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5
ちょうど翌週の週末、眞崎は八田との待ち合わせ場所である、会社のすぐ傍のカフェにいた。
呼び出したのは八田だ。エレベーターの前で出会した時に、少し時間が取れる日はないかと聞かれて、別にいつでも、と答えた。
だが、約束の時間を過ぎても八田はまだ来ない。考えてみたら、頻繁に顔を合わせるものの、お互いの連絡先も知らなかった。
本とタブレットを並べて眺めながら待っていると、約束の時間を二十分近く過ぎて、八田が店内に駆け込んでくる。やたらと重そうな大きな箱が入った紙袋を、必死に抱え持っている。
「ご、ごめん…!遅くなった」
どすんと荷物を床に置き、息を整えながら椅子を引く。眞崎は耳からワイヤレスのイヤホンを取り除いて、テーブルの端に置いた。
「帰り際に営業先から電話かかってきちゃって、長引いて…!」
テーブルに両肘突いて息を整える八田を、眞崎は呆れ顔で眺める。
「何そんな慌ててんだ。遅れたって言っても十分二十分だろ。いいよ、そのくらい」
え、と八田は目をぱちぱちさせた。何となく、少しでも待たせたら怒るタイプの人間だと思っていたのだ。
「勉強してたの?」
眞崎が鞄にしまおうとする参考書とタブレットを見て、八田は目を丸くする。
「うん」
「何の?」
「英語」
「え、なんで?」
「あんまり好きじゃねんだよ」
「好きじゃないのに何で勉強するの?」
「お前それ、同じ科目で毎回赤点取ってる奴の発想だぞ。苦手だからするんだろ。うちの会社海外からの客そこそこいるけど、対応できる奴そんなにいないから、ほとんど宇堂さん一人で回してんだよ。それで最近仕事量がエグい事になってて」
「眞崎が手伝うってこと?」
「前から手伝ってはいたんだけどまだまだフォローしてもらってるから。一人立ちしてぇの。得意な人員入れるとは言ってるけど、新しく来た奴に横から仕事取られるのもムカつくだろ」
面白くなさそうに言いながらイヤホンをケースにしまっている。あは、と八田は笑った。
「負けず嫌いな上に宇堂さんラブだ。何かアレだね、高校の部活とかで、憧れの先輩が新入部員に期待かけてると妬けちゃうからめっちゃ頑張って振り向かせようとする後輩みたいな…」
八田がけらけら笑うと、眞崎は不愉快そうに眉を歪めて「舐めたこと言ってんじゃねぇぞ」と凄んだ。案外真面目でかわいい一面を見てしまった直後だから、全く怖くない。
「それよりお前何だよ、その大荷物」
「あ、あのね、これ、こないだのお礼」
八田がテーブルの横から紙袋を両手で押して床を滑らせ、渡してくる。随分とがさつな贈呈だ。
「何これ。でかくね?」
お礼という名の嫌がらせか、と疑いたくなるような重量感だった。
「日本のご当地ビール二十四選。瓶だから重いんだよね」
「……お前これどうやって持ってきた?」
「会社に直配してもらったの。社内では台車使って、そこからは頑張って運んだ」
紙袋に入ってはいるものの、持ち歩くための袋としては用を足さない。引き上げたら間違いなく持ち手が切れるだろう。
「お前これさ、セレクト自体は悪くねぇけど、嵩張り過ぎだろ。持ち帰り辛い」
力はあるので重さはさほど気にならないが、通勤ラッシュで鮨詰め状態の電車内でこのボリュームの荷物を持ち歩くのは、相当の配慮を要する。
「うん、そうだろうと思ってね。家に配送しようかなって。でも住所知らないから、聞こうと思って呼び出したの」
書いて、と八田は鞄から配送伝票とボールペンを取り出した。
「それ、会社で会った時に聞けば良くね?」
「そうなんだけどさ。お礼送るから住所教えてって言っても断られそうだし。現物が目の前にあって自分で書いてもらうんなら、さすがに断られないかなって」
「……」
呆れたように黙り込んだ眞崎の隙を突いて、八田はばっと頭を下げた。
「その節はありがとう。本当に助かった…助かりました」
素直に頭を下げられて、眞崎は面食らったように、おう、と鈍い返事をした。八田はえへ、と少し照れ臭そうに笑う。
「顔見て、改めてお礼を言いたかったんだ。すっきりした」
「…その後は何もないの」
「うん。何にもないよ、おかげさまで」
「ならいいけどさ」
「ねぇ眞崎、ありがとね。宇堂さんと有希ちゃんに聞いたの。あの日、偶々って言ってたけど、そうじゃなかったんでしょ?何日も毎日、私について、会社出てから家着くまで見届けてくれてたって聞いたよ。大変だったよね」
あの一日でさえ、八田が終電まで飲んでいる間ずっと、待ってくれていたというのに。
「それにね、あの夜一緒にいてくれたのも、嬉しかった。私、引き留めちゃったでしょ。眞崎に悪いって思ったのもあったけど、多分、一人になるのが怖かったんだと思う。同じ部屋に眞崎がいてくれて、すごく安心した」
あの日、八田は寝付くのにだいぶ苦労した。けれど、少し離れた場所から聞こえる呼吸音。それが眞崎のものだと思うと、不思議なほど気持ちが凪いだ。何かが起きても、守ってくれる人がいる。それは驚くほどの安心感を八田に齎した。
「眞崎で良かった。ありがとう」
友達の恋人である宇堂には、とてもそんな事は言えない。眞崎だから遠慮なく引き留める事が出来たのだ。
八田が屈託のない笑顔を向けると、眞崎は目を逸らして「いいよ」と素っ気なく言った。
「礼はもう充分」
「はは、照れてる」
「うるせぇ」
眞崎は誤魔化すように紙袋の中を覗いた。ふと、箱の他にも何か入っている事に気付いて、手に取る。
「何だこれ」
ポップなアヒル柄の封筒だった。中を覗くと、紙幣が数枚入っている。
「あ、それはお礼じゃなくて借りてたお金」
「金貸した覚えないけど」
「ホテル代だよ。あの時眞崎いつのまにか払ってくれてたでしょ」
「いらねぇよ。俺が連れ込んだんだし」
「連れ込んだって…私の為じゃん。交通費だってかかったでしょ?」
「交通費なんて小銭だよ。とにかく金はいらねぇ」
「いや、受け取ってもらう」
八田は確固たる意志をもって、封筒を眞崎に押し付けた。しばらく押し問答をした後、眞崎は諦めてその封筒を受け取った。
「お前ほんとしつこいな。営業向いてるわ」
「やっとわかったか!結構成績いいんだからね⁈」
「使っちまうか」
「え?」
「今日暇なんだろ?飲み行こうぜ、今からこれで」
眞崎が封筒をひらひら振ってにやっと笑うと、八田は諸手を挙げて喜んだ。
「やった、奢りだ!」
「どっちか言ったらお前の奢りだけどな」
その前に荷物を出してしまおうと、眞崎に伝票を書かせる。書き込まれていく住所を覗き込みながら、八田が訊く。
「眞崎ってその辺りが地元なの?」
「いや、実家は九州。今住んでるとこは大学が近かったから、進学で上京した時住み始めてずっとそのまま」
「そうなんだ。九州いいね。美味しいものたくさんありそう。でも方言出ないね?」
「中二までこっちにいたからな。標準語の方がネイティブだよ。親父の仕事で引越して、他の家族はそのままあっちに住んでる。お前は?」
「静岡だよ。実家みかん農家なんだ。時期になったら山ほど届くからお裾分けするよ」
「農作業すげぇ似合いそうだなおまえ」
「どういう意味」
そういえば眞崎と二人でこういう雑談をする機会は、今まであまりなかった気がする。お互い顔を合わせれば悪態ついてばかりだったから。
「そういえば駅の裏に九州料理のお店あるよね。そこ行ってみる?」
「あー、行ったことあるけどあんまり美味くない。隣駅行けば美味いとこあるよ」
「そこ教えて!」
「おう。じゃあ行くか」
眞崎が席を立つと、八田は急いで立ち上がって、再びあの重たい荷物を持とうとする。
「アホか。腰やられるぞ。俺が持つからどいてろ」
「いや、お礼だから。労力を割くわけにはいかない」
「ほんとにアホだなお前は。こんなでかい荷物女に持たせて平然と隣歩けるかよ」
八田を押し退けて、箱をひょいと持ち上げる。
「ごめんね、重いの持たせて」
「大して重くねぇよ。嵩張るだけ」
申し訳なさそうに眉を下げる八田を見て、眞崎はふっと笑った。
(あれ)
こんな柔らかく笑う人だっただろうか。
いつももっと、口の端だけ持ち上げるような、皮肉っぽい笑い方をしていたような気がするのに。
何となく直視出来ず、気付かれないようにこっそりと目を逸らした。ちらりと目の端で窺い見る横顔は、悔しいがどう見ても、格好良い。八田がやっとの思いで十数メートルの距離を運んだ荷物を、易々と持ち上げる逞しさも。
近くにある運送屋の営業所に荷物を持ち込む。伝票の控を受け取った八田が眞崎に渡そうとするが「要らね。お前持ってて」とすげなく押し返される。
「いいの?眞崎ん家の住所書いてあるよ?」
個人情報を握られるのを敏感に嫌がりそうだと思っていたので、少し驚く。
「何、お前悪用すんの?」
「いや、しないけどさ」
「売るなよ」
冗談めかして言われたが、眞崎の住所ならお金を出してでも欲しいという人が実際にいそうな気がする。
ちょっとは信用されてるのかな。そう、ほんの少し嬉しい気持ちが湧いた。
「店な、隣駅っつってもこっち寄りだから歩いても十五分くらいだけど、一駅電車乗るのとどっちがいい?」
「歩く!」
じゃあそうするか、と歩き出した眞崎は、ちらりと八田の足元を見る。
「前から思ってたけど、お前よくそんな細いヒールでガツガツ歩けるな。歩き辛くねぇの」
「んー、もう慣れたかなぁ。歩くの好きだし平気だよ」
「チビの癖に歩くの速いもんな」
「失礼な。チビってほど小さくないよ、157センチある」
「チビだろ」
「眞崎が大きいからそう見えるだけでしょ。平均よりちょこっと低いだけだもん。眞崎、何センチ?」
「183」
「おー。やっぱでかいねー。宇堂さんもおんなじくらいだよね?そっちの会社、大きい人多いよねぇ。身長そんなでもなくてもガタイ良かったりさ。エレベーターで乗り合わせると圧迫感あるもん」
「まぁ仕事柄だな。…なぁ、お前さ」
「うん?」
「さっきの伝票に俺の電話番号書いてあるから、登録しとけよ。そんでこないだみたいな事またあったら、気のせいだろとかボケっとしてないで、すぐ言え。お前みたいなチビがそんな靴でフラフラ歩いてたら、その辺のヒョロい男でも簡単にどうとでも出来るんだからな」
雑な言葉遣い。以前だったら、八田は眉を跳ね上げて何か言い返していたと思う。でももうそれが、優しさを隠したがる眞崎の癖なのだとわかっていた。
「うん、そうする。ありがとね。あとでちゃんと連絡先交換しよ?」
にこにこしている八田に肩透かしを食らったように、おう、と眞崎は鈍く答える。
「何にやついてんだ」
「や、眞崎はさ、優しくするの下手だよね。もったいない。実はけっこういい奴なのに」
八田が顔を覗き込むと、眞崎は顰め面をして「うるせぇ」と言った。
□□□□□
地上三十六階、全面窓に沿うように配置されたテーブル席からは、地上とその向こうに広がる海が一望出来る。
「見晴らしいいですね」
寛いだ様子で窓の外を眺めている宇堂の言葉に、有希も頷いた。
「エレベーター停まっちゃったら、下まで降りるのが大変」
「大丈夫。抱えて行きますよ」
冗談のように宇堂は言うが、本当にそうしてくれるだろう。有希は笑って窓から離れた。
ベイサイドにある有名ホテル、高層階レストランでのランチビュッフェ。有希はそう言った所謂デートスポット的な場所にあまり興味がないようで、それとなく誘っても乗ってくる事はなかった。だが、今日は特別だ。八田が「色々お世話になったお礼」と言って二人分の招待券を贈ってくれたのだ。
「私は何にもしていないのに、こんなお礼を頂いちゃっていいのかな。八田さんいつもお金ないって言ってるのに」
余計な心配をする有希に、宇堂は苦笑いする。
「八田さんの動向チェック毎日ちゃんとしてくれてたじゃないですか。そもそも有希さんが話してくれなければ誰も動かなかったですからね。むしろ俺の方が何にもしてないんだけど、いいのかな…。そうだ。八田さんに付けてたGPS戻しとかないと」
宇堂は自分の財布から小さな機器を取り出すと、有希に手渡した。
「八田さんに何事もなく済んで良かったです」
「眞崎がその日の内に回収してくれてたんで、助かりました」
有希はにっこり笑って受け取ると、ポーチの中にしまった。
「あれから八田さんと眞崎さんちょっと仲良くなったみたいで、今度一緒にサッカー観に行くって言ってましたよ。八田さん凄く感謝してたし。…私、本当言うとびっくりしたんですよね。眞崎さんが協力してくれるとは思わなくて。眞崎さん、八田さんにいつも突っ掛かるじゃないですか。あんまり良く思ってないのかなって思ってたんです。他の人にもつっけんどんだけど、自分から積極的に絡んだりはしないのに」
「あぁ。眞崎はね、子供心を色濃く残してる部分があって」
「子供心?ですか?」
「うん。所謂好きな子にちょっかい出しちゃうタイプなんですよね」
えっ、と声を上げたきり、有希はしばらく固まった。
「…えっと…それは、眞崎さんが八田さんのことを…って言う?」
「前から随分気に入ってましたよ」
内緒ですけど、とさらりと告げられて、有希ははぁ…と短く息を吐いた。
「眞崎さんが八田さんを、かぁ…」
皿の上の魚料理をいつもより小さく切り分けながら、有希はうーんと複雑な表情をする。
「喜べない?」
宇堂に聞かれて、有希は熟考するように眉を寄せた。
「うーん…。あ、いえ、いい方だとは思います。頼れる人なんだなって今回の件で思いましたし。ただその、女性関係が…」
彼の大事な後輩をそう悪くも言えず、もごもごと言い澱んだ。が、宇堂は気にする様子もなく、はは、と軽く笑う。
「それもね、周りが言うほど酷い訳じゃないんですよ。確かに一人の相手に固執しないし、引き合いの多い若い男だから、時々はまぁ…そういうこともあったのかもしれないけど。それを周りに言われ始めたのは別の理由で。ほら、うちの会社って個人警護の仕事があるでしょう?」
有希と宇堂が知り合ったのもその仕事を通しての事だった。有希はうんうんと頷く。
「眞崎は最初、そっちの部署だったんです。でもあの見た目だし仕事はきっちりやるから、女性客からの指名がやたらと多くて。入社二年目でそれでスケジュール埋まるくらい。個人客相手だと昼も夜もないから、仕事内容を知らない違う部署の奴らから見たら、色んな女の人と夜な夜な出歩いてるとかホテル入ってったとか…。顧客を宿泊先の部屋の前まで送り届けたり同じホテル内に別の部屋取って夜間対応に備えるなんて普通なんですけどね。あいつもいちいち弁明しないんで、どんどん話が拡がって。その内、用もないのに眞崎に会いに会社に顔出してくる客がいたり、必要もないのに長期で眞崎を雇おうとする客が出て来たりもしたから、所長が見かねて部署異動させて、現場に出なくて済むように俺の下に付かせたんです」
「そ…そんな経緯が…」
有希は唖然として聞き入っている。
「でも仕事相手とどうこうっていうのは一切ないですよ。その辺は結構真面目なんです。向こうから寄ってくるから躱すのも結構大変だったと思うんですけどね」
宇堂も眞崎程ではないが、多少は似たような経験をしているから気持ちは察して余りある。仕事を盾に、ホテルの部屋に引っ張り込まれそうになることだってあるのだ。
「そっかぁ…。そういえば飲み会の時も女の人と話したくないような事言ってましたもんね。女の人好きな筈なのになんでだろって思ってたんです」
「固執しないのは、する程の相手が今までいなかったからでしょう。その感覚は俺にもわかります。そういう相手が現れれば、また変わるんじゃないかな」
彼にとって彼女が、彼女にとって彼がそうであるように。
「それは…私もわかる気がします」
恋愛なんて異世界で起こる話、とまで思っていたのに、あっという間に彼が塗りかえてしまった。奇跡のようにも思うけれど、その小さな奇跡は、おそらく誰にでも起こり得る。
「女性問題が誤解で八田さんのこと真剣なら、私も安心して応援できます」
「でも八田さんの方がどうかな。仲良くなったって言ってもまだ、意外といい奴じゃん、くらいにしか思ってなさそうに見える」
「あ、それこないだ言ってました。思ったよりいい奴だったって」
ふはっと宇堂は小さく吹き出す。
「何とも思われてないのは自業自得だから。態度を改めて見直して貰わないとな」
運ばれてきた食後のコーヒーを手に取って、宇堂は窓の外に目を遣った。街の向こうに広がる海の上を、いくつもの船が行き交う。
「いい景色」
有希は宇堂に倣って窓の外に視線を移すと、目を細めて笑った。
「気に入ったなら泊まっていきます?繁忙期過ぎただろうし、一部屋くらい空いてるんじゃないかな」
えっと有希は驚く。腰の重いインドアな彼女には思いも付かないような事を、宇堂は時折唐突に言い出す。
「こういうところ、あんまり来たことなかったでしょう。夜までその辺見て回って、どこかで夕飯食べて、泊まって、明日ゆっくり帰れば」
「…宇堂さんは、そうしたいですか?」
「うん。最近立て込んでて、正直疲れてて…。息抜きらしい息抜きがしたい…」
テーブルに両肘を突いて、珍しく弱音めいた呟きをした。
「なら、そうします?」
控えめに同意する有希に、うん、と宇堂は穏やかに笑った。
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