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6
初めて言葉を交わした日の、自分の感情の振り幅を、八田は未だに覚えている。
今の会社に営業職として中途入社で入った、数ヶ月後の事だ。
同僚達と親しくなるのに、そう時間はかからなかった。部署は違ったが、綺麗な顔で時々ズレた発言をする有希と、何事も他人事のような顔をして茶化しながらも何だかんだ面倒見の良い松下とは、特別親しくなった。
その頃有希は既に一人の男に夢中で、それが、同じ建物内にある別の会社で働く宇堂だった。
ほどなくして二人は恋人同士になって、元々仲が良かったのが、さらに距離を縮めていた。社員食堂で顔を合わせると、以前は互いに手を振り合って少しの会話を交わすだけだったのが、自然と席を共にするようになった。その宇堂とよく一緒にいたのが、彼の後輩の眞崎だ。
彼を一目見た時、八田は慄いた。
理想の顔をデジタルで作れと言われたら、この顔を作るだろう。ほとんど修正が必要ない。そのくらい整っていて、好みのど真ん中の顔だった。
初対面だったから、名刺を渡した。営業職の手癖のようなもので、個人的に連絡を取りたいとかそういう深い意味はなかった。そもそも名刺には社用携帯の番号くらいしか書いていない。
無表情で受け取った彼は、どことなく面倒臭そうに、それでもポケットから名刺入れを出して一枚抜き取ると、自分の名刺を八田に差し出した。
眞崎巽。漢字の上に、アルファベット表記がされている。
「まさき、たつみさん?どっちも苗字でどっちも名前みたいな名前だね」
頭に浮かんだままの感想をそのまま口にした。友達の彼氏の後輩。仕事で関わる相手ではないし、歳も近そうだ。そう思っていたから気安く話しかけた。
しかし眞崎は片方の眉を吊り上げて、渡した名刺を八田の手から引き抜いて取り上げた。
「あんた、いくつ?」
「え、歳?二十六ですが」
「そうか。俺は二十八だ。口の利き方に気をつけろ」
その横柄な物言いに、眼福だなと彼の顔面を機嫌良く眺めていた八田のテンションが一気に下がる。代わりに急上昇した立腹バロメーターに突き動かされ、思うまま言い返した。
「え。何そのヤンキー社会みたいなガチガチの年功序列制度…。二歳差とか誤差レベルじゃない?」
「よく思い出せよ鳥頭。お前がぶかぶかの制服着て期待と不安を胸に中学の入学式を迎えた時、三年生は大人に見えなかったか?」
「三十歳で禿げようと三十ニ歳で禿げようと、ショックの度合いは同じようなもんでしょ?」
「お前がこの世に生まれ落ちて一人じゃ寝返りも打てねぇ飯も食えねぇで泣き喚いてる頃、俺は二本足で走り回って、何なら三輪車乗り回してた」
「あんた八十六歳の人と八十八歳の人百人並べた年齢当てクイズ、全問正解する自信ある?」
会話を交わした途端、理想の顔に浮き足立った心は、敢えなく萎んでどこかへ飛んでいった。お前は世界の王様か、と言いたくなるような態度の大きさと口の悪さに、火花を散らすような舌戦を繰り広げて終わった。
最初はハラハラした顔で見ていた有希も、完全に放置を決め込んだ宇堂と松下に無言の笑顔で『放っとけ』ととりなされ、休憩が終わる頃には耳慣れたのか、気にせず他の二人と談笑していた。
以降、八田と眞崎は顔を合わせる度に何やかんやと諍って、けれど眞崎は不思議なことに、八田の心に傷を残すようなことは言わなかった。
だが、いや、だからこそ八田の中で、いい意味でも悪い意味でも、彼の存在が大きくなることはなかった。
時折友人との間に出る、芸能人の誰それがかっこいい、あの会社の誰それがかっこいい──といった話に、眞崎の顔が浮かび上がる程度の存在。性格はアレだが、顔だけで言えばあいつの方が格好いい。
ただそれだけの。
だが時を経て、少しずつ距離が縮まって、彼の内面を知った今、また。
目の前にいるこの男のせいで、八田の心は未だかつてないほどに、大きく針を振っていた。
□□□□□
「今日泊まりに来いよ」
カウンター席に並んで座る眞崎から唐突にそう言われ、八田は首を傾げた。
「泊まり?どこに」
「俺ん家」
「…家?」
むくむくと嫌な予感が首をもたげて、八田は眉を寄せる。当然、眞崎の家など今まで行った事はない。
「……なんで?」
「明日休みだしさ」
「そうじゃなくて。何のために」
「したいから」
「……………何を?」
「決まってるだろ。セッ…」
「いや言わなくていい‼︎」
八田は焦って遮った。狭い居酒屋のカウンター席である。ごく普通の声量で話していても、カウンター内の店員にも横並びに座る客にも、会話は筒抜けだ。そんな状況で平然と、何を口にしようというのか。
「お前が聞いたんじゃねぇかよ。なぁ、来るだろ?」
八田が黙ると、しん、と二人の間に沈黙が訪れる。
「───絶っっっ対行かない‼︎」
たっぷりと溜めた沈黙を破り全力で首を振る八田に、眞崎はぶはっと吹き出した。
「ほんっと失礼だな、お前」
「あ…あんたがおかしなこと言うからでしょー⁈」
テーブルに乗せた両の拳をわなわなと震わせながら、八田は怒っているのか泣きそうなのかよくわからないほど、顔を歪める。
「せ…せっかくいい友達になれたと思ってたのに、何で急にそんな事いうの」
「よく言うよ。友達なんて思ってねぇ癖に」
テーブルに頬杖をついて斜に構えた眞崎が、鼻で笑う。鈍い光を瞳の奥に湛えて、八田の心を読もうとするようにじっと覗き込んだ。
そうだった。
最近すっかり気の合う友達になった気でいたので、忘れていた。
とにかく顔がいい。体つきもいい、つまり見た目がすこぶるいいという己の武器を熟知し、乙女心を自在に操る危険な男なのだった。
「それに急でもないだろ。お前もわかってたんじゃないの」
「……………知らない」
目が合うと心の内をすべて見透かされてしまいそうで、逃れるように八田は視線を逸らす。
眞崎の言い分は、正しい。
八田が助けられたあの出来事から半年近く経つ。「すっかり仲良くなって」と有希や松下に感心されるほど、二人の距離は確実に縮んでいた。
職場で顔を合わせる度にどちらからともなく声をかけ、ランチや夕飯を一緒に食べたり飲みに行ったりする内に、休日にも二人で一緒に出掛けるようになった。取り立てて用がなくても電話をしたりメッセージを送り合って、その頻度は増えていき、今はもう、他のどんな友達よりも共有する時間が多かった。
眞崎は以前のような皮肉っぽい笑みではなく、屈託のない笑顔を八田に見せるようになっていた。口が悪いのは相変わらずだけれど、八田の話を真剣に聞いて、茶化さずに真面目に返す場面も増えた。
眞崎が自分を人として尊重してくれていることが、一緒にいると伝わってきて嬉しかった。
親しくなってみれば軽口も楽しかったし、お互いフットワークが軽いので予定も合わせやすかった。八田が以前のように躍起になって出会いを探す事をしなくなったのは、眞崎と過ごす方がずっと、楽しかったからだ。
そしてそれは八田の一方的な思いではないような気もしていた。
眞崎の仕草や表情に、どこか特別な好意のようなものを感じることも、本音を言えば時々あった。
例えば八田が躓きそうになった時、支えてくれる手が驚くほど丁寧だったり。
乱れた髪を直してくれるついでに、指先で優しく頬を撫でたり。
別れ際、名残惜しそうにぽんぽんと頭を叩かれたり、された時に。
心臓がぎゅうと締め付けられるその度に、そんな訳はない、期待しちゃいけない、と頭の中で打ち消した。相手は百戦錬磨の手練れ。決まった恋人を作らず複数の相手と遊び歩いていると評判の、プレイボーイである。友人としてどれだけ親しくなろうと、八田など相手にする筈もない。それに手軽な性欲処理相手にされるくらいなら、友人として大事に扱われる方が余程いい。そう自分に言い聞かせる度に、八田の心は少女のように切なく軋んだ。
そんな自分には確かに、友達を名乗る資格はないのかもしれない。
「なぁ。何がそんなに嫌なんだよ」
眞崎は空いた方の手で、八田の髪をつんつんと引っ張る。そんな子供の悪戯みたいな仕草ですら、蜘蛛が鋏角を剥いているように感じてしまう。彼にとっては自分など、巣に絡みとられた小虫に等しい。
だめだ。顔の良さと甘い空気に惑わされてはいけない。八田は自分を奮い立たせて、眞崎を睨んだ。
「そっちこそ何で、私が二つ返事でオーケーして当然みたいな態度なの」
「だってお前、俺のこと好きだろ」
八田は今度こそ本当に不愉快になった。自分自身からも必死に隠し立てしていた恋心を、雑に取り上げられたような気がしたのだ。
「………帰る」
椅子から立ちあがろうとした八田の肩に、眞崎が腕を回す。肩を抱く、なんてかわいらしいものではない。がっちり押さえ込まれて、浮かせた尻が椅子の座面に押し戻される。
「帰るなら、断る理由を話してからにしな」
顔は笑っているが、腕の力が本気だった。振りほどこうとしてもびくともしない。しっかり鍛えられた男の力強さに、状況も弁えず八田はときめいた。いや違う、そんな場合じゃない。
「…わかったから離して」
八田が睨むと、眞崎は思いの外すんなりと腕を解いた。椅子に座り直した八田を、眞崎はじっと見つめて、待っている。
「……私はちゃんとした彼氏が欲しいの。私だけを好きでいてくれて、大事にしてくれる恋人が。快楽主義者相手に束の間の情事を楽しみたい訳でも、何人もいる女の内の一人になって均等な薄ーい愛を分けて欲しいんでもないの。あんたがしたいのはそういうことでしょ?エッチしたい時は気軽に出来る、でも面倒なことは言わない、ちょうどいいおトモダチが欲しいんでしょ?私はそんなのにはなれないよ。あんたなんかと一回でも寝ようもんなら、私だけが馬鹿みたいに夢中になって、何とか好かれようとして自分を曲げて、必死に尽くして浮気にも耐えて、年中無休であんたのことばっかり考えていっぱい泣いて、縋り付いてそれでも振り向いて貰えなくて、死ぬほど辛い思いをした挙句、飽きたらゴミのように捨てられるの。そんなの絶対いや」
ふぅん、と眞崎は鼻を鳴らしてうっすら笑っている。こちらは至って真面目に話しているというのに。いつもならそういう時、眞崎はちゃんと聞いてくれるのに──。その温度差が、八田の神経をさらに逆撫でした。だが眞崎は泰然と枝豆を口に入れながら、空になったさやを皿に放り投げる。
「他には?」
「他?え、他……?」
「他にはねぇの。あるなら十秒以内に言って」
えぇと、と焦って理由を探す八田を、眞崎はいーち、にーい、と十秒カウントを始めて急かす。
「──九、十。ないんだな」
「───じゃなくて!大体あんた何でそんな偉そうなの⁈自分が迫って落ちない女なんかいる訳ないって思ってるんでしょ。ちょっと顔がいいからって調子乗ってんじゃないわよ!」
「お前そのセリフよく言うよな。よっぽど俺の顔好きなんだな」
「ちょ…調子に乗るなよ。好きとか嫌いじゃなくて一般的な基準で…」
「俺はお前の顔けっこう好きだけど」
さらりと言って、八田の頬を手の甲で撫でる。少し触れられただけで、ぞわりと肌が総毛立った。眞崎に触れられるといつもこうだ。嫌とかいいとか考える前に、体が過剰反応する。
「……このっ…女ったらしが!全然好みじゃねぇって言ってたの、どの口よ⁈」
それを聞いたのは出会って間もない頃だった。その日は有希の他に同僚の女子二人が同席していた。その内の一人が眞崎の好みのタイプを聞き出したくて「八田みたいのは?」と、八田をダシに使った。その時眞崎はめんどくさそうに「全然好みじゃねぇ」と答えたのだった。
その時は八田も眞崎のことを、ただの口の悪いイケメン程度にしか思っていなかったので、はいはいすみませんね、と思う程度だった。だが、今になって自ら口にすると、改めてダメージを喰らう。
ギリギリと眉を吊り上げる八田に、眞崎は平然と言う。
「そんな事言ったっけか?覚えてねぇけど多分、中身に対する感想だな。顔の造作自体は好きだよ。俺、煩くなくて手がかかんなくて面倒もなさそうな、いかにも大人って感じの楽な女が良かったからさ。お前真逆じゃん」
「うるさくて手のかかる面倒な子供じみた女で悪かったわね。だったら相手にしなきゃいいでしょ⁈大体あんたが──」
語気荒く言い募る八田が、つと言葉を切って、呑みこむ。熱り立った肩から、萎れるように力が抜けていった。
「何。言えよ」
一気に覇気を失った八田に、眞崎が聞き質す。八田は口籠もりながら、小さな声で呟いた。
「…あんたが言ったんじゃない。絆されるなって。ちゃんと惚れて惚れられるまで、許すなって」
「言ったな。よく守った。俺を相手に大したもんだ」
労うようにぽんぽんと肩を叩かれ、八田の怒りは再び瞬間沸騰した。
「ふ ざ け ん な」
振り上げた八田の平手は、あっさりと眞崎に掴まれる。
「ふざけてねぇよ。だから俺だって待っただろ。お前が俺のこと好きになるまで」
真顔になった眞崎の鋭い眼に射抜かれるように、八田は動きを止めた。
「俺と一回でも寝たら、何だって?馬鹿みたいに夢中になって自分を曲げて好かれようとして尽くして浮気にも耐えて年中無休でそいつのことばっかり考えて泣いて縋って?」
「……死ぬほど辛い思いをする。絶対する。そんなのやだよ。だったらずっと友達でいた方がいい」
眞崎は掴んでいた八田の腕を下ろして、自分の膝の上に乗せた。するりと指先を滑らせて、小さく震える八田の指に絡める。
「俺はやだね。好きな女が手の届く距離にいるのに、何が悲しくていつまでも指咥えて友達面してなきゃなんねぇんだ」
八田は驚いて、顔を上げた。
今、この男は何て言った?
好きな女、と言わなかったか。それは──誰のことだ。
眞崎を見つめる八田の目が、蝋燭の炎のように頼りなく揺れる。
「…お前のそれさ。俺のこと好きだって言ってるようにしか聞こえねぇよ」
八田の目に滲んだ涙を、眞崎が空いた方の手で拭った。
「先の確証なんかない。一生目移りひとつせずにお前だけを好きでいられるかどうかは、正直わからない。それはどんな男でも、女だって同じだろ。けど俺は少なくとも今、そうありたいと思ってるし出来るとも思ってる。お前が俺を選ぶなら、浮気なんか誓ってしない。お前に献身は求めてないし無理して俺に合わせなくていい。俺は今のままの、きゃんきゃん喧しく吠えて好き勝手走り回るお前のことを、結構気に入ってんだ。年がら年中俺のこと考えてるのはいいよ。でもどうせ考えるなら浮かれてろ。泣かせないように努力はするから。──お前の言うちゃんとした彼氏ってのがどういうもんかはわかんねぇけど──俺の出来る限りで、大事にするから」
眞崎はそっと八田の頬を撫でると、耳元に顔を寄せて小さな声で言った。
「──俺のものになれよ」
触れる手も声も、肌が粟立つほど優しかった。怯んだ八田は勢いよく頭を振ってその手から逃れ、両手で顔を覆い隠した。
指の隙間から覗く八田の顔が真っ赤に染まっているのを見て、眞崎は声をあげて笑う。
「なるだろ?」
「───────なる……」
「やっと素直になったな」
よーしよし、と眞崎は犬を褒めるように、八田の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「もうやだ…私、チョロすぎない…?」
「何言ってんだ、俺がどれだけ時間掛けたと思ってる。これ飲み終わったら出るぞ。うちでもその辺のホテルでもお前ん家でもいいけどどうする?」
ジョッキを呷る眞崎に、八田は不信に満ちた目を向ける。
「…ねぇ、何でそんな急ぐの?まさか体目当てとかじゃないよね?」
「あのな。誰でもいいからヤりたいってだけなら、こんな手間暇かけてお前を口説き落とす必要ねぇんだよ俺は。その辺でちょろっと引っ掛ければ済む話だからな。鈍っちいお前の為に何ヶ月待ったと思ってる。もう限界なんだよ俺は」
「──あ、ダメだ早速不安になってきた。掌の上で転がして利用してやろうとかも思ってない?」
「お前転がして俺に何のメリットがあるんだよ。奴隷商人でも美人局でも臓器バイヤーでもねぇんだぞ」
「ますます安心出来ないんだけど」
「だからさっきから二人になれるとこに行くぞって言ってんだ。ここで安心させて欲しいならそうするけど、その方がいいのか?」
「ん?うん…うん?」
言われた意味がよく理解出来ず、曖昧に頷いた八田の後ろ頭を、眞崎の大きな手がガシっと掴む。何、と疑問に思う隙もなく力任せに引き寄せられて、一瞬で唇を塞がれた。
「───‼︎」
八田は悲鳴をあげそうになったが、隙間なく深く口を塞がれていて、声にならない。
「──心配すんな。ちゃんと好きだって、今から嫌ってほど教えてやるから」
顔を離した眞崎が耳元で囁く。その言葉の意味さえ、すぐに理解出来ない。八田の頭は真っ白になっていた。
放心状態になっている八田を余所に、眞崎は痺れを切らしてさっさと会計を済ませる。隣席の壮年男性客から「兄ちゃん遣り手だな」と感心したように声を掛けられ、どうも、と笑って返して席を立った。呆けている八田の荷物を持ち、がっちり腕を掴んで引き摺るように店を出る。
店の外に出た途端、ひゅう、と吹き荒ぶ木枯らしが肌を突き刺した。冷たい風を受けてようやく正気に返った八田は、へなへなとその場に崩れ落ちる。
「──もう二度とこの店来れない…。店員さんもカウンターのお客さんもめちゃくちゃ見てた…聞いてた…。茄子のはさみ揚げ美味しかったのに…」
「他で美味い店探しとくわ」
「眞崎のバカーーー!」
八田の叫び声に、道行く人が驚いて振り返る。
眞崎は八田の前に膝を立てて座り、子供のように邪気のない顔で笑いながら、宥めるように頭を撫でた。
「ごめんな」
そう言ってもう一度、今度は軽く触れるだけの、優しいキスをした。
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