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「痛てて…」
転倒し地面にうつ伏せになったままの青年は、自分に降りかかった突然の事態を受け入れることが出来ず、しばらく途方に暮れていた。
ふと右手に痛みを感じ、その手を俯くように見てみれば、転倒した時に擦り切れた傷から血が滲んでいる。
(どうやらバイクを持ってかれたようだ、それは間違いない)
ようやく事の次第に気付いたはいいものの、この後一体どうすればいいのか?と思いつつ、のろのろと立ち上がった。
(こういう時って、110番すればいいのかな。でもどう言えばいいんだろう?刑事にバイクを盗られました、とでも言うのか。いや貸したのか?何か変だな…)
そんな事を考えていた青年の耳に、刑事の言葉が甦るように聞こえた。
『ちょいと借りるぜ』
(こんな光景どっかで見た事あったな…ああ、昔観た映画の登場人物が、何者かを追いかけているシーンだったっけ)
今だ状況を整理しきれていない為であろうか、青年の頭にはそんなことが漠然と浮かんだ。
映画の主人公は自身の目的の為に、追いかけていく過程で見知らぬ市民の車やバイクを我が物のように奪い走り去っていく。奪われた者達はただの脇役に過ぎなかったから、物語はそのまま進んで一瞬にして忘れ去られる。
(そのシチュエーションが、まさか自分に降り掛かるなんて…)
『ちょいと借りるぜ』
また刑事の言葉が甦った。
『おれのバイク〜』
映画のセリフまんまじゃないかと、青年は惨めな気持ちに覆われ始めた。
奪われた人はお役御免、物語から退場、おつかれさまでした…。
(それで…いいのか…)
青年は自らに問いかける。
“おまえはここで終わっちゃいけない“
架空の世界の名もなきキャラクター達、メインの物語から一瞬にして忘れ去られていった奪われし者達の声なき声が、青年には聞こえた気がした。
(くそ!何をボケっとしてるんだ…)
“おまえは違うぞ、脇役なんかじゃない、お飾りでもない、おまえはここに居るんだぞ“
(そうだ!今おれは、おれの足でここに立っている…)
青年に降り掛かった思いもよらぬ突然の出来事。その事によって生じたほんのひと時の幻聴であったのかは、さて置いて。
しかしその形の無い、虚構の世界の声なき声が、青年の魂を奮い立たせ突き動かしていったのは紛れもない事実だった。
(おれのバイクだ…)
もはや抑えきれない衝動が、沸き立つように溢れ出る。
(おれのバイクは…おれが絶対に取り戻してやる!)
決然とした青年の視界に映るショッピンセンターの駐車場は、蜃気楼のごとく揺れ動いて見える。
そのボンヤリした景色の中に一台のタクシーが停車していた。
そして、そのタクシーに寄り掛かるようにして煙草をふかす運転手の姿。
「出してくれ」
青年は運転手に言った。
「あいよ」
運転手は一言、そう応じた。
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