第七章 調査

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第七章 調査

 「それじゃあ、前納課長は企画部に来る前は、別の会社にいたんだね」  翌日、悠司は佐奈と共に企画部の社員から話を聞いた。  「ああ。そうらしいよ。中途採用だって」  目の前の男性社員は、彫りの深い顔を縦に振り、そう答える。  現在、三人は休憩室にいた。午後の休憩時間を利用して、話を聞くことにした結果だ。理緒は休憩もろくに取らないため、目撃される懸念がないのも理由の一つである。  「前の職場はなんで退職したか知ってる?」  佐奈の質問に、男性社員は首を捻った。  「いや、知らないね。さすがにそこまでは誰も聞いてないんじゃない?」  男性社員は、そう言うと、好色そうに目を細め、佐奈の顔をまじまじと見つめる。話を聞き始めた当初から、この男は佐奈の容姿に興味を持っているようだった。  「前の会社の名前は聞いてるか?」  悠司が質問すると、企画部の男は、うっとおしそうに顔を歪めた。  「さあ。どうだったかな」  男はあくまで、佐奈に視線を向けていた。  男の気のない返事を聞き、佐奈は身を乗り出す。レディースーツ越しに、胸が強調された。男の視線が注がれる。  「思い出してみて。ちょっとした情報でもいいから」  佐奈がそう言うと、男は胸を見つめたまま、ぼんやりとした口調で答える。  「えっと、確か大畠商事という名前の会社だったと思うよ。うちよりも大手だって聞いた」  「うちよりも大手?」  この男の言うことが事実なら、なぜ理緒はわざわざ転職してきたのだろう。職種も同じである以上、特別な理由がない限り、転職など考えないはずだ。  悠司は、その会社の名前をメモした。もしかしたら、今後必要になる可能性があるかもしれない。  佐奈の胸に目を奪われている男に、悠司は質問する。  「企画部での前納課長は、どんな様子だった?」  男は、こちらをチラリと見ると言った。  「とても厳しかったよ。仕事ミスった部下がいたら、辺りに響き渡るくらい大声で叱責してた」  「人間関係は?」  「ほとんどなかったね。飲み会も参加しなかったし、まず、人と絡もうとはしなかったかな」  現在の理緒とほとんど同じだ。彼女の会社に対する姿勢は、部署が変わっても変化はないらしい。  「恋人とかいたのかな?」  佐奈がごく自然な様子で訊くと、男は小さく吹き出した。冗談でも耳にした風情だ。  「あの人が恋人? ありえないよ。けっこうな数の男がアタックして、全て玉砕したんだから。ようするに、相当な堅物なんだよ」  このあたりの話は、以前、佐奈の同僚から聞いたことと似通っている。企画部でも周知の事実だったのだろう。  「あまりにも男っ気がないことから、今まで一度も彼氏ができたことないんじゃないかって噂だ。一部では、同性愛者だと疑惑が持ち上がっていたらしい」  男の言葉に、悠司はふと疑問を覚えた。  赤面症のせいで、自分はこれまで一度も恋人ができたことがない。そのコンプレックスばかりが念頭にあったため、失念していたが、理緒の交際遍歴は一体、どうなんだろう。  理緒は異様なほど性を忌避している。セックスなんて転地がひっくり返っても、経験しようなどとは考えないはずだ。つまり、彼女はいまだ『処女』の可能性もあった。自分と同様、性交未経験者。赤面症と性嫌悪症のカップル。  だが、その性質は似ているようで、非なるものだ。悠司は症状を克服したいと考え、理緒は完全に受け入れてしまっている。鉄のように強固な檻に、自分を閉じ込めているのだ。  佐奈が昨日語ったように、そうなった経緯が何かしらあるはずだ。それを探り当てられれば、理緒を『檻』から救い出せると思われるのだが……。  そのあと、企画部の男へいくつか質問をしたが、ほとんど芳しい情報は得られなかった。もうこの好色な男からは、有益な話は聞き出せないだろう。  悠司は礼を言って、立ち上がる。佐奈も同様に立った。男は、名残惜しそうに佐奈を見やると、今更気がついたように、口走った。  「そういえば、こんな探偵みたいな真似して、資材調達部で何かあったの?」  悠司は佐奈と顔を見合わせる。  「ちょっとね」  佐奈は、微笑んで誤魔化した。  それから二日経ち、悠司と佐奈は、企画部にいる数名の社員たちから、いくつか情報を得た。しかし、そのほとんどが似たり寄ったりで、結局は理緒の前職の会社名や、彼女の会社でのスタンスばかりが耳に入る結果となった。  二人が知りたい過去の話や、家族のことなどは、ほとんどわからなかった。つまるところ、前進が全くなかったのである。  反面、理緒の『束縛』は次第に加速していった。先日の件により、彼女が求めた合鍵の話は、まだ存続している。今も理緒は悠司の部屋の合鍵を催促しているのだ。  悠司は、それだけは了承しかねた。もしも、彼女に合鍵を渡すようなことになれば、プライベートの情報は確実に探られてしまうだろう。アダルト漫画を描いている事実も、発覚するに違いない。  つまり、合鍵を理緒に渡すことは、絶対に避けなけれならないのだ。  悠司は、なんとか理緒の催促を宥めることに苦心していた。  そんな折、深刻な問題が悠司の前に差し迫っていた。  それは、賞へと応募する原稿の締切日である。今週描き上げなければ、もう一切間に合わなくなってしまうだろう。  悠司はその日、仕事が終わると、すぐに部屋に戻り、夕食もそこそこ、原稿に着手した。  だが、まるで見計らったかのように、部屋のインターホンが鳴る。悠司は、タッチペンを握り締めたまま、舌打ちをした。  この時間帯に部屋を訪れるのは、理緒しかいないだろう。毎日毎日、律儀なものだと関心さえ覚える。彼女はよほど、漫画制作の邪魔をしたいらしい。  悠司は、一瞬無視しようと考えた。だが、悠司が今現在、部屋にいることは把握しているはずなので、応対しない限り、理緒は朝までインターホンを鳴らすに違いない。  悠司は、ペン立てのような充電器にタッチペンを差し込み、アーロンチェアから立ち上がった。溜め息をつきながら、玄関へ向かう。  玄関の扉を開けると、目の前に理緒がいた。爽やかな顔だ。  「こんばんわ。今日もきちゃった。入っていい?」  理緒は悠司の返答を聞く前に、すでに足を踏み出していた。  ここで断っても、もめるだけなので、悠司は大人しく迎え入れる。理緒は自分の家のように、無遠慮に部屋へと上がった。  「さっそく、パソコンとスマートフォンをチェックするね」  理緒は奥の部屋へずかずかと進む。悠司は、眉間に皺を寄せた。不快な思いが汚泥のように、胸の内に溜まっていく。  「漫画を描いてたのね」  理緒はモニターの前で、そう呟いた。  「ああ。締め切りが迫ってるからね。だから、今日はチェックは……」  悠司が言い終わる前に、理緒は、クリップスタジオ内のワークスペースに表示されている描きかけの原稿を落とした。  それから、新しくフォルダを開き、データを探り始める。  悠司は、ついかっとなった。締め切りが迫っている焦りと、彼女に対し、積もり積もった感情が今、この瞬間、噴出した。  赤い衝動が、悠司を突き動かす。  悠司は怒鳴った。  「いい加減にしろ! 鬱陶しいんだよお前は!」  悠司の声が、部屋中に響き渡る。理緒は、モニターからはっと顔を逸らし、こちらを見つめた。  理緒は驚いた顔になっていた。なぜ、自分が怒鳴られたのか、理解できていない様子だ。  「どうしたの? 悠司」  理緒は立ち上がり、こちらと向き合う。不思議そうに眉根が寄っている。  一度生じた悠司の心の中の怒りは、収まらなかった。次から次へと燃え移る焔のように、怒りの感情は、大きく広がっていく。  「どうしたじゃねーよ! 毎日毎日詮索ばっかしやがって。こっちは、迷惑なんだよ。いい加減気付け!」  悠司は情動に任せて、まくし立てる。隣の部屋の入居者にも、この声が聞こえているんだろうな、と少し場違いな不安を覚えた。  悠司の剣幕と怒声に、理緒は一瞬、怯む様子をみせたが、すぐに表情を変化させた。  彼女は、なぜか哀れむような表情を形作る。  「かわいそうな悠司。色々と追い詰められているのね」  理緒はそう言った。  悠司は面食らう。先ほどの罵倒の内容を、彼女は理解していないのだろうか。  逆に悠司が臆していると、理緒は続けた。  「今は辛いかもしれないけど、しばらくの間我慢して。私の『教育』を受け続ければ、あなたはもっと健全な男の人になれるから。これもあなたのためよ」  理緒は諭すようにして言う。  理緒の表情と口調は、まるで反抗的な生徒を正す教師を想起させた。根幹から、自分の行動を信じて疑っていないことがわかる。  悠司は口ごもった。理緒の反応を見て、怒りの感情が、風船のようにしぼんでいくのを自覚した。勢いに任せて怒鳴ってしまったことで、これから先、もっと面倒なことになるかもしれない。  理緒は、そっとこちらの肩に手を置いた。部屋着越しに、彼女の手の平の体温を感じる。  「悠司には悪いけど、これからもっと、厳しくするね」  理緒は、女神のように微笑んだ。  結論を言うと、新人賞へ応募する原稿は間に合わなかった。  理緒へと抗議の声を上げたその日から、彼女の『教育』は過激化した。一切、悠司のプライベートは許されなくなり、常に監視されるようになった。スマートフォンにも、位置情報アプリや、別端末でメールやサイトの閲覧履歴を把握できる監視アプリも強制的に入れられ、情報が筒抜けになった。  そして、今よりも頻繁に理緒との行動を余儀なくされ、自由な時間が減った。  そのような状況下で、まともな創作活動などできるわけがなく、筆が全く進まなくなった。時間も確保できず、応募締め切りを越えてしまったのだ。  悠司はひどく落ち込んだ。これで、夢が一歩遠のいたことを意味する。また同じ賞に応募するとなると、来年になってしまうだろう。あるいは、別の賞に目標を切り替えるのも有りなのだが、悠司が狙っているのは、最大手の漫画出版会社だ。その雑誌に掲載されたいのであれば、やはり同じ新人賞に応募するしかなかった。  いずれにせよ、チャンスは逃したのだ。  悠司は虚無感に襲われた。追っていた夢が躓いてしまうほど脱力することはない。鬱屈した気分に覆われる。  応募を逃したことは、日向出版から依頼された原稿にも響いていた。すでに下書きは終え、ペン入れの最中だった。井戸の底に落ちたような気分のまま、原稿を進めるのは難しかった。  なにより、理緒の束縛が厳しく、クリップスタジオを開く余裕も見出せないのだ。  幸い、伝家の宝刀である隠しフォルダは、まだ理緒に発覚していないものの、この調子だといつ何時ボロが出るかわからない。神経を尖らせなければならなかった。  赤面症が原因で、初めてできた恋人に、ここまで私生活を引っ掻き回されるとは、あまりにも不条理だ。なにか悪いことでもしたというのか。  一体、どうすればいいのだろう。  悠司は途方に暮れた。  そうやって、悠司が頭を抱えていた時、洵子から連絡が入った。内容は、原稿の進捗と、理緒の件についてだった。  悠司の開口一番の声を聞き、彼女は全てを悟ったらしい。  「何かあったのね。もしかして、新人賞へ応募する原稿、間に合わなかったの?」  さすがは、エスパー並の直感を持つ編集者だ。悠司が驚くと同時に、再度夢が遠のいたことを認識させられ、心は暗く沈んだ。  悠司の無言の答えを聞き、洵子は自分の指摘が的を射ていたと気づいたようだ。電話越しに、彼女は逡巡した様子をみせた。背後はオフィスの喧騒が響いていることから、今編集部にいるのだろう。  やがて洵子は言う。  「ねえ、悠ちゃんこれからちょっと会えない?」  洵子は唐突に、そう提案した。  「彼女さん、そこまでエスカレートしたのね。このままじゃあちょっとまずいわね」  洵子が不安そうに呟き、悠司は溜め息と共に首肯する。  「もうどうしたらいいのかわからなくて……」  うな垂れた悠司の耳に、店内の静かなBGMが入ってくる。  現在、悠司と洵子は川崎駅構内にあるスターバックスにて、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。先ほどの電話により、悠司の気分の落ち込みを洵子は悟り、急遽落ち合ったのだ。  「スマートフォンも監視されてるって言ってたけど、私との連絡は大丈夫なの?」  洵子はコーヒーを一口飲み、そう訊く。悠司は、ゆっくりと顔を上げた。  「そこは問題ないかと。通話履歴は把握できているみたいですが、会話内容まではわからないようです。だから、電話帳に登録してある大壁さんや、出版会社の名前は、怪しまれないよう名前を変更してあります。まあ、いつまで誤魔化せるかわからないですけど」  当然ながら、漫画でも描いていない限り、理緒のような一般の会社員は、出版関係には疎いものである。だからこそ、騙せている部分はあるかもしれない。  しかし、彼女はあれほど疎かったパソコンやクリップスタジオの操作ですら、すぐに知悉してきたのだ。理緒なら、どうにかして、日向出版の社名を探し当てるかもしれない。そうなれば、悠司がアダルト漫画を描いていることまで辿るのは、時間の問題だろう。  「確かに、彼女さんならその可能性は大いにあるわね」  悠司の憂慮を聞き、洵子は柔和な顔付きを少しだけ曇らせた。  悠司は言う。  「もしも、理緒にアダルト漫画のことが発覚したら、日向出版や、大壁さんに迷惑がかかってしまう可能性が……」  理緒のことだ。出版会社にも怒鳴り込んでいくかもしれない。  自分のせいで――しかも色恋沙汰などという下らない理由で――お世話になっている人たちに、火の粉が降りかかるのは何としても避けたかった。  「その点は大丈夫だと思うわ。弱小とはいえ、私たちは組織よ。何なりと対処できるわ。以前の件でもそうだったでしょ?」  悠司は、かつてあった出来事を思い出す。あの時も、編集部や、洵子に多大な迷惑をかけてしまった。  しかも今回は、完全に悠司のプライベートが原因なのだ。  「仮に編集部のほうで対処できたとしても、やっぱり、個人的に解決したいです」  洵子は腕を組んだ。  「確かにそれに越したことはないわね。……それで、理緒さんの前の部署の話を聞いたんでしょ?」  「ええ。だけど、芳しい成果がなくて」  「転職前の会社は?」  悠司は、企画部の男から聞いた会社名を洵子に伝えた。メモまでして覚えた名前だ。  「ネットで調べましたが、けっこうな大手ですね」  「なぜ転職してきたかはわからないのよね?」  「ええ。今の職場では、誰も知らないとの話でした」  「なにかトラブルでもあって、転職してきたのかしら」  洵子は、悠司と同じ見解を示した。というより、当然の帰結であろう。理緒の本性を知っているのならなおさらだ。  「そこはなんとも」  「理緒さんに直接訊くことはできないかしら?」  そこは悠司も考えた。さりげない雑談のついでに、今までの職歴を質問をするのだ。恋人同士の会話としても、あるいは、社会人同士の会話としても、不自然な話題ではないだろう。ましてや、そこから性嫌悪症を引き起こす原因にはならないはずだ。  だが、なぜか二の足を踏んでしまう。ひどく恐ろしい地雷を踏んでしまいそうな気がしてならなかった。  悠司が心情を吐露すると、洵子は頷いた。  「確かに、理緒さんなら些細なことでもどう転ぶかわからないわね……。でも、前職の件、頭に入れておいたほうがいいわ。彼女さんに性嫌悪症が生まれた理由がそこにあるかもしれない」  「わかってます」  もしも、機会があれば、調べる必要が出てくるだろう。佐奈も協力を申し出ている。一人で動くよりかは、幾分かやりやすいはずだ。  洵子は、コーヒーを飲み、真剣な面持ちになる。  「だけど、くれぐれも注意してね。理緒さんの行動がもっとひどくなるようだったら、それこそ警察や弁護士に相談するのよ。恋人とか上司だとか言っている場合じゃなくなるんだから。その時は、私も協力するわ」  「ありがとうございます」  洵子の心配する気持ちが、嬉しかった。母親のような優しさが伝わってくる。  その時、ポケットでスマートフォンが鳴動した。  スマートフォンを取り出し、画面を見てみると、理緒からの着信だった。  反射的に洵子の顔を見る。彼女はこちらの表情から、状況を察知したようだ。かすかに頷き、応答を了承する仕草を取る。  悠司は、着信ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てた。  「悠司。今あなた川崎駅にいるでしょ? どうしてそんなところにいるの?」  開口一番、理緒は悠司の居場所を指摘してきた。どうやら、位置情報アプリを使い、こちらの居場所を調べたらしい。  悠司は、とっさに嘘をつく。  「知り合いと食事してるんだよ」  理緒は疑い深げな声を出す。  「知り合いって誰? あなたの着信には、それっぽいものがなかったけど」  理緒は、アプリにより、こちらの着信履歴も把握している。だが、現在の着信履歴しか確認できないシステムらしく、履歴をすぐに消去してしまえば、消した分を追うことは不可能なのだ。  名前を変更しているものの、念のため悠司は、洵子や日向出版からの着信をすぐに消去するようにしていた。そのせいで、かえって理緒に別の疑問を与えてしまったようだ。  悠司は、洵子のほうをちらりとうかがう。彼女は、理解を示している表情を浮かべた。どんな内容でも、辻褄を合わせてやるという意思表示だろう。  「前の職場の上司と偶然出会ってさ」  「前の職場? それでどうして川崎駅なんかに?」  「買い物でこっちに用事があって」  「……」  理緒は押し黙った。信じていないことは、電話越しの雰囲気でわかった。  理緒は口を開く。予想通りの言葉を彼女は吐いた。  「ちょっとその人と電話を変わって」  悠司は洵子へ、スマートフォンを手渡した。今までの悠司のやり取りを聞いているので、事情は理解しているはずだ。  洵子は、スマートフォンを受け取り、理緒と話し始める。悠司は、しばらくの間、通話を行う洵子を見守った。洵子の受け答えから、理緒はひどく質問攻めしているらしいことがうかがえた。  洵子は悠司の意図を上手く汲んでおり、悠司にとって都合の良い答えを発しているようだ。悠司はひとまず安心する。  やがて、通話は終わり、洵子は無言でスマートフォンをこちらへ返してきた。表情が固い。  悠司は再び通話に応じた。  「もしもし」  「悠司? 私、今からそっちにいくからね」  理緒の唐突な申し出に、悠司は困惑する。  「どうして?」  「色々と心配で」  「心配?」  「またおかしなこと吹き込まれていないかって思って」  洵子は適切な受け答えをしたはずだが、理緒は信用していないらしい。言葉に影がある。  「そう言っても、もう俺たち解散する頃だし、相手にも悪いよ」  「いいから待ってて」  理緒は強引にでもここにやってくるつもりのようだ。もしも、理緒がきた場合、非常に面倒なことになるだろう。洵子にも迷惑がかかってしまう。  悠司は、必死に理緒を説き伏せにかかった。  やがて、理緒は不承不承納得してくれた。そのかわり、すぐにアパートへと戻るよう指示が飛ぶ。  悠司は仕方なく了承し、電話を切った。こちらの様子をうかがっていた洵子が、眉根を寄せた。  「はじめて話したけど、彼女さん……理緒さん、とても奇妙な人ね」  よほど印象が悪くなる会話をしたらしい。悠司は、内容を訊くと、洵子は暗い顔をみせた。  「根掘り葉掘り聞かれたわ。よほどあなたに執着してるのね。でも、なんだか……」  洵子は、そう言うと、つっかえたように、口をつぐんだ。悠司は気になって、質問を行う。  「どうしたんです?」  洵子は歯切れが悪そうな口調になった。  「いえ、なんでもないわ。私の勘違いみたい」  勘違いというよりかは、伝えるのを畏れているような態度を洵子から感じた。  悠司は、追及する。  「そこまで言ったのなら、最後まで話してください。気になります」  洵子は、顎に手を当て、困惑気味に答える。  「ただ、私の思い込みかもしれないけど……。理緒さんから、どこか『悪意』のようなものを感じたわ」  「悪意?」  「ええ。相手を苦しめてやるぞ、みたいな感情が言葉に隠れている気がしたわ」  「どういうことです? 大壁さんに対してですか?」  洵子を浮気相手や、貞操観念に悪影響を与える相手として認識していたのならば、おかしい話ではないが。  洵子は、首を振った。  「私というか、悠ちゃん、あなたに対してよ」  「俺に?」  「ええ。悠ちゃんに対してよ」  悠司は腕を組んだ。  理緒は、むしろこちらに大きな好意を抱いているはずだ。女性を前に、すぐに赤くなる純情な男として。  行動だけを見れば、確かに悪意そのものだが、それは彼女の中にあるパラノイア的な思考と狂気レベルの性嫌悪症のせいであり、実際は善意や好意が奥底にあるはずだ。理緒も常に言っているではないか。「あなたのため」だと。  悠司が、説明すると洵子は首肯した。  「そうね。私もそう思うわ。私が言ったことは、理緒さんと電話で会話して感じただけだから。ただの勘よ」  声だけの会話の場合、相手の容姿や仕草にとらわれない。言葉の裏に隠された真意を掴みやすくなる場合もある。だが、今回の洵子の勘は、信じていいのだろうか。  「とにかく、お互い気を付けたほうがいいわね」  洵子は執り成すようにして言った。
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