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   数日前にも来た部屋だが、まだ慣れないので少し落ち着かない。ソファに座ってぶらぶらと脚を揺らしながら、八田はあちこちに視線を泳がせていた。  そもそも眞崎と付き合う事自体にもまだ、座りの悪さのようなものを感じている。  原因ははっきりしていた。眞崎の顔が良すぎるのだ。  「あんたがもうちょっと不細工だったら、こんなに…」  収まりの悪さを感じることはなかったのではないかと思う。八田の人生経験上、目立って整った顔をした男は遠くから眺めて悦に入るのが関の山で、相手から好いてもらえるなどと言う旨い話は、なかった。何か大きな錯覚をしているのではないかという気がしてしまう。  「何でお前はいつもそう俺の顔の話ばっかりしてんだ」  冷蔵庫から取り出したビールの缶を、八田の頭の上にごちんと乗せる。  「もっと不細工なら何だって?俺の顔好きなんじゃねぇの」  「…いや…うん、好き…」  憂鬱そうに呟く八田を不審な目で眺め、眞崎は八田の隣ではなく、その足元、床に敷いてある毛足の長いラグの上に座って胡座をかいた。  「……あのさ。俺、お前にまだ言ってない、割と重大な話があって」  繰り返すが、八田は誰から見てもどこから見てもいい男、そんな相手から好かれたことはなかった。  だから眞崎がそう切り出した時、八田は冷や水を浴びせられたように恐れ(おのの)いた。  「え…何、こわい。めちゃくちゃ怖い」  眞崎は神妙な顔で八田を見上げ、手招きをする。隣に座るよう指差して指示され、八田は素直に従った。向かい合ってぺたんと正座して、眞崎が話し出すのを待つ。  「俺さ」  「う、うん」  「…お前の名前、知らないんだよね」  「──なまえ?」  八田はぽかんと口を開ける。  「名前。下の」  「────あぁ!なるほど!」  八田はぽんと手を打つ。  「そっかぁ。会社関係の人は大体八田って呼んでるもんねぇ。自己紹介でも苗字しか名乗らないし。あ、でも私は眞崎の名前知ってるよ。巽だよね?最初に名刺貰ったとき、名前の話したよね。──あれ?そういえばその時私も名刺渡さなかったっけ?」  緊張が解けた八田は一息に話す。眞崎と初めて会った時、名刺交換した記憶があった。八田は奪い返されたので手元にないが、眞崎には渡したままの筈だ。  「貰った」  「それ見ればよくない?」  「なくした」  「あぁ、そうなんだ。もう一枚いる?」  八田はあっさりと納得して、鞄を漁り始めた。眞崎はなぜか少し驚いたような顔をして、鞄を漁る八田を見つめていた。  「んー、見つかんないな。会社に置いてきちゃったかも。また今度持ってる時に渡すね」  「…怒んねぇのな」  「え、何を?」  「名刺失くしたの」  「ん?私も仕事に関係ないとこで貰った名刺はよく失くすよ。業者さんのとか、もう使わなそうなら捨てちゃうのもあるし」  眞崎は眉を寄せて笑うと、体をずらして近付き、八田の肩に顎を乗せた。  「…お前怒るかなって思ってた」  そう思っていたから、切り出し難かったのだ。  「あー、はは。前だったら怒ってたかもね。せっかく渡したのにひどっ、て。でも今はむしろ安心かも。他の女の子に名刺貰っても、大事に取っておかないでちゃんと失くしてくれちゃうんでしょ?それよりびっくりしたよ、大袈裟に言うからさー。深刻な打ち明け話かと思ったじゃん。黙ってたけど結婚してますとか子持ちですとか凄い借金あるから一緒に返してとか」  けらけら笑う八田に、眞崎は「ねぇよ」と眉を寄せて苦笑いする。  「結構深刻だろ、彼女の名前知らないのも。今さら聞き難いじゃん」  「有希ちゃんとか松下にこっそり聞けばよかったのに」  「それも考えたけど、どうせお前ら筒抜けだろ。だったら本人に直接聞いた方がマシかと思って。そんでなんて言うの」  「まほだよ。リネンの麻に船の帆の帆」  「麻帆」  復唱しながら眞崎は床に放っていたスマホを拾って、苗字のみだったアドレス帳の登録を変更する。打ち込んだ文字を八田に見せた。  「合ってる?」  「うん。合ってる合ってる」  画面を見るために顔を寄せた八田の頬を、眞崎が片手で捕まえて自分の方を向かせた。  「麻帆」  「うん」  「麻帆」  「……おう」  眞崎はずるい。ただ名前を呼ぶだけで、こんなにもひとの心を揺るがせる。  「麻帆…」  頬に添えた手がするりと動いて、顔にかかる髪を掻き寄せて耳に掛けた。眞崎の顔が近付いて、つ、と軽く唇が触れる。  ほわんと頬を染めた八田の後頭部に掌が回り、今度は深く唇を重ねる。頬や額を撫でる眞崎の指から、確かな劣情が流れ込んでくる。唇を甘く噛まれ、少し離れてまたすぐ塞がれて。頬に耳朶に首筋に、真崎の唇が這う。  その全てが、気が遠くなるほど心地良かった。甘いお酒に酔うようなふわふわした感覚に浸っている内に、ふと気付けばいつのまにか、八田は床に横たわっている。  「…あれ…?ま…待って待って」  躊躇(ためら)いもなく服を脱がしにかかる眞崎に、八田はストップを掛けた。  「何、今日は駄目?」  「だ…駄目じゃないけど…。先にシャワー浴びたい」  「後でよくね?どうせこれからぐちゃぐちゃに汚れるんだから二度手間だろ」  「えげつない言い方すんじゃないわよ」  八田は顔を赤くして、眞崎の胸を両掌(りょうて)でぐいぐいと押し返す。  「今日はずっと外回りだったからやなの!先に飲んで待っててよ」  「はいはい」  眞崎は体を離すと、八田の腕を引いて起こしてやる。そのままぎゅうと抱き締めて、名残惜しそうにもう一度キスした。  「早く出て来いよ。一人で飲んでもつまんねぇ」  「───う、うん」  八田は戸惑いながらも頷いて、そろそろと風呂場に向かった。  (なんか…)  服を脱ぎながら、八田は思う。  (眞崎って)  シャワーを浴びながら、  (思ってたより、ずっと)  シャンプーをもしゃもしゃと泡立てながら、  (甘くない……⁈)  過剰に泡立てた全ての泡を洗い流しても、愛おしげに触れてくる眞崎の掌の感触は、これっぽっちも消えずに残った。
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