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一章 赤面症
一日の業務が終わり、数馬悠司は自分のデスクから立ち上がった。オフィスの出入り口へ向かおうと足を踏み出したところで、近くから声がかかる。
「よお悠司。この前の話、どうするよ?」
声の主の方へ顔を向けるると、そこには長身でモデルのように端整な顔の男が立っていた。
同僚である南原弘だ。
以前、彼から合コンの誘いを受けており、どうやらその答えを聞きにきたらしい。
悠司は、思案する仕草を取る。
誘いを受けた時点で、すでに答えは出ていたものの、それをすぐに口へ出すのは憚れたため、今まで保留にしていたのだ。
それを今、伝える。
「すまん。用事があるから参加できないわ」
悠司は顔の前で手を合わせ、謝った。
悠司の返答に対し、南原の優男然とした顔が残念そうに歪む。それからため息をついた。
「おいおい本気かよ。今回の相手は上玉ばかりだぞ。お前、彼女いないんだろ? 何の用事かは知らないけど、もったいないって」
南原の言葉に悠司は、前に見せられた画像のことを思い出した。合コン相手である女性たちの姿を写した写真。確か、川崎に存在する化粧品会社のOLたちだったと思う。綺麗に化粧を整えた美女ばかりだった。
悠司は、その女性たちと合コンしている自分の姿を想像した。その途端、一瞬だが自身の顔に朱が差したことを自覚する。目の前の南原の様子をさりげなく窺うと、幸い、彼はそのことに気がついていない様子だった。
南原は探るような目付きになる。
「この間もお前、合コン断っていたよな。何かあるのか? 飲み会が苦手……ってわけでもないもんな。ちゃんと会社の飲み会には参加しているし。もしかして、女じゃなくて男の方が好みだとか?」
冗談半分、といった質問に、悠司は肩をすくめた。
「そんなんじゃねーよ。本当に忙しいだけだ」
そう言ったものの、これは嘘である。参加しようと思えば、難なく可能であった。しかし、とある理由があって無理なのだ。かと言って、男が好きだとかではない。
南原は、映画俳優のように整った顔に、微笑を浮かべて言う。
「お前がそう言うんならそうだろうけどよ、同期として心配しているんだぜ。うちの部署、女がいないだろ? このままだと出会いもなく、女っ気のない寂しい生活を送るハメになるからさ。それに、せっかくそこそこの良い会社に入ったんだから、有効活用しないのももったいないしな」
悠司と南原が勤める『松宮商事』は、横浜でも有数の大手物販会社である。そこの資材調達部に二人は配属されていた。三年前、新卒で入社して以降、二人共ずっとこの部署のままである。
そのため、新卒で同期同士、腐れ縁と言うべきか、南原とは仲が良かった。
悠司はため息をつく。
「余計なお世話だよ。まあ、また今度誘ってくれ」
その後、南原といくつか言葉を交わし、二人は別れた。
悠司はタイムカードを押した後、オフィスを出て、エレベーターで一階へと降りる。そして、玄関ホールを通って、会社から外へ出た。
すぐに、ひんやりとした冷たさが体を包む。
十一月も半ばに入り、寒さが強くなっていた。日が落ちるのも早くなり、辺りはすでに薄暗くなっている。
悠司は、駅へと向かって歩き出す。悠司の勤める『松宮商事』の会社周辺は、オフィス街であり、横浜市内にしては静かな場所だ。すれ違う人々もスーツ姿の者が多い。
しばらく歩くと、やがて、最寄り駅である関内駅が見えてくる。駅前は会社周辺と違い、賑やかだ。
悠司はさらに駅に近づく。そこであることに気がついた。駅前の歩道で、複数の女の子がチラシを配っているのだ。
周辺の街灯やネオンに照らされ、女の子たちの服装がはっきりと見て取れた。寒くなってきたにも関わらず、太ももがむき出しのカラフルなメイド服のような姿だ。
避けては通れない場所に彼女たちはいるので、悠司は俯き加減で、そのすぐそばを通り抜けようとした。すると、目ざとい女の子の一人が、こちらに目を付ける。
「こんばんわ。お兄さん。これをどうぞ」
悠司の心臓がドキリと跳ね上がった。悠司は、立ち止まり、ゆっくりと顔を上げる。
ティーンアイドルのような可愛い容姿をした女の子が、笑顔でチラシを差し出していた。悠司は反射的にそれを受け取ってしまう。
悠司は、チラシに目を落とす。チラシは、可愛らしくポップ調にデザインされており、ケーキショップが新規オープンされる旨が記載されていた。場所は、関内駅前に建っているアトレの一階らしい。
ケーキショップの宣伝のために、女の子たちの服装もスイートな仕様となっているようだ。もっとも、おそらくだが、この女の子たちは宣伝のために雇われた宣伝員であり、実際に店舗で働くスタッフは、別にいるのだろうと思われた。
悠司にチラシを渡した女の子が、話しかけてくる。
「お兄さん、彼女とかいます?」
悠司が口を噤んだまま硬直していると、女の子はこちらが手にしているチラシを覗き込んできた。シャンプーか香水の香りだろうか、とても良い匂いが鼻腔をつく。
女の子は、チラシの隅を指差して言った。
「ほらここを見てください。オープンから一週間、カップルは全ケーキが半額なんですよ」
宣伝員の女の子は、目を輝かせながらそう紹介すると、こちらへ顔をぐっと近づけてくる。
悠司は思わず、息を飲んだ。
「お兄さんイケメンだから、彼女いるでしょ? 今度一緒に買いにきて下さいね」
悠司は口ごもりながら、慌てて首を振る。
「い、いや、そんなのいないです。それじゃあ」
悠司は、そそくさと女の子の側を離れた。女の子の怪訝な視線が、背中へ突き刺さっていることが感じ取れた。
足早に駅へと歩きながら、もしも、今自分の顔を鏡で見たら、酒を飲んだかのように、さぞかし真っ赤に染まっていることだろうと思った。
悠司は、関内駅の改札を通り、階段を登って、下りのホームへと立つ。周りは帰宅途中の会社員や学生で混雑していた。
その中で悠司は、そっと自分の顔に手を触れる。もう赤みは取れているだろうが、かわりに嫌悪感と劣等感が押し寄せてきていた。
まただと思う。
ずっと以前からそうだった。多分、思春期を迎えた辺りから。女性と面と向かい、接するだけで、強い動揺と緊張に襲われるのだ。度を越えると、先ほどのように、すぐに顔が赤くなってしまう。
そして、その『症状』は、相手の容姿が魅力的であればあるほど、より顕著に現れた。
例外は、母親などの身内や、大きく離れた年上や年下など。そういった女性とは、相手がどうであれ、普通に接することができていた。
原因はわからない。学生時代、この症状を知った友人たちからは、非常に純情で初心な性格のためだと思われていたようだが、実際のところは、自分でも判断しかねた。悠司自身、人並みの性欲はあるし、女性の体にも興味がある。他の男と同じように、アダルト雑誌も部屋に置いてある。当然、そのような画像や動画もパソコン内に所持している。
本当に純情で初心な人間なら、それにすら興味を持たないのでは、と思う。
特に、もう一つの自分の『顔』を考えるならば、より一層、純情な人間からかけ離れているといえるはずだ。
しばらくすると、列車がホームへとやってきた。悠司は人波に押されるようにして、列車に乗り込む。
車内は満員で、座ることはおろか、満足に動くこともできなかった。悠司は仕方なく、窓際で手すりに掴まることにする。
列車は出発し、京浜東北線を南へと下り始めた。
悠司は、窓の外を流れる横浜市内の夜景を眺めながら、小さくため息をつく。
いい年して異性と接するだけで、思春期の男の子のように狼狽する情けない自分。南原から誘われた合コンも断らざるを得なかった。
この症状が出る度に、自分自身に嫌気が差していた。学生の頃、そのせいでからかわれたこともある。
幸い、今の職場では、配属された部署に女性がいないため、周囲の人間にこの症状が発覚する恐れは低いのだが、油断は禁物である。いつ何時、何がきっかけで知られるかわからない。
もしもそうなれば、同僚たちは、自分に対し、どのような印象を抱くのだろうか。かつての同級生たちのように、馬鹿にしてくるのか、それとも、腫れ物に触るように接してくるのか。
考えただけで嫌になる。
やがて、列車は、根岸駅に到着した。大勢の乗客と一緒に、悠司はホームへと吐き出される。それから駅を出て、メインストリートである中通りへと入り、自分のアパートがある東町方面へと向かって歩く。
アパートへ向かう間も、何組か、制服を着た学生カップルを見かけた。いずれも楽しそうにお喋りをし、仲良く手を繋いで歩いていた。
街でそのようなカップルを目にする度に、思ってしまう。おそらく、自分には決して縁のない光景なのだと。異性とろくに話せない自分に、彼女などできるわけがなかった。合コンにすら参加できないのだから。
しばらくすると、悠司は自分のアパートへと到着した。寂れたようにも見える、独身用の質素なアパートだ。その二階の一番奥に、自分の部屋があった。
悠司は、外階段を上がり、二階の自分の部屋の前に辿り着く。そして鍵を開け、中に入った。
中は1DKの間取りとなっていた。独身用だが、内部は広めに取られた構造をしており、家具も余裕を持って置くことができる部屋だ。
悠司はダイニングキッチンで手を洗い、奥の洋室へ向かう。そこでスーツを脱ぎ、部屋着へと着替えた。
一通り、帰宅後の体裁を整えると、悠司は、部屋の隅に置いている長机の前までいき、アーロンチェアに腰掛けた。
悠司は長机へ目を向ける。机の上には、デスクトップパソコンのモニターが設置してあった。モニターは二つあり、デュアルモニターとして機能している。一つが正面に、もう一つが右側に。
正面のモニターの前に、液晶タブレットが置かれてあった。これはワコム製の16インチの液晶ペンタブレットであり、漫画作成に使用しているものだ。
悠司は、机の下にあるパソコン筐体の電源を入れ、ウィンドウズを立ち上げた。
正面のモニターに、デスクトップ画面が表示される。手元の液タブにも、全く同じものが映っていた。パソコンから液タブへと出力しているため、画面がリンクしているのだ。この液タブを操作すれば、パソコンも同様に操作する形になる。
悠司は、タッチペンを手に取り、液タブの画面上を走らせる。そして、デスクトップに置いてあるクリップスタジオをクリックした。クリップスタジオは、漫画の原稿作成用のソフトウェアである。
クリップスタジオは、すぐさま起動し、作成途中の原稿用紙が画面に映し出された。
原稿用紙には、美少女の全裸体が描かれてあった。その次のコマには、その美少女が同級生を性交へと誘うシーンがある。
これが、悠司のもう一つの『顔』だった。日向出版というマイナーだが、ちゃんとした出版会社から発行されているアダルト雑誌の――編集部などの特定の人間以外は、誰も知らない――漫画家としての悠司。
きっかけは、大学の頃から描いていた大手少年誌向けの漫画作成の練習として、アダルト漫画や同人誌に手を付け始めたことにある。
完成したアダルト漫画を、たまたま催していた賞に応募したところ、見事大賞を取り、デビューに至ったのだ。それから定期的に、アダルト漫画の仕事を貰うようになり、現在も継続して描いていた。
しかし、悠司の本来の夢は、大手少年誌でのデビューにある。今の自分の立場は、通過点に過ぎないと思っており、現在も少年誌向けの漫画を同時進行で描いていた。ペンネームも別である。
とはいえ、アダルト向けだろうと、自分の漫画を評価してくれた編集部や担当者には、十二分に感謝はしていた。
悠司は、液タブの上でタッチペンを操作し、描きかけの漫画に線を加え始める。ちょうど少女の股間の部分だ。昨夜、この原稿を閉じる直前に気になった箇所である。
少女の股間にタッチペンを走らせながら、改めて不思議に思う。女性と接するだけであれほどに緊張と動揺が走る自分が、アダルト漫画やイラストなどの作成においては、何ら臆面なく女性の裸を描くことができていた。一体、どんなメカニズムだろうか。
一通り手直しが済むと、悠司はパソコンを起動させたまま、机を離れた。そして、冷蔵庫から食材を取り出し、夕飯を作り始める。
簡素な夕食を終わらせ、再び作業へと移った。クリップスタジオ内のファイルを切り替え、今度は別の原稿を表示させる。
これも描きかけの漫画だが、この作品には女の子の裸などは出てこない。現在も画面に映っているのは、巨大な剣を構えた少年だ。れっきとした、少年誌向けの硬派なファンタジーものである。
今度開催される少年誌の漫画新人賞に向けて製作している作品だ。これでデビューを果たせれば、と切に思う。
悠司は原稿に手を付け始めた。レイヤーごとに分けられた下書きの上に、ペン入れを行っていく。
正面のモニターにも、手元にある液タブの画面と同じものが表示されているため、まるで透明人間が書き込んでいるかのように、勝手に漫画が作成されていった。
しばらくの間、作業に没頭する。
一時間近くが経過し、そろそろ集中力が切れ始めた頃。洋室のテーブルの上に置いてあったスマートフォンが、着信音を響かせた。
悠司は、作業を止め、スマートフォンを手に取る。ディスプレイを見ると、日向出版の大壁洵子の名前が表示されていた。
悠司は電話に出る。
「もしもし」
「あ、悠ちゃん? 遅くにごめんね。今電話大丈夫?」
受話口から、年配の女性の声が聞こえてくる。
「ええ。大丈夫ですよ」
「よかった。原稿の話なんだけど……」
大壁洵子は、悠司がアダルト漫画家としてデビューして以来、世話になっている担当編集者だ。とても優秀なベテラン編集者で、デビューした悠司に、様々なアドバイスや手解きを教えてくれた女性である。
洵子は尋ねる。
「間に合いそう?」
「ええ。ちゃんと期限までには入稿できそうです。今も描いている最中でした」
悠司は、モニターに表示されている少年漫画の原稿を見ながら言った。
実際のところ、アダルト漫画のほうは、ギリギリ間に合うかどうかといったラインである。しかし、少年漫画の新人賞に応募するためのこの原稿を優先したくて、後回しにしていた。
洵子の落ち着いた声が聞こえる。
「そう。それならよかったわ。でも無理しないでね。悠ちゃん、今度ある新人賞の原稿も描いているんでしょ? こっちのほうはまだ少し融通を利かせられるから、そっちに力を入れても構わないわよ」
悠司は、苦笑する。入稿する原稿そっちのけで、新人賞の漫画を描いていたことはお見通しらしい。
「ありがとうございます。でも、ちゃんと間に合わせますよ」
洵子が、電話越しに微笑んだことがわかった。
「本当に無理しないでね。悠ちゃんの夢が、少年誌のデビューだってことは私も知っているから。できる限り応援するつもりよ」
洵子は穏やかにそう言う。建前ではなく、本音だとわかる口調だ。
悠司は礼を口にする。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
そして、洵子と軽く雑談を交わし、悠司は電話を切った。
再び静寂が部屋に訪れる。悠司は、パソコンの前に戻り、原稿作成を再開した。
しかし、なぜか思ったように筆が進まない。まるで風で吹き飛んだかのごとく、モチベーションがなくなっているのだ。
悠司は、仕方なく、それまでの作業を保存し、原稿を閉じた。それからアダルト漫画のほうの原稿を開く。
タッチペンを動かし、続きを描き始めた。不思議に、こちらの原稿は難なく進んだ。あっという間に、一日のノルマを越えることができた。
このペースなら、ギリギリとはいえ、締め切りには間に合うだろう。何とか、新人賞に応募するための原稿を優先させることができそうだ。
本来なら、契約がある仕事を先に仕上げるべきなのだが、新人賞の応募締め切りが残り一ヶ月を切っている。何か不測の事態が起きるかわからないため、極力、賞への原稿を早めに仕上げたかった。少年誌のデビューこそが、悠司の本願なのだから。
悠司は、念願の少年誌デビューを叶えた自分の将来の姿を夢想しながら、作業を続けた。
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