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第四章 性嫌悪症
「今回の原稿もバッチリね。お疲れ様」
悠司が入稿した原稿をチェックし終えた大壁洵子は、モニターから目を離し、こちらに顔を向けてそう言った。
理緒が悠司の部屋を訪れてから二日後。悠司は仕事終わりに、川崎市にある日向出版の編集部へ顔を出していた。目的はもちろん、約束した原稿を渡すためである。
ちなみに、今日は理緒からデートの誘いがあったが、悠司は断っていた。
「楽しんで描けましたよ」
悠司は洵子に笑いかける。だが、自分でもぎこちない笑顔だということがわかった。
洵子は、柔和な表情で訊いてくる。
「新人賞へはもう原稿は送ったの?」
悠司は小さく首を振る。
「いえ、まだ」
漫画はほとんど完成していたが、最後の仕上げが残っていた。だが、心の中に重石のようなわだかまりがあるせいで、思うように原稿に手を付けられないでいるのだ。
「そう? でももうすぐ締め切りなんでしょ? そろそろ出したほうがいいんじゃないの?」
洵子は、気を遣うようにして訊く。
悠司は、椅子に座ったまま、周囲を見渡した。
定時が過ぎているものの、編集部の中はまだ人が大勢いた。とはいえ、悠司のいる洵子のデスク周辺は静かである。
悠司は顔を正面に戻す。洵子は母性を感じさせる温順な顔立ちのまま、こちらに視線を向けていた。
洵子は五十代の年配の女性だが、昭和アイドルを思わせる整った容姿だった。若い頃は、さぞかしモテたことだろうと思う。綺麗な人とはいえ、悠司にとっては母親のような存在なので、赤面の症状が出る相手ではなかった。
悠司は、顔を伏せながら言う。
「確かにそうなんですが、ちょっと色々あって、作業が進まないんです」
洵子の心配げな声が聞こえる。
「何かあったの? 今日会ったときから、悠ちゃんの様子がおかしいなとは思っていたけど……」
悠司は理緒の姿を思い出した。凛とした端整な顔立ち。モデルのようにスラリとした肉体。新任の課長でありながら、てきぱきと的確に指示を出す優秀さ。しかし、その姿がぐにゃりと歪み、『性』や軽い男について罵倒している醜い姿が眼前に広がった。
悠司が俯いたままでいると、頭上から声がかかる。
「やっぱり何かあったのね?」
顔を上げ、洵子の顔を見つめる。洵子は病気の子供を心配する母親のような、優しげな面持ちだった。
「よかったら話して。力になれるかもしれないわ」
洵子は、真剣な口調でそう言う。
悠司は思案する。これまで様々な局面でアドバイスをくれた頼れる編集者。すでに結婚しており、子供が二人いると聞いた。容姿の面影からも、恋愛経験も豊富だと思われる。
恋愛も人生もまだ未熟な自分が、今の状態で悩むより、洵子のような人間に相談したほうが得策かもしれなかった。
悠司は、洵子の顔を見つめたまま口を開いた。
恋愛も人生もまだ未熟な自分が、今の状態で悩むより、洵子のような人間に相談したほうが得策かもしれなかった。
悠司は、洵子の顔を見つめたまま口を開いた。
話を聞き終えた洵子は、自身の頬に手を当て、見透かすように言った。
「やっぱり彼女ができていたのね」
「はい。嘘をついてすみません」
「そこは気にしてないわ。でもその理緒っていう彼女さん、ちょっと深刻ね」
「なにかわかったことありますか?」
悠司の質問に、洵子は眉間に皺を寄せ、うーんと唸る。それから、こう言った。
「その人は多分、性嫌悪症ね」
「性嫌悪症?」
聞き慣れない単語に、悠司は聞き返す。
洵子は頷いた。
「医学用語的には性嫌悪障害って言うらしいわ。意味は読んで字の如く、性的なものに対して、嫌悪感や拒否感を抱く症状のことを言うわ。若い女性に多い症状みたい」
そのまま理緒に当て嵌まる症状だ。
悠司は言う。
「理緒がその症状を患っているから、あんな異常な行動を取ったんですね」
悠司が納得しかけたとき、洵子は首を捻った、喉に食べ物がつっかえているような、微妙な表情だ。
「そのはずなんだけど、話を聞く限り、その彼女さん、あまりにも過剰な気がするわ」
「どういうことです?」
洵子は周りを見回した後、声のトーンを落として答える。
「あくまで編集の関係で知った知識なんだけど、性嫌悪症は、単純に異性とのセックスや異性から触れられること対して、嫌悪感を示す場合が多いらしいの。もちろん、エッチな雑誌や画像も対象に含めることもあるみたいだけど、あなたの彼女みたいに他者に対し、それを強制する人は稀だと思うわ。言うなればアレルギーみたいなもので、自分が触れなければ、他人が触れていても問題にしない場合が多いそうよ」
「それなら別の症状だってことですか?」
洵子は首を振った。
「ううん。性嫌悪症であることは間違いないわ。ただ、それが本当に度を越えていると思うの」
洵子の真面目な顔付きを見て、悠司は下を向いて考える。
確かに、この間の理緒の行動は、過剰――いや、異常だった。あれが性嫌悪症の恒常的症状なら、もっと性嫌悪症自体が問題視されていることだろう。つまり、洵子が言うように、特別に理緒の症状が強いのだ。
悠司は顔を上げて訊く。
「解消法はあるんですか?」
洵子は腕を組み、考える仕草を取る。
「そうね。性嫌悪症は、精神障害の一種だから、精神療法で治療されることもあるらしいわ。カウセリングとかもよく利用されるみたい。あるいは、時間経過や何かのきっかけ――例えば勢いでキスをしたり――で治ることもあるとか」
悠司は、ため息をつきそうになる。両者とも実現不可能な解決法だった。前者はどうやって、あの気が強い理緒を説得して精神科へ連れて行けば良いのか。後者に至っては、それを決行するだけで、理緒の言う『躾』とやらに発展しそうだ。
やはり、別れるしか道はないのかもしれない。
だが……。
洵子が悠司の心を読んだかのように、先に言う。
「彼女と別れることは考えてないの?」
悠司は力なく首を振った。
「別れる気持ちはあるんですが……」
理緒の所業を見て、今後の交際に対し不安を覚えるのは当然であった。別れる気持ちが鎌首のようにもたげている。
だが、別れを選択した場合、問題があった。それは、彼女が同じ部署の上司であることだ。
南原という例がある。彼は理緒に告白したばかりに、目の敵にされ、日常的に扱いが悪くなっていた。状況こそ逆だが、理緒に別れを告げた場合、もしかすると、悠司も同じ扱いを受けるようになる可能性があるのだ。
それが怖かった。理緒は根に持つタイプだろうし、プライドや束縛も強い。充分にあり得る話だ。
昨今、パワハラには厳しい目が向けられているものの、やろうと思えば、悠司を追い詰める方法などいくらでもあるだろう。そのような甚大なストレスを抱えてしまうと、日常生活だけではなく、漫画制作に支障が出てしまう。それは避けたかった。
悠司の懸念を聞いた洵子は、納得したように首肯する。
「確かに話を聞く限り、その彼女ならあり得そうね」
「だからどうすればいいか悩んでて」
洵子は、若干考えたあと、言う。
「今は刺激しないほうがいいと思うわ。まだ付き合ったばかりだし、相手は悠ちゃんのこと信じきっているみたいから、事を荒立てない限り、悠ちゃんに危害が及ぶことはないはずよ」
「でも、そのあとは?」
洵子は鋭い目で答える。
「さっきも言ったように、性嫌悪症は改善できる精神疾患よ。大きなトラブルが起きる前に、何か解決方法が見つかるかもしれない。私も色々と調べてみるわ」
悠司は、温かな気持ちに包まれる。洵子の好意が嬉しかった。
悠司は頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございます。俺のほうも自分なりに調べてみます」
洵子は、ニッコリとこちらに笑いかけた。
それから洵子は、申し訳なさそうな顔をして、様子を窺うように訊いてくる。
「それで、こんな話の直後で言いづらいんだけど、また仕事の依頼がきているわ。どうする? 彼女の件で受けるのが難しいなら、私が何とかするから、断ってもいいわよ」
悠司は首を振った。
「仕事を断るつもりはありません。引き受けます」
アダルト漫画とはいえ、自分を買ってくれた出版社や洵子を裏切りたくはなかった。
「わかったわ。だけどくれぐれも、彼女さんに見付からないよう気をつけてね」
「ええ。わかってます」
理緒への対処法が固まるまで、アダルト漫画のことは隠し通すしかなかった。
そこで洵子が、ふと何かを思い出したように言う。
「だけど、彼女さんが言う『教育』だとか『躾』って何のことかしらね?」
悠司は首を捻る。自分も大いに気になっていたことだ。
「そのとき、それとなく訊いたんですが、答えてくれなくて」
洵子は考え深げに顎に手を添えた。年齢にしては艶やかな額に皺が寄っている。
「怖いわね。まさか、命に関わることじゃないとは思うけど……」
「やめてください。縁起でもない」
悠司は手を振って答える。
「そうね。ごめんなさい。せいぜい束縛が厳しくなるとか、合鍵を求めるとかそれくらいかしらね」
洵子は、笑みを浮かべてそう言った。
しかし、その笑みはどこかぎこちなく、悠司の不安を誘った。
「いい加減にしなさい! あなた本当にやる気あるの!?」
資材調達部のオフィス内に、怒声が響き渡る。遠くにある課長席から、悠司がいるデスク周辺まで鋭い声が聞こえてきていた。
二日後の昼前のことである。南原は理緒のデスクへと呼び出され、叱責を受けていた。理由は検品表のサインの字が歪んでいるため、というものだった。南原の呼び出しは昨日に引き続き、連続である。しかも同じような瑣末な理由であった。
やはり南原は理緒に目の敵にされているようだった。この前、悠司の部屋で食事中語ったように、理緒は彼に対し、恨みすら抱いているかもしれない。
公開処刑のような叱責が終わり、理緒のデスクから戻った南原は、コテンパンに叩きのめされたボクサーのような状態で、ゆっくりと自分のデスクへと座った。誰も話しかけられず、妙な雰囲気が島一帯に広がる。
悠司はその南原の様子を横目で見たあと、課長席があるほうへ目を向けた。
遠くではあるが偶然にも、理緒と目が合う。理緒は微笑んだ。悠司も微笑み返すが、ひきつけのように不自然な形になった。
視線を自分のデスクへと戻し、悠司は仕事を再開した。それから、昨夜スマートフォンへと届いた理緒からのメッセージのことについて、考えを巡らせる。
理緒からのメッセージは、今度の休日、デートをしないかとのお誘いであった。外でデートしたのち、また悠司の部屋で食事を作るという。
悠司は理緒のメッセージに目を通したあと、躊躇い、断ることを考えた。まだ部屋の中は理緒が求める『健全』状態のままであったが、いかんせん、直近で日向出版からの原稿執筆の依頼を受けたのだ。
今はまだプロットに手を付けたばかりだが、土日辺りには、ネームへと入ることができるだろう。そのため、まかり間違えると、理緒にアダルト漫画のことが発覚してしまう恐れがあった。
その上、新人賞へと応募する原稿もある。もう締め切りギリギリでなので、一刻も早く仕上げたかった。
とはいえ、デートを断る選択肢は取らないほうがいい気がした。洵子のアドバイス通り、下手に理緒を刺激すると、虎の尾を踏む結果になりそうだからだ。
ここは大人しく理緒の要求に従って、デートを行い、アダルト漫画が発覚しないよう対処する以外、手はなかった。
新人賞へ応募する原稿は、平日頑張ればいい。
不要な精神的負担を感じ、悠司は納品書を作成しながら、小さくため息をついた。
昼になり、食堂の対面の席に座っている南原が、嘆き声を発した。
「もう色々限界だぜ」
連日による理緒からの叱責により、南原は随分と参っているようだった。どことなく、やつれているようにも見える。
「元気出せよ。じきに課長の機嫌も収まるさ」
南原を励ますためにそう言ったが、内心、いつまで経っても理緒は矛を収めないであろうということを、悠司は確信していた。理緒が性嫌悪症を患っていることや、以前、南原のような男についてこき下ろしていた姿を見ているため、当然の結論だ。
「簡単に言うなよ。こっちは本当にしんどいんだぞ」
南原は唇を尖らせる。
悠司は、宥めるように手の平を南原へと向けて言う。
「まあ、落ち着けよ。いつかは解決するってことだよ」
「課長から叱責を受けたことがない奴が言うと、説得力ねーよ。つーか、なんでお前ばかり」
南原は、手元のうどんを啜りながら、不満気にぼやいた。
「お前と違って、信頼されてんだよ」
悠司はうそぶいた。理緒と交際しており、彼女が性嫌悪症の上、悠司が純情な男だと勘違いしたせいだと話すわけにはいかないだろう。説明しても理解されないことは明白だ。当事者の悠司すら、混乱しているのだから。
つくづく、自分の状況がやっかいだと再認識させられる。
南原は、恨みがましくこちらを見やった。
「そんなはずないだろ。俺のコミュニケーション能力を舐めるな。お前よりも俺のほうが会社において信頼は高いはずなんだよ。それなのに、なぜか、お前にだけ課長は特別に甘いんだ」
南原は、探るような口調になる。自分が不合理な矢面に立たされているため、その真意を知りたい思惑があるらしい。
実際、彼の言う通りだったが、誤魔化したいので、否定するしかない。
「それはお前の勘違い。俺は甘やかされているわけじゃねーよ。ちゃんと怒られてるから」
悠司が、そこまで言ったときだ。悠司の隣に誰かが立った
見てみると、佐奈がそこにいた。手に弁当箱の包みを持っている。後ろには、同僚の女の子。
「数馬君、ここ座っていい?」
佐奈は、悠司の隣の席を、細い指で指し示した。悠司は困惑する。また佐奈か。困るんだよな、と思う。赤面症が出たらどうしよう。
悠司が一瞬答えに窮すると、その間に南原が快く了承する。
「ああ、いいよ。座りな」
南原の言葉に、佐奈は悠司の隣に座った。一緒にいた同僚の女の子は、南原の隣だ。
弁当箱の包みを開きながら、佐奈がこちらへ顔を向ける。
「ねえ、数馬君、さっき何の話をしてたの?」
「えーっと」
悠司は口ごもる。佐奈の整った相貌が近くにあるせいで、赤面症が表出しそうだった。赤面症は、思い出したかのように、顔を出すのだ。
まだ赤くはなっていないとは思うが、今すぐここを立ち去りたくなった。
「新課長の話だよ」
南原がかわりに答えた。佐奈はふーんと頷く。
「何かあったの? 怒られたとか?」
佐奈の小動物のような大きな目が、悠司をとらえる。
「そんなわけじゃあ……」
悠司は困惑を悟られないよう、周囲を見渡した。昼休憩の社員食堂は、駅前のスーパーのように賑やかだ。それぞれが、同僚や上司らと一緒に弁当や食堂の料理を食べている。
悠司は、そこでふと一抹の不安を覚えた。
もしも、今こうして佐奈たちと食事をしているシーンを理緒が目撃したら、彼女はどう思うのだろうか。
「数馬君大丈夫?」
佐奈が心配げな声を発し、悠司の意識は引き戻された。はっと佐奈のほうを見る。
「数馬君、元気がないみたいだけど……」
佐奈は、気を使うような素振りで、こちらの顔を覗き込んでくる。ボーイッシュなベリーショートの髪が、動きに合わせてなびく。
悠司はどぎまぎしながら、身を引いた。
「いや、そんなことないよ」
悠司が否定すると、うどんの汁を飲んでいた南原が同意を示す。
「課長から一度も叱責されていないこいつが元気ないわけないよ」
南原の横槍に、佐奈ははっと何かに気がついたような様相をみせた。
「前納課長ってものすごく厳しいって評判だけど、数馬君はまだ怒られてないんだ。どうしてだろう」
首を捻る佐奈。なぜか興味を惹かれた様子だ。
「別に怒られてないわけじゃないから」
悠司は手を振って、否定する。
理緒の話はあまり触れられて欲しくなかった。諸々の懸念が、いまだ地中の奥底でマグマのように息を潜めているのだ。同僚たちに知られてしまったら、ますます噴火の規模は広がるだろう。
かといって、そうなったとしても、彼らに相談するつもりは今のところない。頼るのは、大壁洵子編集者のみでよかった。
「もしかして、前納課長、数馬君のことが好みだとか」
佐奈の推察に、悠司は思わず咳き込みそうになる。ずばり的を射ていた。洵子といい、やはり女性は勘が鋭いのか。
「……篠澤さん、勘弁してよ」
悠司は肩をすくめる。図星であるため、一瞬だけ反応が遅れてしまった。佐奈の様子を確認すると、彼女は特になにかに気づいた様子をみせることなく、無邪気な表情を浮かべている。
だが、どこかその表情に、固い印象を受けた。何か言いたいことがあるかもしれない。
悠司が質問しようとしたときだ。それまで黙っていた佐奈の同僚が箸を置き、口を開いた。
「そういえば、前納課長が前にいた企画部の人から話を聞いたんだけど、前納課長、企画部でも自分と他人に厳しく、堅物だったみたい。男なんて全く眼中にないらしくて、告白してきた男をことごとく撫で斬りにした上、人によっては罵られたりしたみたいだよ」
「なんだ。俺みたいじゃん」
南原は彫りの深い目を細め、嬉しそうに答えた。同志の話を聞き、安心したらしい。
「それなら、わざわざ悠司に惚れるわけないよな。そのレベルの堅物なら」
南原は、そう言うと、納得したように一人で頷いた。
南原の言い分を聞き、悠司の心は暗く沈む。
実際のところ、事実は真逆なのだ。だからこそ問題が出ているのである。かといって、他の同僚のように、叱責を受ける立場になりたいわけではないのだが……。
なにか良い解決方法はないだろうかと、悠司はしばし思索にとらわれる。しかし、当然、簡単に解決できるわけがなかった。唯一の相談相手である洵子は「色々調べてみる」と言っていたが、期待していいものか。
このような男女の沙汰で、頭を抱えるときがやってくるなど、思いもよらなかった。自分が赤面症を持っているため、恋愛経験が未熟せいもある。全く対処ができないことが腹立たしい。
ふと視線を感じる。出所を辿って見てみると、佐奈が箸を止め、こちらの様子をうかがうようにじっと見つめていた。
だが、悠司と目が合うなり、佐奈は瞬時に屈託のない笑顔を形作る。それから、何事もなかったような風情で、会話の続きをはじめた。
まるで、何かを誤魔化したような印象を悠司は受けた。
業務が終わり、三十分ほど残業したのち、悠司は席を立った。さほど仕事が詰まっているわけではないので、今日はこれくらいで帰ろうと思う。
南原や、近くの席の新島隆一郎に挨拶を行い、悠司は会社を後にする。
外に出ると、冷ややかな木枯らしが出迎える。悠司はスーツの上に羽織っているコートの襟を閉めた。
十二月にもだいぶ近づき、寒さは増す一方だ。天気予報によれば、今年は相当な厳冬らしい。
オフィス街の歩道を歩き、駅が見えはじめる頃。胸ポケットで、スマートフォンが震えだした。着信である。
ポケットから取り出し、ディスプレイを確認する。洵子からだ。
歩きながら着信に応じる。コールセンターのスタッフのような、洵子の丁寧な語調が耳に入ってきた。
「悠ちゃん、今お仕事帰り?」
「ええ。ちょうど外に出たばかりです」
どうやら、こちらの背景音を聞き、状況を把握したらしい。洵子のほうから聞こえる音にも、自動車のエンジン音や、雑多な音が入り混じっていることから、彼女も外にいることがわかった。
「この前受けてくれた仕事の件、どれくらい進んだか聞こうと思って」
原稿の依頼を受けてから、まだ三日も経っていない。進捗を聞くのは、少し早いのではと悠司は思った。
それでも、答える。
「プロットがそろそろ終わる頃ですかね。あとちょっとで下書きに入れるかと」
「順調にいきそう?」
「問題ないと思います」
「そう。それなら安心ね」
直後、無言が訪れる。だが、電話が切れたわけではないらしい。用件は済んだはずなのに、洵子はまだ何か用があるようだ。
悠司は訝しがる。どうしたのだろう。そう思った矢先、洵子が悠司の疑問に答えるように口を開く。
「悠ちゃん、例の彼女とはあのあと、どうなの?」
おそらく、これが本題なのだろう。悠司は正直に答える。
「特に変化はないですね。大壁さんのアドバイス通り、刺激しないように接してました。まあ、結局、今度の土曜日、デートすることになりましたが。新人賞への原稿も残っているのに」
「うん。くれぐれも、無理しちゃ駄目よ。……それで、この前会ったとき、言ってたことなんだけど」
洵子は一旦言葉を区切ったあと、続けた。
「性嫌悪症を克服するための方法をいくつか探して、見つけてきたの。知り合いの精神科医にも相談したわ」
洵子に理緒の話をしたのは、つい先日だ。それなのに、こうも早く結果を提供してくるとは、悠司は素直に驚いた。しかも、わざわざ医者にまで相談するとは。
面倒見の良い洵子らしい、母親のような厚意なのだろう。悠司は感謝に胸を温かくした。
「ありがとうございます。それで、どんな方法があるんですか?」
悠司の質問に、一瞬だけ間を置き、洵子は答える。
「基本的な部分は、この前話した通りよ」
「基本的な部分?」
「あのとき、私が言ったこと覚えている?」
悠司は、洵子と対面した際の光景を脳裏に呼び覚ました。
大壁洵子編集者はあのとき、性嫌悪症に対する解消法をいくつか提示していた。精神科によるカウセリングや、突然のキスなどで、強引に克服させる暴露療法に似た手法などだ。
「そう。それで大切なのは、パートナーの協力らしいの」
「協力?」
「ええ」
電話越しに、洵子が頷いたことが感じ取れた。同時に、背後の雑音が消えていることにも気づく。おそらく、屋外から室内へと入ったらしい。
「悠ちゃんの彼女さん――理緒さんは、多分、カウセリングを受けるよう説得しても、聞く耳持たないと思うの」
その点は悠司も確信していた。おそらく、提案しただけで大きく揉めるだろう。
「だから、今のところ、カウセリングを勧めるのは得策じゃないわ」
「それじゃあ、他にどんな方法が?」
歩きながら電話をしていた悠司は、立ち止まった。すぐそばを、通行人が鬱陶しそうに避けて歩いていく。
駅はすでに目の前だ。
「強引にキスをする真似をするにしても、理緒だと逆効果だと思うんですが……」
「だからね、ちょっとずつ慣れさせるの。いわば、段階的暴露療法ね」
洵子は、説明をしてくれた。
『段階的暴露療法』とは、恐怖症や強迫性障害を治療するために用いられる行動療法の一種らしい。
その名の通り、段階的にアプローチを行い、少しずつ症状を克服していく手法を取る。
例えば、患者が潔癖症ならば、人と握手をさせ、その後、手を洗わず我慢させる。次に、あえて汚れた手を触れさせ、同じく我慢させる。といったように、『やらずにはいられない脅迫行為』をさせないで、セーブさせる試みの行動療法のことをいう。
「理緒さんの場合は、性的なものを嫌悪しているから、少しずつ、性的なものに慣れさせる必要があるわね」
「具体的には、どうすればいいでしょうか?」
「最初は軽いスキンシップからはじめて、徐々にステップアップする」
「スキンシップ……」
思えば、これまで一度も理緒とスキンシップを取ったことがなかった。お互い社会人で、いい年をした大人なのに。まるで中学生の恋愛のような幼稚さだ。
洵子は、説明を続けた。
「例えば、髪の毛や肩に付いたゴミを取ってあげたり、名前を呼ぶ際、肩を軽くトントンと叩いたり」
悠司はなるほどと、思う。確かに、その程度なら、理緒が忌避する『性的』な意味は感じないかもしれない。男同士や、同僚同士でもたまに行われるものであるからだ。
「ある程度慣れたら、次の段階で、手に触れたり、肩を揉んだりするといいらしいわ。あくまでも、コミュニケーションの一環としてね。マッサージの提案でもいいみたい」
「へえ」
「そして、さらにステップアップすると、今度は手を繋いだり、ハグしたりする。この辺りは、恋人同士だからこそできる方法ね」
だからこそ、洵子ははじめ『パートナーの協力が不可欠』と言ったわけか。確かに、相手を抱き締めるような状況ならば、恋人ではない限り、達成は難しいだろう。
というより、最初から緻密に段階を踏んでいく手法であるため、そもそもが近しい人間ではないと成立しない治療である。
「ハグまでいけたら、治療への望みは高いらしいわ。あとは、キスや愛撫に移行して、親密度を高める。それから……」
悠司は、その先の展開を察して、思わず勢い込む。
「それから?」
電話の先で、洵子が小さく笑った声が聞こえた。
「……それから、まあ、簡単に言えば、最終的にセックスね。根本的に嫌悪している行為をクリアできれば、ほとんど性嫌悪症は解消されたと思っていいみたい」
悠司は唾を飲み込んだ。結局、男女の問題なのだ。たどり着くべき最後目的地は、そこだろう。
洵子の話を聞き、悠司は展望を見出していた。少しずつステップアップしていく段階的暴露療法ならば、反感を買う危険性が少なく、解消へと理緒を導きやすい。
悠司は、理緒に段階的暴露療法を試みている自分を想像した。軽いスキンシップからはじまり、『普通の』恋人のように手を繋ごうとする。思春期の少女のように戸惑い、拒否をする理緒。だが、そこは交際している相手からのアプローチだ。ちょっとずつだが、受け入れ、理緒は心を開いていく。
やがて悠司は、彼女を抱き締め、キスを行う。理緒は、うっとりと目を細め、応じる。春が訪れたかのように、彼女の氷の心が、次第に解けていく。
そして、最後に裸で体を重ね――。
まるで、自分が白雪姫の王子様になった気分に悠司は陥った。性嫌悪症の美人の心を開き、モノにできたら、さぞかし気分は最高だろう。
それに、ロミオとジュリエット効果のごとく、困難があれば、二人の仲はさらに深まるのだ。考えようによっては、理緒の性嫌悪症は、利点であるともいえた。
「どう? 段階的暴露療法の特徴、わかったかしら?」
「ええ。わかりました」
「やってみる?」
「はい。彼女に試してみます」
悠司は間髪入れず、答えた。頭の中では、すでに計画がクレーンによって積み上げられている最中だった。ちょうど、今度の土曜日、理緒と約束がある。
電話口から、洵子の心配する声が聞こえた。
「悠ちゃん、アドバイスだけど、くれぐれも慎重に事を進めるように心掛けてね。大切なのは、ごくごくさりげなく、自然にアプローチすることが大切だから」
「わかりました」
はやる心を抑え、悠司は独りでに首肯する。胸が高鳴っていた。
会話が一段落し、最後にまた原稿の話を交わしたあと、悠司は洵子に礼を言って電話を切った。スマートフォンをポケットに戻し、前を向いて歩き始める。
目的地はすぐ目の前だ。
理緒へのアプローチ、上手くいきそうな気がしていた。自分こそが、理緒を救える唯一の男なのだ。
白馬の王子様になってやる。
悠司は、そう決意した。
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