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 外回りから社のビルに戻った時、エレベーターの前に立つ眞崎を見つけた。  「まさきー」  大きな声を上げて手を振る八田の姿を認めた眞崎は、ちらりと周囲を見回した。誰もいないことを確認すると足早に近付いて、八田の手首を掴み、奥にある非常階段のドアを開け、中に引っ張り込む。  眞崎は八田の腰に両腕を回し、軽く抱き寄せた。八田もくっつきたかったが、眞崎の服にメイクが移ってはいけない。控えめに真崎の背中に腕を回した。  「今日、帰り遅いの?」  眞崎が尋ねる。八田が三十分ほど前に送った、取引先の人と飲みに行くから今夜は会えないというメッセージには、わかったと短い返事だけが来ていた。  「うん。多分十時過ぎくらいに解散かなぁ」  「遅くなるならうち来いよ」  「遅くなるなら?」  「そう」  「なんで?あんまり一緒にいられないよ?」  早く終わったらの間違いじゃないかと八田は不思議そうに首を傾げる。  「それは別にいい。お前の家の辺り、夜遅くは結構危ないだろ」  先週初めて八田のアパートを訪れた時も、確か眞崎はそう言っていた。駅からの帰路に広めの公園があるのだが、そこは柄の悪い連中の溜まり場になっている。一緒に歩いたのは深夜だったが、なかなかの騒音だった。元々さほど治安の良くない地域なので八田自身は慣れていたが、初めて通った眞崎からしたら気になるのかもしれない。  「車があれば迎えに行ってやれるけど、バイクしかないしな。酒入ったお前を後ろに乗せるのも危ないし。俺ん家来るなら駅までは迎えに行けるから」  「なるほど、そういう意味か」  八田はようやく納得した。  「でも遅くまで待たせるの悪いからいいよ。何年も住んでるけど今まで何もなかったし、大丈夫だよ」  「今まで大丈夫だったからこれからも大丈夫なんて保証はないだろ」  あっけらかんと笑う八田を眞崎が睨む。真剣にそういう厳しい表情を向けられるのは久しぶりだったので、八田は少し(ひる)んだ。  「わ、わかった。行くよ」  週末に泊まりに行った時、着替えや化粧品を置いたきりにしていたので、さほど困る事もない。八田は素直に頷いた。  「電車乗ったら連絡しろよ」  「うん。…あのさ、眞崎」  「何」  「私が他の人と飲みにとか遊びに行ったりするの、()だったりする?」  眞崎を見上げる八田の目が、(わず)かに不安に揺れる。少し過剰に思える眞崎の心配が、八田が夜遅くまで出掛ける事自体に対する拒否反応かと、深読みしたのだ。  眞崎は軽く目を(みは)ったが、すぐに優しく細めて八田の頬を撫でる。  「…それは何とも思ってない。単純に帰り道が心配なだけだよ」  「そっか。ありがと」  八田はほっとした顔で、眞崎の掌に頬を擦り寄せた。  過去に付き合った男の一人に、束縛の激しい男がいた。八田の外出にいちいち口を出して、酒が入る場などもっての(ほか)だと禁じた。その内禁止の幅は広がって、昼間のランチでも相手が同性でも彼は機嫌を損ねた。八田も最初は我慢して控えていたが、恋人以外と会う機会のない生活など、性格的に無理がある。喧嘩が絶えず、フラストレーションが溜まっていくのに比例して、彼への好意も失せてしまった。  眞崎が同じようなタイプだったとしたら、と不安になったのだ。同じ(てつ)を踏みたくはない。  「…眞崎、意外と過保護だね」  「お前の危機感が薄いんだよ」  八田がゆるっと笑うと、むっとした顔で両頬を片手で掴み、唐突にキスをした。  んむ、と八田は色気のない声を上げたが、眞崎は構わない。耳や髪に指先を絡ませながら、何度も唇を求めてくる。  「ス…ストップストップ」  服の上から胸を掴まれたところで八田はぐいっと真崎の体を押し返す。お預けを喰らった眞崎は不満気に眉を寄せた。  「何で」  「…これ以上すると仕事が。手に付かなくなるので」  「鍛え方が足りねぇ」  「何をどう鍛えろと言うの」  はは、と笑った眞崎はゆるりと腕を(ほど)いて八田を解放した。だが名残り惜しそうに、(うなじ)を撫でる手は離さない。  「…仕事中にこんなのんびりしてていいの?」  「休憩遅れて今からなんだよ」  「そうなんだ。じゃあお腹空いてるでしょ?早くごはん食べな?私もそろそろ戻らなきゃ」  八田はごそごそと鞄を漁ってメイク落としシートを一枚取り出すと、軽く背伸びして眞崎の口に押し付けた。  「ここ暗いからわかんないけど、リップの色移ってるかもよ。ちゃんと拭いてから出てね。じゃあまた夜、連絡するね」  明るく手を振って、パタパタと出て行った。   薄暗い非常口に残された眞崎は、段板に腰を下ろして細い溜息を吐いた。 □□□□□    「へぇ。じゃあ今日もこの後、眞崎君の家に行くの?」  ビールが注がれたジョッキを傾けながら、松下が尋ねる。久しぶりの、有希と松下、三人での飲み会だった。しばらくそれぞれの都合が合わなくて、ランチ程度しか会えずにいたのだ。積もる話が山ほどあった。  「うん。飲み会とか残業で遅くなる日はそうしてる」  付き合い始めて三ヶ月近く経つが、それはもう習慣化していた。眞崎の部屋にある八田専用の着替えや日用品はどんどん充実していっている。  「宇堂さんも毎回迎えに来るよねぇ」  松下が有希に視線を向けると、有希はグラスを口に着けたままこくんと頷いた。  「日が落ちたらなるべく一人歩きしないように言われてます」   「小学生の親か」  松下はからりと笑った。  「や、でも二人ともそういうの平気なんだね。私ならそこまでされると、正直ちょっと鬱陶しいなと思っちゃう。信用されてないのかなって勘繰(かんぐ)ったりもするし」  「あぁ。危なっかしい、頼りない、みたいな信用の無さはあるみたいですね。浮気とかじゃなくて、転倒や事故、強盗や性犯罪…」  有希が宇堂に指摘されていることを指折り数える。  「そうそう。眞崎もそういうのが心配なんだって。普段の日でもちゃんと家着いた?って毎日確認されるんだよね」  「私もされますよ」  おぉ?と松下は目を丸くする。  「成海ちゃんはともかく、八田は束縛する人もう懲りたって言ってなかった?いちいち出掛けるの報告しなきゃいけないんでしょ?めんどくさいじゃん」  「んー。私もともと連絡は毎日する方だし、おしゃべりだから聞かれなくても勝手にいつどこ行くとか言っちゃうからな…めんどくさいってのはないかな。それに眞崎のは束縛とはちょっと違うんだよね。行くなとは絶対言わないし、誰ととかも聞かれないし。それは全然嫌じゃないよ。ただ…」  「ただ?」  「眞崎が、意外といちゃつきたがりで。ところ構わずキスしてきたり」  「え、何。突然の惚気(のろけ)」  松下は箸を止めて、呆れ顔をする。  「や、違う違う惚気じゃなくて。そのさ、一緒にいても、ずっとくっついてるんだけど。それが、付き合いたてのラブが盛り上がってる感じとはちょっと違くて。なんていうかこう…上手く言えないんだけど、不安そうに見えるっていうか」  「不安そう?」  「うん。嫌なことあった時とかさ、ぎゅーってして欲しい時あるじゃん。頭撫でて貰って安心したいな癒されたいな、みたいな時」  「ありますありますあります」  有希がうんうんと力強く共感する。  「あるでしょ?眞崎のは、なんかいつもそんな感じなんだよね」  「(すが)られてる感じ?」  「そう、それ!」  「嫌なの?」  「嫌…とは違うな。どしたん?って思う」  「聞かないの?どしたん?って」  「聞くよ。何かあった?って。でも何もねぇよって言われる。って言ってもなんとなく様子おかしいから気になるんだよね。常にどことなく切迫感あるっていうか。過保護なのもそのせいかなって」  んー?と松下と有希は顔を見合わせて首を傾げた。  「やっぱり異性関係心配されてるんじゃないの?今はいなくてもその内もっといい人現れちゃうんじゃないか的な。漠然とした不安みたいな。八田は特に交友関係も広いし、男友達も結構いるでしょ?」  「二人で会うような男友達はいないよ。何人かで集まるグループの中に男の子も何人かいるっていうくらいだよ?」  頬杖を突いて眉間に皺を寄せる八田に、有希は少し首を傾げる。  「んー。でもそういうのとも違うんじゃないですかねぇ。それなら男の人がいる集まりには行くなって言いません?なんか付き合い始めの頃ってそういう時期あるじゃないですか。何も不安要素なくても不安、みたいな。単にそういう時期なんじゃないですか?」  「えー、そんな時期ある?私はむしろ舞い上がっちゃう」  「私はありましたよ。なんとなく不安で、一緒にいる間中べったりくっついてて、着替えやお手洗いの時さえ離れがたくてギリギリまでついていってて。幼児の後追いみたいだねって言われてました」  「えっ。ほんと?それどんな心境?ちょっと詳しく聞きたい」  「うーん…私と眞崎さんだと全然人間性の方向が違うので、参考になるかはわからないですけど」  有希はうーんともう一度唸って難しい顔をして、真剣に言葉を選んだ。  「宇堂さんとお付き合いを始めて二、三ヶ月くらい経った頃だったかなぁ。とにかく触れ合って、安心していたいっていう時期があったんです。性的な行為をしたいっていうのとも違くて。体のどこかが触れ合ってないと、落ち着かないんですよ。今思えば、確認行為だったんだろうなって思うんですけど」  有希は顎に手を当てて、真剣に言葉を選んだ。  「確認行為?何を確認するの?」  「触れ合って、肌感覚でその人が自分の(そば)にいることを確認したいんです。それと、そうしていても自分は許されるんだって事も実感したくて。くっついて、あぁちゃんと手の届くところにいるな、触ってもいいって許されてるんだな受け()れてもらってるなって思うと、安心するんです」  「おぉ…なるほど」  「多分その頃、体で繋がる事にも少し慣れ始めて…ちょっとこう、自分と相手の境界が混ざっちゃってる状態になってたんですよね、多分。この人とひとつになってしまいたい、みたいな欲も出て来て。でも実際は、それぞれが個体である以上、乗り越えられない部分じゃないですか。そこにジレンマを感じたりっていうのもあって」  「有希ちゃん…子供子供と思ってたけど、めちゃくちゃ冷静に分析してるじゃん…」  八田が余計な一言を入れつつ感嘆すると、有希は照れ臭そうに笑った。  「今思えば、ですよ。その時はただもう、べったりで。そもそも人間の男女の体の構造がいけないと思うんですよ。出来過ぎてません?下手に上手く嵌まるようになってるから、余計な欲が湧くんです。何度、最中に、このまま抜けなくなればいいのにって願ったことか…。魚みたいに放精放卵で事が済めばそんなふうにならないと思うんですよね」  全然冷静ではなかった。清涼感溢れる綺麗な顔から繰り出される露骨な言葉の数々に、八田は言葉を失う。  松下は笑いを噛み殺すように揚げたパスタをぽりぽり(かじ)り、興味深そうに尋ねる。  「ねぇ、そういうの宇堂さんに言うの?」  「言います」  「彼はなんて?」  「ずっとは無理だけどしばらく入れときましょうか、みたいな…」  「器でかいな。その願望はさっぱりわからんけど面白すぎる。八田わかる?」  涼やかで穏やかで仲睦まじい理想のカップルのような二人が、(ねや)でそんなシュールな会話をしているとは誰も思わないだろう。松下はゲラゲラ笑っているが、あまり他人事(ひとごと)ではない八田は、真剣に考え込んだ。  「…うーん…。わかるのかわからないのかすらわからん。や、事後、くっついてる時とか、このままずっとこうしてたいなーみたいに思うことはあるけど、それとは違うよね?」  「そういう(ゆる)やかな幸福感を味わえるようになったのは、もう少し後ですね。その頃はもっと切実な感じだったんです。我ながら結構不安定な状態だったと思うんですけど、宇堂さんは凄く普通の感じで受け入れてくれてたから、満足したというか…自然と落ち着きました。今でもくっついてるのは好きですけど、その頃の不安とか焦燥感みたいなものはもうないです」  「あり余る恋愛感情をコントロール出来てない状態だったのかな」  「あぁ、そうですね。それに尽きますねぇ」  松下の言葉に、有希は深く頷いた。  「なるほどね。成海ちゃんは初めての恋愛なんだもんねぇ」  「そうなんですよ。だから眞崎さんとは経験値も全然違うし、その不安気な様子が私と同じ(たぐい)のものとは思えないですけど」  お役には立てなくて、と申し訳なさそうにする有希を、八田は慌てて取りなす。  「や、でも勉強になった。最初からずっと上手くいってそうな有希ちゃん達でも、そんな時期があったんだね…」  「私が勝手にそわそわしてただけで、宇堂さんは普通でしたからね」  「八田達だって(はた)から見たら順風満帆にしか見えないよ。まぁ眞崎君のも、本人が何でもないって言ってるなら、放っておけばいいんじゃないの?」  まぁね、と八田は肩を(すく)める。  「付き合う前は、お互いすごく気楽な感じで一緒にいたんだよ。別に今が居心地悪いとかそういう訳ではないんだけど…。もうちょっとね、眞崎が肩の力抜いた感じでワーイってハッピーにしててくれたらいいなと思ってね…」  「眞崎さんがワーイでハッピー…」  「想像すると笑えるわ」  有希と松下の声が重なる。  「だって私は眞崎と付き合ってて、嬉しくて、そういう気分なんだもん。そこは足並み揃ってた方が楽しいじゃん」  微妙な苦笑いを浮かべる二人に向けて、八田は唇を尖らせる。  ずっと飲み物を飲んでいたのに喉が枯れそうなほど話し続けて、店を出たのは二十二時過ぎだ。  過保護な保護者代表の宇堂が車で有希を迎えに来て、松下と八田の二人もついでに送って行く、と申し出た。ついでという距離感でもないのだが、最近は馴れがでて、二人とも厚意に甘えるようになっていた。  「八田さんはどっちに送って行きます?」  「え?」  「自宅ですか?眞崎の家?」  宇堂が当たり前のように聞く。  「…えーっと…」  送迎付きなら帰路の心配がないので、自宅に帰っても眞崎は何も言わないだろう。でも。  「眞崎のところにお願いできますか?」  会いたいな、と思った。  宇堂はすんなり了承して、カーナビの設定をする。眞崎にもメッセージを送り、知らせておいた。  しばらくは四人で他愛もない話をしていたが、その内、助手席に座った有希が寝息を立て始める。  少し静かになった車内で、後部座席に並んで座る松下の肩に、八田がのしかかる。  「松下ぁ」  「何、酔った?」  「そこそこ」  見えないように膝の上で運転席を指差して、小さな声で聞いた。  「ねぇ。私にこんな包容力あると思う?」  「まるで思わない」  「だよねぇ…」  夜の街を走る車から眺めるのは、好きだった。だけど今日はなぜか切ない気持ちになった。行き交う車のライトや街の明かりが滲んで、どこかで誰かが泣いているような気がしてしまう。  「…私、あいつのこと、ちゃんと幸せにしてあげられるかな」  「出来る出来る。包容力はなくても、あんたにはあんたの良さがあるじゃない」  不安そうに小さな声で呟いた八田の頭を、松下が腕を回して抱いて、ぽんぽんと叩く。  「どんな?」  「起き上がり小法師(こぼし)的な」  「…もっとこの状況に相応しいアビリティが欲しかったわ」  松下は膝に突っ伏した八田の頭をよしよしと撫でてくれた。その柔らかな温かさにもっと甘えていたかったけれど、いつのまにか松下の家に着いてしまっていた。  「続きは眞崎君にやってもらいな」  松下は宇堂に礼を言うと、八田の頭をわしゃわしゃと撫でて車を降りる。  眞崎の家はそこから二十分ほどの距離だ。眠っている有希の為にBGMの音量も声量も抑えて、宇堂と二人当たり障りない話をする内に、それぞれの家族の話になった。  「三人兄妹の末っ子なんです。上に兄が二人」  「あぁ。八田さん、まんまですね」  「どういう意味…」  「屈託ないところとかバイタリティあるところが、らしいなって」  「宇堂さんの家族構成占い?」  「はは。松下さんが五人姉弟の真ん中でしたっけ?それもなんかわかるな」  「そうそう。松下は真ん中っぽいなって私も思った。何て言いましたっけ、天秤の真ん中…」  「支点?」  「かな。それみたいな感じ。このご時世に、案外大家族っているんですね。眞崎も四人兄弟の二番目でしたよね」  「しかも全員男で、上の三人がみんな年子なんですよ」  「え、三人連続で?うわぁ、壮絶…」  「だったみたいですね。上と下に挟まれてほとんど放置だったって言ってましたね。俺は一人っ子だから想像もつかないです」  「有希ちゃんも一人っ子ですよね」  「そうですね。だからかな、二人でいてしんとしてても、お互い平気で」 「そっかぁ。そういうのも相性に関係あったりするのかな。私と眞崎は、なんか大人二人の割に落ち着かなくて賑やかしいというか…」  言い掛けた八田の語尾が、ふと途切れていった。  そう、以前はそうだった。  賑やかしいのは主に八田の方だったが、眞崎だって、それと同じくらいやかましく対抗していた。  けれど近頃の眞崎はいつもどこかにしんとした空白を抱えていて、八田はその(うつ)ろを、どう埋めればいいのかわからなかったのだ。  「眞崎は、割とめんどくさいでしょう」  唐突に宇堂がそう言ったので、八田は一瞬言葉に詰まった。  「…ううん。全然めんどくさいことは言わないんです。思ってたよりずっと、優しくて。丁寧に、大事に扱ってくれるの。私が好きにしてても何にも文句言わないし、そのくせ自分がして欲しいことは一つも言わないし。でも」  信号待ちで停まった振動でかくんと横に流れた有希の頭を、宇堂が丁寧な仕草で元に戻す。  こういうふうに大切に扱われる有希を見ては、羨ましいと思っていた。  今は自分にもそうしてくれる相手がいるから、羨望の気持ちはない。ただその慈しみが、眞崎が自分に向けてくれるものに重なって、じんと沁み入る。  「…だからかな。あいつに何をしてあげればいいのか、私は全然わかってないの」  信号が青に変わり、宇堂がサイドブレーキを下ろす音が妙に大きく響いた。  「──あいつは意外と甘ったれで。でも甘え下手なんです。だから八田さんは、好きなだけ、あいつに甘えてやってください」  「え、なんかよくわからない…」  素直に戸惑いを見せる八田に、宇堂は楽しそうに笑っている。  「下手だからバランスがわかんないんですよ。八田さんに甘えて貰って初めて、ちょうどいい()り掛かり具合を覚えるんです」  ルームミラー越しに、目を細める宇堂が見えた。  「難解なんですけど…。人という漢字は支え合って…みたいな話?」  「あぁ、そんな感じですね。あの字は結構アンバランスなんで、二人のちょうどいいところを見つけられるといいですね」  んむむ、と八田は腕組みをして少し考え込んだ。  「…宇堂さん達はどんな?」  「俺は別に…。その辺に転がってるんで、その上でこの子が好きにしてくれてたらそれでいいです」  「なんかもうお釈迦様みたい」  はは、と宇堂が笑ったところで、眞崎の家に着いた。  眞崎はマンションの階段下で、壁に寄りかかって待っている。車が停まるのを見て、近付いてきた。  「おかえり」  後部座席のドアに腕を掛けて、八田に声を掛けてから車内を覗き込んだ。  「宇堂さん、すんません。遅くにありがとうございました」  後輩らしく頭を下げる眞崎に「いや全然」と軽く手を振って、宇堂はさらりと帰って行った。  眞崎は八田の手を引いて、二階への階段を上る。  「いつから待っててくれたの?」  「今さっきだよ。宇堂さんがもう着くって連絡くれたから」  運転しつつ八田と話し込みながら眞崎への連絡もしていたのか。そつのない男である。  「楽しかった?」  「楽しかったし、大変有意義でした」  「何だそれ。セミナー帰りか」  「知恵熱出そう」  「何でだよ」  笑いながら眞崎は、八田を先に部屋に入れて玄関の鍵を閉める。サンダルを放るように脱いだ眞崎が部屋に上がるとすぐ、八田はぎゅうと抱きついた。眞崎は不思議そうな顔をしながらも、八田の背中に軽く腕を回して抱き返す。  「何、酔ってんの?」  「ちょっとだけ」  眞崎は八田の顎を持ち上げて顔色を見る。問題ないことを確認すると、ついでのように額に軽くキスをした。  「疲れたんだろ。今日はすぐ寝れば?」  「やだ。眞崎も明日休みでしょ?今日は一晩中いちゃいちゃすんの」  抱き付いた腕にぐぐっと思いきり力を入れると、眞崎は面食らったように軽く目を(みは)った。  「…結構酔ってんだろ」  「酔ってない。さめた」  「お前普段そういうこと言わないじゃん」  「言う隙がなかっただけ。眞崎、いつもスイッチ入るの早いんだもん。珍しく寝ろとか言うから、初めて言えた」  べーと舌を出して八田が笑うと、眞崎は何故か苦しそうな顔をして、ぎゅっと八田を抱き(すく)めた。  八田の顔のすぐ横に、眞崎の頭がある。色の薄い短い髪に頬を擦り寄せると、八田のそれより固い髪が、鼻先をくすぐった。もう嗅ぎ慣れた、眞崎の使うシャンプーの匂い。  「…眞崎。好きだよ」  「……それも初めて聞いた」  「えっ?そんなことないよ、何度も言ってるよ」  「お前が好きって言ったことあるのは、俺の顔だけだ」  「え…えぇー?そんな筈は…」  「ある。会った瞬間から今に至るまでの全記憶掘り返してみろ」  言われて思い返せば確かに──ないかもしれない。いや、ない。なかった。  「嘘……信じらんない…」  「こっちのセリフだよ」  「いや、でも眞崎のいないところでは結構言ってる!」  「知らねぇわ。俺に言えや」  眞崎は忌々しげに舌打ちすると、抱き締める腕にさらに力を込めた。  「…ごめんね。全然気付いてなかった」  「そうだろうな。お前は俺の扱いが結構雑なんだ」  「そんなつもりはないんだけど…ごめんて」  眞崎の背中を手のひらでぺたぺた叩く。  「──それが不安だった?」  内緒話をするような小さな声で八田は()く。眞崎は黙ったまま、何も答えなかった。  「……眞崎のことはほんとに好きだよ。顔だけじゃなくて…いや、凄い好きな顔なのも本当なんだけど…。それだけじゃなくて。意外と努力家だったり負けず嫌いだったりするのも、取っ付きにくいけど情に(あつ)いのも、心配症で優しいのも、私のこと大事にしてくれてるのも、知ってるよ。まだ付き合ってそんなに経ってないけど、前よりずっと好きだよ。私、これからもっともっと、眞崎のことを好きになる」  「──早く」  眞崎は体を離して、八田の顔を両手で挟んだ。  「早く追いつけよ。俺の方がずっと、お前の事…」  顔を歪めた眞崎は、噛み付くようにキスをする。何かに急き立てられているような、息つく隙もない深いキス。どこか必死に、逃げ道を塞ぐように。  そんな事しなくても、どこにも行かないのに。  やっと離れたと思った時、八田はもう立ってもいられず、床にへたり込んでいた。  眞崎は八田の背中に手を回して支えながら、服を脱がせるのに邪魔な大振りのピアスを慎重な手付きで外している。  「…ねぇ、待って。お風呂入りたい」  「また風呂か。お前はしずかちゃんか」  「一緒に入ろ?」  「俺もうシャワー浴びた」  「もっかい入ろうよ。ボディスクラブのサンプル持ってるから、マッサージしてあげる」  「………溜めてくる」  あっさり折れて、外したピアスを八田の掌に押し付けてから風呂場に向かう。  あは、と笑って、八田はその背中を見送った。
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