0人が本棚に入れています
本棚に追加
「はあ――――――っ!」
暴走。
四肢はまるで競い合うように前へ前へと繰り出される。そのすべてはしかし僕の意思によるものとは到底言えず、本能や直観といった神経的な部分に由来するものだった。
本能――危機本能。
「誰か、助っ……」
言い終えることができなかったのではない。
爆発によって音が掻き消され、爆風によって吹き飛ばされたのであった。
「があっ!」
背中から鋼鉄のパイプラインに衝突する。停止する呼吸と、応じて見開かれる瞳孔。飛ぶ唾さえもはっきりと視認可能なほどにスローモーションの視界のそのまっすぐの上空。
そこに奴が、いた。
ジャラララッ! と数珠の音が虚空を切り裂いて鳴る。
まるで辞世の輪唱。
どんな原理なのか、もはや説明はつかない。そこにある男の影は、酷く歪んでいて、紅の空をそこだけ漆黒に染めていた。その周囲を大小様々の球体が遊泳している。異常に長く太い腕。華奢な両腕。笠を被った頭。
僕は思考する。
どうすればいい?
どうすれば逃げられる?
どうすれば生き延びられるか?
「くっそ……」
事態の悪化は三時間ほど前にさかのぼる。
その時のことを僕は思い出す。
あんな奴の興味本位なんかに、付き合わなければ……。
:
「二組の乃木ってさ、頼めばやらせてくれるらしいぞ」
放課後を漸近に待ち合わせた夕刻近くの午後五時。
べっこう飴色に染まった校舎廊下で、同学年の川村がそう言って、僕は咄嗟に飲んでいたイチゴオレを吹き出しそうになる。
「は……はあ?」
その疑問。その驚愕。
しかしそれは、彼の言う「やらせてくれる」の本意に驚愕したというわけではしかしない。
乃木。
その名が出てきたことが、僕にとっては衝撃的だった。
乃木はクラスの中ではあまり目立たないポジションを確保している。友達はいないようで、部活にも入っている様子はない。いつも本を読んでいる。典型的なひとりぼっちという奴だ。彼女の特徴を並べるとそんなところだけれど、別段、誰もこういった特徴をここまで正確に並べられるほど、彼女のことを注目はしていない。
と、思っていた。
川村からその話を聴くまでは。
つまるところ、彼女の美しさは、僕だけが知っているものだとばかり思っていたのだ。
いいや、もう観念して、白状してしまおう。
僕は乃木さんのことが好きだった。
この気持ちを具現化するには、きっと地球じゃキャパシティーオーバーだ。
それくらい、好きだった。
「……それ、本当?」
「おう。中村が言ってたからマジだぞ」
中村、と聴いて僕はさらに気分が落ち込む。中村と言えば女遊びの激しいことで有名だった。先生から直々に呼び出しをくらって叱られたこともあるという。一時期はクラスの女子は全員奴の手に落ちたのではないか、と言われたほどだ。まあこれは誇張がありすぎると思うけれど。
それはともかくとして。
中村本人が、そういったところで見栄を張って嘘をつくとは思えなかった――言わば彼にとってこのジャンルは得意分野であり、加えて相手は、あの口数の少ない乃木である。嘘をつく理由が皆無だ。
「そうか……」
「なに、落ち込んでんの?」
「いや、意外だったから」
「意外って、何が?」
唐突に介入する女子の声。
僕と川村は咄嗟に、無意識的に歩みを止めた。
振り返る。
ストレートでサラサラの髪。
それに隠れてしまいそうな目。
女子にしては高い背丈。
手は後ろに組んで。
胸が強調されるようなポーズ。
でかい。
「……乃木。」
「中村くんは実にお喋りな人だ……呆れるくらい。」
「お喋り、って……じゃああの話、本当なの?」
「さあ? 試してみる?」
「試す、って」
乃木はぐっ、と近づいて。
僕らふたりの顔の、ちょうど中間にまで接近して。
「きみたち、全部言わなきゃわからないのかな?」
そして、唖然とする僕らとすれ違うように進んで。
「もしその気があったら、提灯町の廃ビルに、土曜の午後七時においで!」
と。
それだけ言って、廊下の先に消えてしまった。
どうやって家に帰ったのか、それはほとんど覚えていない。
僕はあまりの出来事に衝撃を受けると同時に、恍惚としていた。
ベッドに向かって思い切り倒れる。
まるで骨抜きだ。
と、そのとき。メッセージアプリの通知音が鳴った。ベッドに寝転がったままスマホを手に取る。川村からだった。
「どうする? 行ってみる?」
「……。」
「川村はどうする?」と送信。
「俺は行ってみる」と帰ってくる。
僕は一度スマホを手放して、あらためて考え直すことにする。これは本当に行ってもいいのだろうか? あんな事実を知った今でさえ僕は彼女のことが気になっているし、この目で確認したい、という気持ちもある。それに、こんなこと――実際にしているのなら、止めないと。
止めさせないと。
危険だ。
「僕も行く」と送信。
まもなくして、
「じゃあ土曜の午後七時、提灯町の廃ビルで待ち合わせよう」
と、返ってくる。
思えば、この時、気付くべきだったのだ。
いや――信じるべきだった。
乃木はそんなことをする人間ではないと。
あれは僕らをからかっただけなのだと。
信じて無視するべきだった。
当日。
「よし……入るぞ」
川村の声に続いて、僕も廃ビルの中へと歩を進める。廃ビルの中には、しかしものはほとんど残っておらず、比較的に綺麗と言えるものだった。けれどそうは言っても、廃ビルは廃ビル。壁には無数の落書きがあり、浮浪者が捨てたと思われるカップラーメンのゴミなどがあたりに散乱している。
そして、そういった落書きの中に。
『たどって』
という文字とともに、矢印がひかれていた。
午後七時に廃ビルに、とは言っても、場所までは彼女は明言していなかった。それはすなわち、到着すれば自動的にどこに『そういった場所』があるのか把握できる、ということを示しているのだろう。と、その時の僕と川村は間抜けにも考えていた。
そう。
間抜けである。
「行こう」
と、川村が言って、走り出す。
廊下の暗闇を裂いて進み、かびたカーペットを土足で上がり、階段を登ってそのまままっすぐに廊下を渡る。湿気た匂いが鼻先をかすめる。斜めに傾いた額縁。放置された一昔前の文庫本。壊れて倒れた椅子。
そして、その先に。
「……あ」
唯一、光の灯っている部屋があった。
当然、すでに電気は通っていないだろう。だからかもしれないが、その明かりは、室内に取り付けてある電気の明かりというよりは、外から持ち込んだ照明のような光り方だった。
ごくり、と同時に唾を飲む。
その先にいる。
その先にある。
高揚感がスピードを増して駆けあがっていく。
心臓の高鳴りのオーバーヒート。
キャパシティはすでにオーバーキル。
今すぐにも破裂しそうだ。
ゆっくりと歩みを始める。
そして、近い川村のほうが先に、その部屋に入った。
「おい、乃木――」
そこまで言って、川村は黙った。
いいや、この表現は少し、というか、かなり不適切かもしれない。
正しくは……言葉を発せなかった。
顔が無ければ、何も物を言うことはできないだろう。
乱暴に。乱雑に。
「は、はあ――⁉」
川村の顔は、巨大なトカゲのような顔の化け物に、
一口に――食された。
バタバタと暴れる川村の両足。
無表情に咀嚼を続けるトカゲ。双眸は焦点を定めず、まさしく一心不乱と言った感じだ。幾度かの咀嚼の後に、川村の身体はピタリと動かなくなる。沈黙、その後に、トカゲが口を開き――唾液と血の混ざった液体を吐き出しながら――「今日は二体か」と、呟いた。
呟いて。
僕の肩へと手を伸ばす。
「……っ!」
反射的。
声明本能としての防衛機能。
その口角を避けるとほぼ同時に。
咄嗟。
手に握るペンを――トカゲの目に、突き刺していた。
「は?」
と、トカゲが言って、自らの顔の状況を確認する。
僕は腰を抜かしてその場に座り込む。
川村? 死んだのか? 食われて?
乃木は? このトカゲはなんだ?
「あああああああ――あああ」
「ひ」トカゲのそのうめき声にようやく状況を飲み込む。まずい……このままでは川村の二の舞になりかねない。まだ死にたくない!
「ああ、あああああ!」
絶叫して慌てて立ち上がり、廊下を走り出した。
この廃ビルの構造が頭の中に入っているわけではない――けれど、そうせざるを得なかった。逃げられるタイミングはおそらくこのタイミングしかなかった。
「てめぇええぇえぇぇええええっ!」
背後から怒声。
「待ちやがれ――――――ええええええ‼」
その音量に驚いて振り向く。
直後。
ぶぉん! と空気を薙ぐ音がして、そこに追いつこうとするかのように、四方の壁が倒壊して、崩れ始める。振り回しているのだ……トカゲは袈裟から取り出した数珠を、縦横無尽に、自由自在、変幻自在に操っているのだ。その数珠が僕の方向へと飛んでくる。
「ひい!」
咄嗟にしゃがんで、結果的に助かった。
その代わりに。
「あ……あああ⁉」
廃ビル全体が。
音を立てて――瓦解した。
廃ビル。
もともと、頑丈なつくりなどしていないのだろう――そのうえ長年整備もされずに放置され続けてきたのだ。そこをあんな、化け物のような数珠に暴れられれば、いとも簡単に倒壊してしまうであろうことは、火を見るよりも明らかだ。
「……っ!」
僕は観念して、一か八か、窓を開け放つと、夜の世界へ飛び出した。
「待て餓鬼!」
背後から数珠の玉が接近する。
飛ぶほかになかった。
「うわああああ――ああ⁉」
割と早く着地した。
「ここ、どこだ……パイプライン?」
そこまで来て思い出す。
提灯町が提灯町と呼ばれている所以――それは、この付近に工場が多いせいで、工場内の各所を照らすための電灯が、遠くから見たときに提灯が揺らめいているように見えるのだ。だからその名を、提灯町。
考えるまでもない。
ここから飛び降りるよりは。
「パイプラインの上を走って逃げたほうが、確実。」
「餓鬼いいぃぃぃいいぃいい!」
と。
背後から声が鳴る。
残響がパイプラインの鉄を振動させる。
僕は走り出す。
:
意識の混濁が段々とはっきりとしてくる。
「あ……」
ぼんやりとした視界。
その先。
目前。
「……餓鬼、よくもやってくれたじゃねえか」
僕を見下ろすように、そこに――男がいた。
笠を被り。
袈裟を羽織り。
数珠を回転させている、男が。
「スペアリブってよお、どこの肉か知ってるか?」
と、始める。
「あれはよお、豚の肋骨の肉を、肋骨ごとえぐり出して焼いて食ってるんだぜ? 俺はあれが好きでなあ」
草履の足が地面を削りながら近づく。
「さて、人間には肋骨が二十四本あるそうだ。お前からスペアリブを作ったら、どんな味がするんだろうな……?」
「や、やめてくれ」
「どうした、怖いのか」
「……っ!」
死を覚悟したとき。
時間がゆっくりになるというのは――どうやら、本当のことのようだった。
ゆっくりと。
トカゲの腕が……振りかぶられる。
怖い。
恐ろしい。
くそ。あんな話に乗らなければ。
目を、閉じる。
衝撃音。
「……?」
しかし、いつまで経っても――死は自分に、牙を剥かなかった。
「害獣ナンバー1099――狩らせてもらうぜ」
眼前。
目を開くと、まずそこにあったのは、男の右足だった。
男。
スーツに手提げかばん。真っ黒な帽子とサングラス。
煙草。
そして、その足の先に――トカゲ男は、顔面からめり込んでいた。
「坊主、なにしてる?」
男は訊く。
「なにしてるって――」
「ここはよお、一般人のいるとこじゃねえんだわ。逃げるならとっとと逃げろよ。」
僕は慌てて走り出す――その瞬間、背後で再び、爆発音のようなものが、鳴り響いた。
「……ああ?」
先程の男の身体。
それを――数珠玉が、貫通していた。
「ルルーシュカよお……甘いぜ。二度も同じ方法でかかってきてんじゃねえよ」
ぐは、と。
男の口から――赤いものが噴き出る。
トカゲは口元の血を拭って、膝をつくその男のほうに近付いた。
まずい。
このままだと、あの男も殺されるだろう。
よく分からないが、唯一彼だけが、あの化け物に対抗する手段を持ち合わせているのだあろう。……男が殺されれば、次は僕だ。休憩はない。逃げてもすぐに追いつかれるだろう。
まずい――どうすればいい?
トカゲはゆっくりと、その男の身体を掴んだ。
そして、大きくその口を開く。
と、そのとき。
があん、と金属音が響いて、トカゲの頭がへこんだ。
自分でも何が起こったのかわからなかった。
なぜ。
なぜ自分は逃げずに――鉄パイプでトカゲを殴っているんだ。
「てめえ……餓鬼、貴様」
瞬間。
キン、と音が鳴って、トカゲの身体の動きが停止した。
「……停止術式――坊主、百円玉はもってるか?」
「持ってるけど――」
「ならそれしかない。最終手段だ。ここに百円を入れろ」
男は言って、手提げかばんを差し出した。確かにそこには硬貨を入れる入り口がある。
「これは?」
「レンタルソウルだ。百円入れて、魂を借り入れろ」
「はあ?」
「いいから早く! お前は逃げずに戦う選択をしたんだ。お前はその選択の責任をとらなくちゃいけない。はやく!」
言われるがまま。
「くっそ……術式を解けルルーシュカ!」
財布を開き。
「畜生うううう!」
こぼした硬貨も拾わずに。
「離せ! 離せよ!」
投入する。
瞬間。
世界が――暗転した。
男の身体が崩れ落ちる。
その瞬間、トカゲは真っ先に僕の方を向く。
振りかぶる拳。
一歩出る前足。
牙。
呼吸。
焦り――焦燥。
トカゲの明らかな焦燥。
それよりも先に。
――――――ぐんっ! と。
身体が回転した。
『坊主。』
聴こえる。
『俺を選ぶたあ、運がいい』
知らない声が。
知らない場所から。
知らない方角から。
『この程度、一撃で良い』
回転を、そのままに。
右手が、トカゲの頬に接触する。
爪でえぐり、
指でつかみ、
腕でまわし、
肘を使って、
回転。
ぐるん! ……と。
「…………!」
手中には。
トカゲの――首。
「は――はあ⁉」
ようやく戻ってきた意識の主導権に、僕は驚愕の声を上げる。
自動的。
その行為はどこをとっても、自分の意思ではなかった。
:
その様子を陰から見守る者がいる。
「……ルルーシュカ殺せたのに、レンタルソウルがまた増えた。」
「お嬢様は阿呆ですね」
「うっさい」
ふたつの影は喧嘩するように、闇の中へと消えていく。
最初のコメントを投稿しよう!