?」  眞崎が口にしたのは、ここから電車で一時間近くかかる駅名だった。八田の最寄駅とは逆だと言っていたのだ、そこからさらに反対方向に進んだから、だいぶ離れてしまっている。  「どうやって帰るの?」  「帰んねぇよ。タクシー捕まんなかったし。ネカフェとか探して適当に時間潰す」  「だって明日仕事でしょ?」  「一日くらい別に。多少はどっかしらで寝れるだろうし」  思わず八田は眞崎の服の裾を掴んだ。  「わ、私が出るよ、眞崎がここ泊まって」  八田が必死の形相で言うと、眞崎は蔑むような冷たい目を向けてくる。  「お前……ふざけんなよ。俺の苦労を水の泡にする気か?」  何日も張って終電まで待ってようやく不審者を追い払ったのに、真夜中の街に女一人放り出す間抜けがどこにいる。  「じゃ、じゃあ一緒にここで。ベッド広いから大丈夫だよ」  「アホか。やれもしない女と同じベッドで寝ろって?俺がそんな修行僧みたいなメンタル持ってるように見えるか?お前が横で寝てりゃどれだけベッドが広くても普通に手ぇ出すわ」  「や。そ、それは…。だ…だって…だって…」  八田はほとほと困り果てた様子で、顔を赤くして眞崎の服を掴んだまま(うつむ)く。  助けてもらって、帰れなくさせて、寝床まで用意してもらって、行く当てもないまま追い出すなど。あまりに申し訳なくて立つ瀬がない。そのくらいならいっそ──。  「その…行かないで…欲しくて」  「だから手ぇ出すっつってんだろ」  「…それは…」  しどろもどろになる八田を眞崎はしばらく眺めていたが、疲れたように深い溜息を吐いて八田の前に座り直し、顔を覗き込む。近付いた距離に、八田の心臓がどきんと跳ねた。  「──い──痛い痛い痛い!」  両手でおもいきり頬を左右に引っ張られ、八田は悲鳴をあげた。  「──それだからお前は、駄目な男にばっか引っ掛かんだ」  「あ…あたしは悪くないってさっき言ったじゃん!」  「今回の事じゃねぇよ、今までの男の事だよ」  八田は黙った。簡単に何かあってもいい、などと言ってしまいそうになる貞操観念の緩さに、気付かれて、蔑まれたのだろうか。解放された頬を両手でさすりながら、気まずそうに目を泳がせる。  「ちょっと親切にされたくらいで(ほだ)されてんなよ。ちゃんと惚れて惚れられるまでは死んでもやんねぇぞって、勿体(もったい)ぶってろ。こういう時は、ありがとうさっさと帰ってね、でいいんだよ。この程度の義理で身体(からだ)差し出さなきゃなんねぇほど、お前の価値は低くない」  眞崎の鋭い目が、まっすぐに八田を見ている。そこにひとつの嘘もないことが嫌というほど伝わってきて、八田はまたぼたぼたと涙をこぼした。  「また泣く…」  「…ごめん。もうだめだ今日は……どっか壊れた…」   ほとんど放心状態で、八田は流れるままに涙を落とした。しばらくの間、眞崎は黙って、次々に染みを作る床を見ていた。  「……わかったよ。俺がいてお前の気が済むなら、いる。ベッドはお前使え。俺はソファで寝るから」  「だめだよ、これちっちゃいじゃん。私がこっちで寝る…」  「うるせぇな、ちょっとは言う事聞けよ。俺がどんだけ譲歩してやってると思ってんだ。今日だけだぞこんなの。風呂溜めてきてやるからそれ食って待ってろ。そんで風呂入って速やかに寝ろ」  ついでに俺もシャワー浴びてくる、と言って、眞崎は備え付けのタオルとガウンを持ってさっさと風呂場に行ってしまった。  八田はまだじわりじわりと涙を滲ませながら、チョコレートの箱を開けて口に詰め込んだ。少し溶けたやわらかい塊が、舌の上で溶けていく。味なんて今はわからないけど、多分それはすごく甘い。  顔がいいのを笠に着て、口が悪くて遠慮がなくて、いつも人を揶揄(からか)って、口を開けば馬鹿だのアホだの失礼な事ばかり。甘やかすような言葉のひとつも掛けてくれないのに。どうしてだろう。抱き締めて頭を撫でられるよりずっと、優しくされている気がした。  「眞崎のくせに」  ぽつりと呟くと、また涙が出てきた。口の中に入り込んできた涙が舌に残るチョコレートと混ざって、甘くてしょっぱい、おかしな味になった。
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