二章 新しい上司

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二章 新しい上司

 「新しい課長が配属されるって?」  翌日の昼休み、悠司は会社の四階にある休憩室で、南原に質問した。  南原は頷くと、メンズマッシュの髪をかき上げる。  「ああ。急な話だけど、すぐにでも着任するらしいぞ」  現在、二人がいる休憩室は、大勢の社員で賑わっていた。悠司と南原は、隅にある四人がけの席に、向かい合わせに腰掛けている。  南原は続けた。  「まあ、事情が事情なだけに仕方ないけどな」  南原は、腕を組んで独り言のようにそう呟く。  少し前、悠司の部署にいる課長が、急病で長期入院することになった。そのため、課長職が不在のまま、業務が継続されている状況であった。  その埋め合わせとして、急遽、新しい課長が別の部署から転属されることになったのだ。  「どんな人かな?」  悠司がそう訊くと、南原は目を輝かせながら答える。  「それがさ、なんと女性みたいだぜ」  南原の言葉を聞き、悠司の胸がざわめいた。思わず、唾を飲み込んでしまう。  「そ、そうなんだ」  南原は、意味深な笑みを浮かべ、手を広げて言った。  「ああ。しかも美人らしいぞ。年は俺らよりも二つくらい上みたいだけど」  人付き合いの豊富な南原は、他の部署の人間とも交流が深い。ちゃんと情報収集を済ませているようだ。  南原のリークを聞き、悠司の心は重くなった。まさか新しい上司が女性とは。しかも美人。もしもそれが本当なら、自分の症状がこの会社でも露見されてしまうかもしれない。  嫌な予感がした。  静かになった悠司を気にすることなく、南原は新しい女性上司への期待を口にしている。もしも相手が独身なら、遠慮なく狙うつもりらしい。  そのとき、背後から、誰かがこちらに声をかけてきた。  「新しく配属される課長の話してるの?」  若い女性の声。悠司が振り向くと、眼前に篠澤佐奈がいた。手には紙コップを持っている。つい先ほど昼食を済ませ、ここにやってきたようだ。そして、偶然、自分と南原の会話の内容が耳に入り、なぜか気にかかったらしい。  「ああそうだよ。美人の女性みたいだ」  南原がそう答えると、佐奈は南原ではなく、こちらに向かって言う。  「数馬君も美人の上司がくるから、テンション上がっているんだ?」  「い、いや、そういうわけじゃ」  悠司はあたふたと否定する。  それを見て、佐奈は子供のような屈託のない笑顔を見せた。べリーショートの髪が小さく揺れる。  篠澤佐奈も、南原と同じく、悠司と同期の人間だった。部署は総務課になるが、同じ部署に同期がいなくて寂しいせいか、たまにこうして自分たちに話しかけてくることがあった。  「数馬君は年上の女性が好みなんだね」  佐奈は許可を取ることなく、悠司の隣に腰掛けてくる。シャンプーの良い香りが、ふわりと漂ってきた。  「そ、そんなことないよ。別に好みとかないから」  悠司はどきまぎしながら言う。  「そう言って、もしかして狙っちゃうのかな?」  佐奈はイタズラっぽく笑う。  佐奈は天真爛漫でボーイッシュな女性だ。それでいて、顔も結構整っており、悠司の症状が出やすい相手である。そのため、極力避けるようにしていたのだが、こうやって不意を突かれて向こうからやってこられると、対処のしようがなかった。  悠司は、顔が赤くならないよう意識しつつ、平常心を心掛けながら答える。  「勘弁してよ。会社でそんなことするわけないから」  「本当に数馬君、真面目なんだね」  佐奈はこちらの顔を見つめながら、感心したように言う。  南原が口を挟む。  「まあ、俺は遠慮なく狙うけどね」  悠司はため息をついた。  「それは好きにすればいいさ」  実際、もしもその美人上司と南原が親密になっても、こちらには関係がない。自分は極力、症状を悟られないよう善処するのみだ。もう恥はかきたくないし、変な目で見られたくもなかった。  その後、三人は雑談を交わす。佐奈が頻繁に話を振ってくるため、常に緊張していた。最後まで、顔が赤くならなかったかと、気が気ではなかった。  それから二日後。新しい課長が転属されてくる日を迎えた。  その課長の名前は前納理緒といい、やはり女性であった。  朝礼の際、顔見せの挨拶が行われる。資材調達部のオフィスにあるホワイトボードの前に、皆が集まった。  衆目の中、前納理緒は、ゆっくりと頭を下げた。  「企画部から配属されてきた前納理緒です。よろしくお願いします」  凛とした声がオフォスに響き渡る。隣にいた南原が、周りに気づかれないよう、小さく口笛を吹いたことが悠司にはわかった。  理緒は噂通り、とても綺麗な女性だった。スラリとしたモデルのような体型で、容貌も鼻筋が通った美形である。名前は忘れたが、アクション映画に頻繁に出演している有名女優に似ていると思った。  彼女は、結婚指輪を付けていなかった。  「前納君はとても優秀な女性だから、皆も頼りにしていいぞ」  理緒の隣にいる神崎部長が、自身の禿頭を撫でつつ、どこか誇らしげに言う。  理緒はにっこりと微笑むと、資材調達部の面々の顔を静かに見回した。切れ長の気が強そうな目。その目が、皆の姿を掠め、通り過ぎていく。男たちは皆、色めき立ったようだった。  悠司は、彼女と一瞬だけ目が合う。悠司は、なぜかその視線に、冷たいものを感じた。まるで、堅牢な鉄の扉から覗いているかのような、誰にも心を許そうとはしない封鎖された感情。それが、瞳の奥に渦巻いている気がした。  前納理緒が悠司の部署に配属され、数日が経った。  その間、彼女についてわかったことがいくつかある。その最たるものが、彼女がとてつもなく優秀であることだ。  配属されてきたばかりにも関わらず、悠司の部署の業務をほぼ全て把握していた。見積書や発注書の作成も完璧であり、他部門との調整も難なくこなしていた。指示も的確で、まるで何年もここで働いているかのようだった。  前の課長よりも遥かに有能であることは、早いうちに判明した。  他にもわかったことがある。それは、彼女が非常に厳しい性格だという点だ。新任の課長であることなどお構いなしに、説教や叱責は当然のように行われた。反論しようものなら、その何倍もの応酬が襲いかかった。  美人の裏に隠された鬼のような顔に、皆は早々に震え上がった。  それでも、優れた美貌と凛とした雰囲気のため、彼女は男性社員からは非常に人気だった。南原は予告どおり、さっそくアタックしたようだが、結果は見事玉砕したらしい。けんもほろろで、全く相手にされないばかりが、罵詈雑言を浴びさせられたようだ(それはそれで、素敵だったと南原は語ったが)。  南原曰く「告白した相手からあれほどの拒絶は初めて」らしく、前納理緒は相当な堅物であるとの見解を示した。  その弊害か、彼女から南原は嫌われる結果となり、人一倍、目の敵のように厳しく当たられるようになった。さすがの南原も、辟易しているようだ。  運が良いのか、悠司は、まだ理緒から叱責などは受けたことがなく、無傷で済んでいた。そもそも、彼女といまだ面と向かって接したことすらなかった。  だが、それでよかったと思う。あんな美人と面と向かって話でもしたら、確実に自分は動揺し、赤面すること請け合いだろう。その時点で気持ち悪がられ、もしかしたら南原のように目の敵にされるかもしれない。そうなれば、甚大なストレスに晒され、漫画創作に支障が出る恐れがあった。  現在、新人賞へと応募予定の漫画は順調に進んでいる。制作に対し、悪影響を与える要素は排除したかった。  だからこそ、前納理緒と関わらない今の状況がベストだと言えるのだ。  そう思っていた矢先のことであった。  「数馬さん、ちょっといいかしら?」  昼休憩の最中、悠司がオフィスに戻ってきたときだった。  理緒から唐突に話しかけられた。  悠司はしまったと思う。作成途中の検収書を仕上げたくて、早めに休憩を切り上げオフィスへ戻ってきたのだが、それが仇になったようだ。  前納理緒は、休憩をほとんど取らない。その点は、昼休憩のときも同じらしく、一人で食事を済ませた後、すぐにオフィスへ戻ってきているようだった。  それを知らずに、のこのことデスクへ舞い戻った悠司が、目を付けられたというわけだ。  現在、オフィスには悠司と理緒以外、誰もいなかった。  静まり返ったオフィスで、悠司は理緒と面と向かい合う。  「は、はい何でしょう?」  悠司は、ざわめく心を抑えつつ、そう答えた。  理緒は、整った顔をこちらに向けて訊く。  「検収書のことなんだけど……。提出まだかしら?」  ぎくりとする。本来、検収書の完成は、午前までがデットラインであったが、色々野暮用ができたため、のびのびになってしまっていたのだ。その補填のため、こうして早めに休憩を切り上げたのだが、やはりそう問屋は卸さないらしい。  とはいっても、検収書が必要になるのは明日であるため、今日中に仕上げれば問題はなかった。前の課長なら、簡単にそれを許容してくれていたのだが、この新しい課長は、どうなのだろう。認めることは叶わず、烈火のごとく怒るのか。  悠司は戸惑う。そこへ、理緒がじっと悠司の顔を見つめてきた。思わず悠司は、硬直する。  とても綺麗な顔。鼻梁は高く整っており、肌も陶器のように艶やかな白。まるで西洋人形のような美しさがある。  理緒の容姿を眼前で確認し、悠司の顔がかっと赤くなった。  症状が出たのだ。  悠司は慌てて目を逸らす。だが、顔の赤みはなくならない。彼女もすぐに、悠司が赤面したことを悟ったはずだ。  理緒がこちらを凝視していることが、肌で感じ取れた。どうしよう。変に思われているかもしれない。  だが、まずは業務の問題が先決だ。今、上司から叱責を受けるかどうかの瀬戸際なのだから。  悠司は、再び理緒に顔を戻し、目を合わせないよう心掛けながら、頭を下げた。  「も、申し訳ございません。検収書はまだ完成していないんです」  頭を下げたまま悠司は固まる。頭上から、理緒が小さく息を吐いた音が聞こえてきた。やはり、激怒するのか。  理緒の声がオフィスに響く。  「数馬さん、頭を上げて。そこまで謝らなくていいから」  悠司は言われるまま、顔を上げる。理緒の穏やかな表情がそこにあった。この部署に着任して以来、ずっと目を三角にしていた彼女だったが、こんな表情は初めて見た気がする。  「午前、色々忙しかったんでしょ? 検収書は明日までに完成すればいいから、気にしなくていいわ」  悪い点を取った子供を励ますような、柔らかな口調で理緒は言う。  悠司は呆気に取られた。これまでの他の社員たちとのやりとりを見る限り、この時点で激怒し、罵声が飛び出してもおかしくなかった。なのに、不思議なほどに彼女は穏やかだった。  幸運にも、今日は機嫌が良い日なのだろうか。  何にせよ、怒りを買わなかったのは僥倖である。  「は、はい。ありがとうございます」  悠司は改めて、頭を下げる。多分、未だに自身の顔は赤くなっているのだろうが、そこにも理緒は特別な反応を示さなかった。  顔を上げた悠司と理緒は目が合う。理緒は、優しげに微笑んだ。  午後、悠司は完成した検収書を理緒へと提出した。彼女は快くそれを受け取ってくれた。  「お疲れ様。無理させてごめんなさいね」  「い、いえ。こちらこそ遅くなってすみませんでした」  悠司は念入りに謝罪した。  理緒を前にしたせいで、再び自分の顔に朱が差し始めたことを自覚する。心の底から自分が嫌になった。女性が上司になったばかりに、この症状が多発しているのだ。  だが、理緒はこのときも特に大した反応を見せず、笑顔で答えた。  「ううん。今日中に仕上げてもらっただけでも助かるわ。ありがとう」  それから続ける。  「数馬さん、次の納品書も、無理して急がなくていいからね」  「あ、ありがとうございます」  悠司は礼を言って、その場を離れた。  デスクに戻る最中、悠司はほっとする。本当に今日は彼女の機嫌が良い日のようだ。叱責がないばかりか、こちらを気遣ってくれている様子まで見せていた。  しかも、悠司の赤面にも奇異の目を向けることはなかった。もしかすると、根本的に彼女が他人の顔色に無頓着な人間なのか、あるいは、自分が思うよりも赤面の度合いが低く、単に気づかれていないだけなのかもしれない。  いずれにしろ自身のコンプレックスを刺激されなかったのは、精神衛生上、良い結果だ。  悠司が自分のデスクへ戻ると、すぐさま南原が話しかけてきた。  「悠司、どうだった? こってり油を絞られてきたか?」  悠司は首を振った。  「いや、全然怒られなかったよ」  南原は、口を尖らせた。  「なんだよそれ。検収書、遅れたんだろ? 何で怒られなかったんだよ」  「さあ。多分、今日は機嫌が良い日だったんじゃないかな?」  「そんなことはないと思うぞ。俺なんて、午後の業務が始まってから即座に呼び出し喰らって、激怒されたんだからな。しかも、ただ検品表に押した印鑑が少し傾いているってだけの理由でさ」  「お前の場合は、自身の行いのせいで目の敵にされてんだよ」  相も変わらず、南原に対し、理緒の当たりは強かった。一日一回はどんな些細な理由だろうと呼び出され、叱責を受けていた。  「まあ、確かに前納課長は俺に厳しいけどさ、俺以外にもよく激怒しているぜ。それなのにお前は無傷って、どんだけ運がいいのよ」  「そう言われてもな」  悠司は苦笑する。  確かに幸運であった。お陰でストレスを溜めずに済んだ。これで漫画創作にも支障が出ることはないだろう。  これは良い兆しなのかもしれない。そう思った。このまま漫画を描き上げて、念願のデビューを果たせることの暗示ではなかろうか。  悠司は、予感した。  希望的観測は、即座に打ち砕かれる。マーフィーの法則だが何だか知らないが、希望を持った矢先、不幸が起こるのは人間が生きる上で宿命と言っていいくらい、当たり前の出来事である。  悠司は、それを痛感した。  翌日の出来事である。  納品書を理緒に提出し、次の作業に取りかかったときだった。同僚の岡崎勇吾が悠司の元へやってきて、悠司の肩を叩いたのだ。  何かと思って岡崎の顔を見ると、岡崎は身につまされたような暗い顔をしていた。  理由を尋ねると、岡崎は答える。  「納品書のことだけど……」  聞くと、先ほど悠司が提出した納品書に不備があったらしい。岡崎がダブルチェックした際に発覚したようだ。  本来なら、そこで悠司の元へこっそりと差し戻しし、訂正をすれば事なきを得るのだが、今回はそう上手くいかなかったようだ。  岡崎は手を合わせて謝る。  「すまん。何とか上に隠そうとしたけど、無理だったわ」  納品書の不備は、理緒に知られてしまったらしい。そして、即座に呼び出しが行われたのだ。今すぐ、自分の元へくるようにとの言伝だった。  悠司は青ざめる。全て己の責任だとはいえ、とうとう自分の番が回ってきたのだと思った。希望を抱いた矢先、これとはなおさら悲しい。  「ようやくお前も年貢の納め時だな」  近くで話を聞いていた先輩の新島隆一郎が、楽しげに言う。彼もよく理緒から絞られていた。  いつの間にかそばにきていた南原も、それに加勢する。  「課長の恐ろしさを体験してこい。そして俺たちの気持ちをとくと味わえ」  悠司の気持ちなどお構いなしに、皆は盛り上がっていた。  岡崎は言う。  「課長は第二会議室で待っているらしいよ」  「わざわざ別室に呼び出しとは、課長相当お冠だな」  南原がはやし立てる。  悠司は深くため息をつき、デスクから立ち上がった。それから皆に見送られながら、第二会議室へ向かう。  心が暗く落ち込んでいた。昨日のように、機嫌よく見逃してくれるなんて展開にはならなかったようだ。観念するしかない。  足取り重く、悠司はオフィスを歩いた。そして、理緒が待つ第二会議室へ辿り着く。  悠司は深呼吸をしたあと、会議室の扉をノックした。中から「どうぞ」という理緒の静かな声が聞こえてくる。  「失礼します」  悠司は扉を開け、中へと入った。  窓際に、理緒がいた。陽光を受け、セミロングの髪がシルクのような輝きを放っている。  悠司は唾を飲み込んだ。これから叱責をしてくる相手と相対することほど、嫌な気分になるものはない。このまま会議室を飛び出し、自分の部屋に帰りたくなった。そしてそのまま創作活動に着手できれば、どんなに素敵だろう。  理緒はこちらを見つめたままだ。悠司は覚悟を決め、理緒の元へ歩を進めた。  理緒の眼前へと悠司は立ち、正面から彼女と顔を合わせる。彼女の表情を見る限り、特に激昂しているよう見えないのは、願望が生み出す錯覚なのか。  理緒は口を開いた。  「わざわざ呼び出してごめんなさいね」  穏やかな声。悠司は、怪訝に思う。やはり怒っていないのだろうか。それとも、ここから急転直下で激怒するのか。  悠司は言う。  「いいえ。自分が悪いんですから。あの、課長、ミスを起こして申し訳ありませんでした」  深々と頭を下げる。すると、理緒は慌てた声を出した。  「違うの数馬さん。別に叱責するためにあなたを呼び出したわけじゃないから」  頭を上げ、理緒の顔を確認する。彼女は気を遣うような表情をしていた。嘘ではなく、本気で言っているようだ。  理緒は言葉を継ぐ。  「ミスは誰にでもあるわ。それに、岡崎君が早めに見つけてくれたお陰で問題にはならなかったし……。だから気にしすぎは駄目よ」  「はあ」  悠司は訝しんだ。だったらどうして、わざわざ悠司を呼び出す真似をしたのか。理緒の意図が読めなかった。  『叱責』はないが、『ペナルティ』として無理難題を押し付けようという魂胆でもあるのか。  仮にそうだとしても、彼女の様子はどこかおかしかった。  そして、悠司は自身の顔が赤くなり始めたことを自覚する。今まで叱責への恐れがあったたため、マスキングされていたが、心が落ち着いてきたことから症状が表れ出したのだ。  さらに居心地が悪くなる。今すぐにでもここから逃げたかった。  無言になった悠司へ、理緒は微笑んだ。窓から差し込む光が、彼女をヴェールのように美しく包んでいる。  理緒はある質問を行った。それは、突拍子もない内容だった。  「ねえ数馬さん、あなたって恋人いるの?」  悠司は耳を疑う。この人は一体、何を言い出すのだろう。冗談のつもりなのか。  「あ、あのどういう意味でしょうか?」  質問の意図が掴めず、悠司は戸惑いながら、逆に質問を行った。  「そのままの意味よ。あなたに彼女がいるのかどうか訊いているの」  理緒の顔は真剣だった。彼女が言う通り、言葉以外の意味はないらしい。  依然、質問の意図がわからないが、悠司は正直に答えることにした。嘘をついても意味はない。  「い、いえ。いません」  そう言った後、さらに自身の顔の朱が濃くなったことがわかった。異性と、しかもこんな美人と恋人にまつわる話をしたら、赤面が強くなるのは当たり前だ。現在、すでに飲酒したときのように赤ら顔になっているだろう。  確実に目の前の理緒には、そのことが見て取れているはずだ。  このままでは変に思われてしまう。悠司はあせった。だが、こうなってしまっては、どうすることもできない。  すると、理緒はこちらに向けて嬉しそうに微笑んだ。期待した返答を得られたときのような、満足気な様子がある。  それから、彼女は言う。それは想像だにしなかった言葉だった。  「ねえ数馬さん。私と付き合ってみない?」  「え?」  理緒の言葉をすぐに理解できなかった。  きょとんとしている悠司に向かって、彼女は再度口を開いた。  「だから、私とお付き合いをして欲しいの」  ようやく彼女の言葉の意味が理解でき、悠司は愕然とする。  心臓が高鳴り、頭が真っ白になった。なぜ、という疑問が脳内を駆け巡る。  それから火を吹いたように、顔が限界まで赤くなったのは言うまでもない。  会議室から自分のデスクに戻る最中、ずっと理緒の言葉が耳にこびりついていた。  あの後、彼女はこう言った。  「突然、告白してごめんなさい。今すぐ返事を出さなくていいわ。今日、仕事が終わったら、ここで待っているから、そのとき返事を聞かせて」と。  理緒は真剣だった。冗談やからかいではなく、本気で悠司に告白したことがわかった。  衝撃と混乱でつい、まともな対応をすることができなかったが、仕事終わりに返事を伝えることは了承することができた。  それまでに、自分の答えを決めなければならない。  オフィスを歩きながら、少しずつ、悠司は冷静さを取り戻していた。顔の赤みもほとんど消えただろう。  かわりに、大きな喜びが胸中を覆い始めた。  これまで一度も彼女ができたことがない自分が、あんな美人から告白されたのだ。歓喜に包まれないわけがない。  カーペットを踏み締める自分の足が、雲の上を歩いているように浮ついている気がした。このままオフィス中に、理緒から告白されたことを吹聴して回りたい気分になる。  やがて、悠司は、自分のデスクへと到着した。  椅子へ座った悠司へ、さっそく南原が尋ねてくる。  「随分早かったな。どうだった? 新課長の鉄槌は」  「うーん、どうって言われても……」  本当なら大勢の人間に自慢したくらいの結果だったが、もちろん、そんなわけにはいかない。曖昧に答える他なかった。  悠司の反応を見て、南原は怪訝な表情を浮かべた。  「何か変なことがあったのか?」  悠司は手を振った。  「いや、そんなわけじゃあ」  横から新島が口を挟んだ。  「よほど、こっぴどっく怒られたみたいだな」  「まあ、そんなところです」  ここは誤解されてでも、適当に誤魔化した方がいいと思った。  周りの人間がからかいの言葉を投げかける中、南原は釈然としない顔をしていたが、やがて自分のデスクへと戻っていった。  悠司は業務を再開する。その間、ずっと喜びが体を包んでいた。しかし、反面、思い悩んでもいた。  答えをどうしようか。本当に告白を受けていいものか。  理緒と付き合いたい気持ちは強かった。自分のどこを好きになったのかは甚だ疑問だったが、悠司には到底手の届かない高嶺の花からの告白なのだ。断るのはまともな男の所業ではないだろう。  だが、自分の性質がネックだった。  女性と接するだけで、挙動不審になり、赤面する――。そんな男が才色兼備の女性と付き合っても、上手くいくとは思えない。  即刻、破局することが目に見えている気がした。  しかし、と思う。  これまで理緒と接した限り、彼女は悠司の赤面を意識している様子は見えなかった。他人の顔色に無頓着なのか、気づいていないのかはわからないが、この状態が続くならば、交際もできそうな気がする。  そして、そうなると、別の展開も見せるだろう。  理緒との交際が始まり、女性と親密に接触する機会が増えた場合、悠司の『症状』が改善される期待があるのだ。  いいきっかけかもしれない。そう思った。女性と接するだけで動揺し、赤面する自分から生まれ変われる可能性があるのだ。これからの人生は変化を見せるだろう。  告白を受け入れるべき理由の一つと言えた。  それからもう一つ。これまで悠司は、女性と付き合ったことも、風俗にも行ったこともない男だ。そのため、まだ童貞である。もしも、理緒と交際した場合、初体験を済ませられる淡い期待があった。お互い、社会人である以上、進展は早いはずだ。  性欲ありきの下心にはなるが、これも理由になる。  午後の業務中、悠司はずっと頭を抱えていた。傍から見れば、真剣に仕事に取り組んでいるように見えたことだろう。  やがて、時計の針が業務終了時刻へと近づいた頃。悠司は答えを出した。  周りの人間が何人か退社するのを見送った後、悠司はパソコンの電源を落とした。それからデスクを離れ、第二会議室へと向かって足を踏み出す。  業務が終わったとはいえ、まだ大勢の社員がフロアを往来していた。  それらを縫うようにして、悠司はオフィスの中を進んだ。  第二会議室へと繋がる細い廊下へ差しかかったとき、悠司は足を止め、入り口に目を向けた。扉は閉まっており、中の様子はわからない。もう彼女は中にいるのだろうか。  心臓が高鳴っている。告白の返事を返すのだから当たり前だが、どこか思春期のような淡くて甘い気持ちが胸中を満たしていた。  悠司は息を吐き、歩き出そうとする。そのときだ。突然、誰かが後ろから悠司の肩を叩いた。  悠司は飛び上がりそうになった。ギョッとし、反射的に背後を振り返る。  そこには篠澤佐奈がいた。  「数馬君、こんなところで何しているの?」  佐奈は、怪訝な表情でこちらの顔を見つめていた。手に書類を持っていることから、残業中なのだとわかる。  突然の遭遇に、悠司は動揺する。  「い、いや、ちょっと第二会議室に用事が……」  佐奈は眉根を寄せる。  「確か今日は第二会議室、使用予定なかったと思うけど」  総務課である佐奈は、会議室の使用状況を把握していた。動揺したせいで、つい正直に答えてしまったことが仇になったようだ。  悠司はしどろもどろになる。  「いや、会議とかじゃなくて、ちょっとした用事が……」  「用事? どんな?」  佐奈は、興味を引かれた顔になる。悠司は困惑した。新課長の愛の告白のためと言えるわけがなく、言葉を濁す。  「まあ、色々と」  ばつの悪そうな態度の悠司をしばらく佐奈は見つめていたが、やがて静かに微笑んだ。  「そう。言いたくないなら聞かないよ。邪魔してごめんね」  佐奈はそう言い残すと、悠司のそばを離れた。それから「それじゃあ」と手を振り、廊下を歩き出す。  悠司は、その背中を見送った。  佐奈が廊下の角に完全に消えたことを確認し、第二会議室のほうへと向かう。  第二会議室の前に立ち、悠司は扉をノックした。数時間前と同じように、すぐに中から理緒の声が聞こえた。理緒は先に到着していたようだ。  悠司はドアノブに手をかける。心臓が早鐘のように鳴っていた。極寒の地にいるかのごとく、足も震えている。いい年して、男子高校生のように緊張しているのだ。情けない。  悠司は深呼吸をしたあと、扉を開けて部屋へと入った。  すぐに理緒の姿が目に付く。今回理緒は、窓際ではなく、会議室の正面にあるホワイトボードの前に立っていた。  悠司は理緒の方を見ないようにしながら、彼女の前までいく。  理緒の元へ辿り着き、理緒と目を合わせる。悠司の緊張がさらに高まった。  「返事を聞かせて」  理緒は真剣な表情でそう言った。  悠司は頷く。自分の顔が熱くなっていることから、さっそく赤面の症状が現れていることがわかった。理緒は相変わらず、それに対し、何の反応も示さない。  悠司は言った。  「その前に一ついいですか?」  「何?」  理緒は首をかしげる。  悠司は質問した。これは告白の前に訊こうと決めていたことだ。  「俺は今まで女性と付き合ったことがありません。そんな男でもいいんですか?」  理緒は少しの躊躇いも見せず、聖母のように微笑んで首肯した。  もう理緒の告白を断る理由はなくなった。  悠司は頭を下げる。  「お付き合い、よろしくお願いします」
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